非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【愚民主主義国家日本】日本人に民主主義は早すぎた件

後書きのような前書きだが、僕はこのエントリを書いたあと、ル・ボンの「群集心理」と、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」をそれぞれ参照した。僕が戦慄したのは、問題提起や切り口が僕のエントリと通底していることと、さらにこれらの本がそれぞれ1895年と1929年に発行されていて、つまりおよそ100年も前にも同じ問題提起がなされていたことだった。

人類というのは、ここ100年以上も停滞したままなのだろうか。ちなみに前者を愛読書とし、ドイツ国民の大衆心理を見事に操作してみせたのが、あのアドルフ・ヒトラーである。

せっかくなので、ポイントを簡単に引用しておこう。まずは「群集心理」から、大衆の5つの特性である。

www.nhk.or.jp

  • 「衝動的」
  • 「暗示を受けやすい」
  • 「誇張的で単純」
  • 「偏狭で横暴」
  • 「ある種の徳性をもつ」

群衆とは、思慮に欠けて衝動的であり、ゼロイチの二項対立(敵か味方か)しか理解できず、その敵を排除するためならば極めて暴力的に振る舞うことができ、しかもそれが社会に対して害をなすことに無自覚である。

そして「大衆の反逆」から、大衆の定義である。

www.nhk.or.jp

NHKのこのサイトの要約が大変わかりやすいので、そのまま引用させていただく。この件については、NHKはいい仕事をしていると思う。

もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めます。自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」の誕生です。20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。

「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。

おいリベラルども聞いているか?リベラリズム創始者がこう語っているぞ。諸君の排他性を少しは反省したらどうなんだ。

まぁとにかく、これらの理解をもって、このエントリの本題に進むとしよう。

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国民主権の重さを今一度見直そうぜ

そもそもこのエントリを書いたのは、僕が非常に苛立たしい気持ちにあったからだ。僕の一世一代の海外旅行計画を、岸田内閣とコロナ脳どもに台無しにされたのである。

僕はANAのマイルをコツコツ貯めていて、今月ようやく、イギリス・ロンドンへの往復航空券と引き換えることができるようになったのだ。僕はビッグ・ベン巡洋艦ベルファスト大英博物館ウェストミンスター寺院を観光し、そしてクライマックスは、僕の永遠の憧れであるビートルズの聖地、リバプールを訪れる予定だった。

それが当面叶わなくなったのは、水際対策とかいって、海外個人旅行に事実上の制限、特に帰国入国ができない場合があるという制限を、厚生労働省経済産業省がかけたからだ。パスポートの有効期限も、マイルの引き換え期限も過ぎてしまうだろう。僕の人生最大のイベントは、こうして潰えた。

確かにこのガイドラインには「海外旅行に行くな」とは書いていない。しかしこれは霞ヶ関構文である。帰国前の自費検査の強要と、空港往復の公共交通機関の利用禁止、そして14日間の隔離生活という身体的拘束(宿泊費は自費)。これらを定めることで、個人旅行を事実上禁止したのだ。僕はこれは明確に私権の制限であり、とりわけ基本的人権における移動の自由を侵害していると考えている。

話を戻そう。僕が絶望したのは、この岸田政権の国民の権利侵害に対して、誰も彼もNoを言わないことだった。野党の国会議員や人権派を名乗る弁護士からも、反対は出なかった。野党まじ何やってんだよ。そういうとこやぞ。

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その理由は明らかだった。国民がこれらのガイドラインに賛成しているからだ。そしてそれに反対すると、国民の支持を失うからだ。つまり僕の基本的人権が侵害されたのは、国民がそれを望んだからだった

いい加減僕たちは、国民の意見は常に正しいという無謬性を疑うべきだ。実際のところ、僕から見れば、国民の大多数は無秩序であり、浅慮であり、怠惰であり、自分本意であり、攻撃的であり、排他的である。それでいながら自分の無謬性を信じている。国民主権といえば聞こえはいいが、このような連中に政治の主権を持たせること自体、僕は共同体運営として致命的だと思う。

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誤った連中や愚かな連中が政治に携われば、必ずその政治体制は破綻する。そして僕たち一般国民は、円安による経済苦やインフレによる日用品の調達困難、あるいは失業という形で深刻な影響を受ける。それは政治家のせいではない。その政治家を選挙で選んでいる、僕たち国民が悪いのだ。

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国民主権とはそういうことだ。諸君ら国民の1人1人に責任があるのだ。政治家に責任を転嫁するな。

政治家どもも勘違いするな。僕が政治家に最も言ってほしくない台詞は「政治の責任」だ。政治家はただの意思決定者である。政治家に責任など無い。思い上がるな。責任があるのは国民の方だ。国民の責任まで政治家のくせに負おうとするな。国民1人1人に、国民主権の名に相応する責任を求めろ。

