孤独な老後の恐怖を克服しよう。一生独身だし孤独耐性を高めよう
1ヶ月も前に書いたエントリを今更ながら投稿する。世間一般では大型連休の時期が終わった。「コロナ明け」というタイミングもあり、高速道路や観光地は人混みと渋滞でごった返していたという。そんな中僕は、日々の必要な買い物以外は家に引きこもり、寝て食ってまた寝るという「睡眠貯金」を増やしていた。
これは僕からすれば、過去20年以上にもわたって振る舞っている「情報強者しぐさ」であった。世間一般が移動でごった返す中で、僕は渋滞や人混みに 消耗することなく、体力を温存していたのだ。
しかし、その温存した体力の使い道は、なかった。僕は誰にも会うことなく、何のアクティビティをこなすこともなかった。
世間一般の健常者どもは何をしていたのか?家族やカップル、あるいは友人連れで、渋滞のひと時すら車の中で楽しんでいた。彼らは一緒の時間を過ごせる大切な人たちと共に過ごしていたのだ。そんな世界の中では、彼らは消耗していなかった。確かに移動疲れやアクティビティで体力そのものは消耗しただろうが、それと引き換えに「絆」「信頼」「友人」「パートナー」などの、無形の財産を手に入れていた。
バカめ。この僕の何が情報強者なものか。本来の情報強者であれば、将来の孤独に備えて、一緒に人生を歩める他者を求めるべきだったのだ。
正直なところ、僕は一生独身の孤独死を覚悟していたはずだったのに、その覚悟が明らかに揺らいでいる。今40歳を目の前にして、共に歩む人間が存在しないことに、寂しさを覚えてしまっている。若かりしころ、一生独身の孤独死覚悟したと宣言したのは、ただの若気の至りだったのかもしれない。
非モテ弱者男性諸君は、孤独な老後を迎えることに、不安になっていないか?しかし何も心配は要らない。僕たちは孤独に生き、孤独に死ぬのだ。
このエントリにたどり着いたということは、読者諸君はおそらくこういうことを感じているはずだ。これからの自分がどのような結論を先に述べると、それは僕たちが孤独に生きていた帰結であり、その生き方に対する報いでしかない。一体何の恐怖や葛藤があるのか。
今更後悔しても遅いのだ。
たとえば、諸君は昔は結婚願望があったかもしれない。愛する妻と子と暖かな家庭を築くことを目指して、さまざまな努力を重ねたかもしれない。あるいは既に若かりし頃から達観し、自分は結婚しない/できないと心を決めたかもしれない。
40歳に差しかかって独身でいる人間というのは、そのどちらかだ。そうこうしているうちに僕たちは少しずつ、交友関係を失っていく。かつて友人づきあいのあった連中は、みんな結婚したか、あるいは音信不通になったり失踪したりした。
僕には今数名の地元の友人がいるが、彼らはたまにゴルフやフットサル、飲み会をやるタイミングでしか会わない。ゴルフやフットサル仲間なら、それらをしない場合は用事がないので連絡しないし、飲み会もどちらかが飲ろうと言わない限り、年単位でコンタクトを取ることがない。
実際のところ、40手前の独身男性というのは、そのコミュニケーション範囲が狭くなる一方だ。職場ではどうしても上下関係や利害関係を抜きにできないし、同年代は結婚しているやつが圧倒的多数だし、先輩ならば気を遣い、後輩ならば気を遣われ、性別が違えば(弱者男性は気にしなくてもいいかもしれないが)恋愛沙汰の面倒臭さも回避する必要がある。全く広がり目がない。
つまるところ僕たち孤独死予備軍が生きていくには、孤独耐性を高めていくしかない。それはまぁいいとして、言いようのない寂しさを、何とすればいいのだろうか。
このタイミングで寂しさを感じるということは、それは遺伝子レベルのSOSであると定義して差し支えないだろう。僕たちはそもそも、遺伝子レベルから、 孤独を回避するように設計されているのだ。
僕たちはこの、連綿と受け継がれてきている社会的な遺伝子の作用から、逃れることはできない。それは社会的動物たる人間の進化史そのものであり、今ここに生きているものの全ては、孤独な状態を寂しいと感じるようになっているのだ。
より正確に言えば、人類の進化の歴史の中で、単独でも孤独を感じない思考回路を持つ個体は、子孫を継承できず絶滅したのだ。恐らく脳が少しばかり大きい程度で膂力に劣る類人猿を、当時の厳しい自然環境は生かしておかなかった。その環境を社会集団という解答で生き残ったのが、現行人類の祖先であり、彼らは皆社交的な遺伝子を持ち、その働きで孤独な僕たちは寂しさに苦しむというわけである。
この寂しさを抱き抱えながら孤独に死んでいくこそが、僕たちにとっての「死の味」なのだ。僕たちは無為に生きすぎた。その報いを受けるべき時が来たのだ。僕たちはそこから逃げてはいけない。僕たちはこれからも孤独耐性を高め、孤独死を受け入れよう。