民主主義という重さを理解しようぜ

民主政はなぜ大前提とされ、そしてその前提すら疑われることがなかったのか?考察を深めるために、欧州との対比を考えてみよう。民主主義は、欧州と日本で重みが違う。

欧州では、絶対王政に苦しんだ民衆が、血を流しながらも王権を打ち倒して、自由を得た。これ以上の闘争を回避するため、その自由をどのような階級や職業にあっても侵害されないことを目的とする政治体制として、民主政を導入した。つまり民主政は、個人の自由を維持するための手段である。絶対王政下では自由や生存権は容易に侵害されたから、それを回避しようというのだ。

しかし日本においての民主主義は、明治維新後に流入した数ある欧州文化の中の1つに過ぎない。日本において欧州のような市民革命が古今東西起きたことはないので、その裏側にある背景というか、重みや厚みがない。

つまるところ民主政は、「お上」に唯々諾々と頭を下げていた農民根性どもの上に、ある日突然降り注いだ政治体制である。板垣退助などの一部の政治家はそれを求めたが、国民の大多数は求めていなかった。この農民根性は現代に至るまで継承されており、この農民上がりどもにとっては民主主義のありがたみなど理解できるものではない。この連中は国民主権の概念を知らないのだ。

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民主政の致命的なバグと、戦争の反省

民主政の唯一にして致命的な欠点。それは、大衆が誤っている可能性を考慮していない点にある。

大衆は扇動されることによって、同じ言葉を繰り返されることによって、そして二項対立構造をもって、容易に行動を制御される。あの合理主義者のドイツ国民がヒトラー政権を誕生させたのは、まさにそれが体現されたものだ。ヒトラーは「群集心理」を愛読していたとされていて、彼は見事にそれを実践してみせたのだ。

これこそ民主政の致命的なバグである。大衆が誤ると政治が誤り、その結果として国土の破壊と人命の喪失という報いがもたらされるのだ。同じことはかつての大日本帝国でも起きた。メディアに扇動された国民の熱狂的な開戦圧力に押されて、政治家どもが開戦を決断せざるを得ない状態に追い込んでいった。そうでなければ選挙で負けるか、あるいは開戦派の国民の支持を受けた軍部がクーデターを起こすかのどちらかだったからだ。

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もちろんこれは現代日本でも見いだされる。35歳の僕が覚えている限りでも、小泉純一郎政権の「郵政民営化だったり、あるいは鳩山由紀夫政権のときの「政権交代だったり、そういう単純なスローガンをメディアが書き立てることによって、その方向に大衆が扇動されて、高い投票率と圧倒的な得票率のもとに政権が成立する様を、僕は見てきた。

もちろんその後はお察しである。前者では規制緩和によって非正規労働者が増加したし、後者では円安により国内の工場を海外に移転する会社が増え、産業の空洞化を招いた。いずれも末端の労働者が苦しい思いをする結末となった。諸君はこのことから何か教訓にするべきことはないのか?

ところで、僕たちは毎年夏頃になると、しきりに戦争の反省を口にする。二度と戦争をしない・させないと誓っているだろう。あれは全く的はずれだ。

戦争の反省というのは、メディアの扇動と、それに踊らされて熱狂的になった国民の情報受容の感度に帰せられるべきだった。僕は「我々は強制的に戦争に巻き込まれた」などと語る語り部どもに、「あなたは当時戦争に反対したか。それはなぜか。反対していたなら、それに対しての周囲の反応はどうだったか」と問いたい。それの回答がない限り、語り部どもは完全にただの被害者ヅラでしかない。

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まぁ語り部個人のことはともかく、要は国民どもは勝手にメディアに扇動されて、勝手に戦争に賛成して、勝手に反撃されて、勝手に家も家族も国土も失いましたというわけだ。自業自得というか、ざまぁwwwとしか思えない。

補足しておくと、明治憲法では明確に国民主権は否定されている(天皇主権)。しかし日清・日露戦争や大正期の自由民権運動を経て、国民の発言力は高まっていた。

そして昭和時代においては、既に国民は事実上の主権者だったのだ。対米開戦や対中戦線拡大に消極的だった米内光政内閣が倒れて戦争へ突き進んだのは、(メディアに扇動されて)開戦を訴えた国民と、それを無視できない圧力として利用した陸軍のせいだ。

そしてこれこそが民主主義の原則であり、自由の代償でもある。政府が判断を誤れば、国がなくなるのだ。このことを戒めとしなければならない。それこそが戦争への反省ではないか。

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愚民主主義と「大衆の独裁」

僕は大衆による独裁という不可思議な状態を、僕は見出す。つまるところ政治というのは、選挙で選ばれる以上、国民の意思にそぐわなければならない。そこに統計学や科学のような難しいことは持ち込んではならない。それらは大衆には理解ができないほど難しいからだ。

僕はコンサルタント大前研一氏の本で読んだことがあるのだが、1995年、大前氏が東京都知事に立候補したことがあった。その時大前氏は、600ページにも渡る政策集を発表した。それらはコンサルタントの視点から、極めて合理的かつ科学的に分析された、東京都の政策課題と解決策が表現されていたが、それを大衆は理解しようともしなかった。

結果として大前氏は、「世界都市博覧会中止・東京臨海副都心開発見直し」という極めてシンプルなスローガンを持ち出した青島幸男氏に敗れた。大前氏のレポート通り、他に問題は山積していたにもかかわらず。

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政治家の能力は国民の知的レベルによって決まる。愚民どもが選挙で愚かな政治家を送り込み苦しむさまに、僕は愚民主主義と名付けよう。

僕が言いたいのはつまり、僕たちはいい加減に、国民の無謬性を疑うべきだということだ。政治家が悪くて国民は正しいという図式から脱却するべきだ。

なぜか?国民は、その愚かさによって、知能の低さによって、怠惰さによって、あるいは考察力のなさによって、誤るからだ。「大衆の反逆」でも考察されていたとおり、大衆とは怠惰で頭の悪い連中であり、複雑な因果や関連の構造は理解できず、二項対立とスローガンの繰り返しによる刷り込みの世界で生きているからだ。

しかし政治家は、選挙制度がある限り、このような愚かな大衆どもを無視できない。なのでその大衆どもに理解でき、かつその大衆の意向に沿うことばかりを主張する。そうしないと選挙に負けるからだ。それが合理的でなくても。あるいは科学的でなくても。大衆が鹿を馬だと言うなら、それは馬になる。

この不可視化された圧力によって、「大衆の独裁」が完成する。そして民主主義である限り、誤っている側が多数派であるならば、その誤りを誰もが修正できない。そして破滅へと突き進む。これが民主主義の限界であり、末路であり、致命的な運命である。

もはやこれは、誰にも止めることができない暴走機関車だ。僕たちはその乗客である。このままでは脱線し大破する。死者も出るだろう。それを止めるには、「それは違う」と言い続けるしかない。

正直、中国が羨ましく思う

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実際のところ、中国というのはその意味で羨ましく思う。

今、大国に成り上がった中国の指導者は、指導者が誤れば、国民どころか自分自身が死ぬことを知っている。その責任が自分にあるという自覚がある。その責任回避のために、国家を成長させ続けなければならない。そこで民主主義国家では最も不得意なこと、つまり誤りを修正することができるようになっている

中国は、愚かな大衆ではなく、有能な少数のエリートが、問題に対して合理的かつ統計的に、科学的にアプローチを重ね、あるいは先進国の現代社会史すらも自らの糧としている。これはとても強い。

一方で僕たち民主主義国家の政治家どもは、目先の選挙のために、愚かな大衆に阿って道理も合理も捻じ曲げている。もうこれは勝負にならない。圧倒的な負けである。

愚かな大衆に政治の権限を渡さず、一部のエリートが合理的な政治をする。それで国が成長すれば、指導者側の立場は安泰だし、大衆も経済成長の恩恵を受けて豊かになれる。とても完成度の高い独裁国家のモデルだと思う。習近平のようなスーパーエリートが国家を操縦する限り、中国が衰退することはないだろう。羨ましいことだ。

民主主義は日本国民に相性が悪い

さて、こういう社会派エントリは議論が発散しすぎてしまう。いろいろ書きたいことができてしまうのだ。文字数が多くなってしまいがちで、申し訳なく思う。そろそろ結論を書くことにしよう。

一言で言えば、やはり日本国民に民主主義は相性が悪いということだ。日本国民には国民主権の価値も重みも理解できず、またよりよい政治を実現するために様々な知識や知見を得ようとする努力はしない。しかもその上で政治に参加するものだから、その結果国家が衰退しても自分の責任ではないと考えてしまう。

あるいは自分の自由や権利に無自覚的であるから、他人の自由や権利を容易に制限しにかかる。具体的には、僕の観察する限り、特にコロナ禍で思うのは、「お上」に支配されることを良しとする国民が、どうも相当数いるということだ。彼らは積極的にノーマスク派を糾弾し、自粛に反対する人々に攻撃を仕掛けている。その意味で彼らは、僕たち自由主義者人権派との相性も悪い。

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つまるところ、このような国民性であるから、おそらく民主主義は重すぎて、大衆どもの手には負えないのだ。このまま大衆が愚かであり続けるなら、そして国家が滅亡してしまうなら、いっそのこと独裁政治に戻すのも悪い選択ではないだろう。もし民主主義で失敗したのなら、その次の国家体制として民主主義を採用する理由はない。

国民主権の責任を大衆が負うことができないなら、民主主義の恩恵を受けるに値しない。いっそのこと、かつてのフランスの第三国民のごとく、独裁政治のもとで、一度徹底的に上級国民から搾取されるがいい。そうすれば理解するだろう。民主主義や自由主義の重要性を。

おそらく日本で真に民主主義が根付くのは、そのようなカタストロフィを経験したあとのことだろう。まぁ僕が生きている間には無理だろうなぁ。

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