非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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多様性という不寛容〜最も嫌いな表現を守るということ〜

多様性とは非常に魅力的な言葉である。僕たちの社会は、多様性であることを目指している。しかしそれを実践するには大変な苦労と強い覚悟とが必要だ。このエントリでは、多様性を目指すことの辛さと、それが内包する自己矛盾について考察しようと思う。

多様性は不快である、という大前提

率直に言って、多様性社会というのは不快である。なぜなら僕たちの文化や常識から最もかけ離れている文化や表現を承認することであるからだ。そんな不快さをもたらす多様性とは、それでも目指す価値があるだろうか。その先にあるのはお互いがお互いの手を取り合う美しい未来だろうか。僕は違う景色を見ている。

多様性社会の中では、自分が最も許容しがたい表現や文化を許容しなければいけない。その許容するかしないかは誰が判定するのか?自分の良心か?その良心が他人と異なる判断であるなら、それはどちらが正しいのか雌雄を決するための闘争を経る必要がある。

しかしそれで闘争ばかりしたのでは、社会は分断され小さな共同体に成り下がってしまう。やはり社会というのは大きければ多いほどいいし、人数が多ければ多いほどいい。

そういうわけで、様々な文化やルーツを持った人間が集まる場所では、お互いがお互いの文化や習俗を、お互いの安全や生存に影響しない限りにおいて尊重するという姿勢が必要になる。つまり、社会の統合という大きな目的のもとに、お互いがお互いの不快さを我慢すること。これが多様性の本質だ。

junny-policies.hatenablog.com

その意味で、多様性社会の実現を訴える立憲民主党のような政党を、僕は支持しない。彼らは多様性社会がもたらすデメリットを語らないし、そのデメリットを国民に押し付けて我慢を強いる重大さを認識していないように見えるからだ。

「君の言うことには反対だ。しかしそれをいう権利は守られるべきだ」

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多様性の衝突は、その多くは表現の衝突になる。

啓蒙思想家のヴォルテールはこの言葉は実際に言っていないとされているが、しかしそれはこの名文句の価値を損なうものではない。実際誰が言ったかは知らないが、全ての人々は、この言葉を身にしみるべきだ。多様性とか異文化交流とかが盛んになる現代では、異なる文化や表現と触れ合うことも多くあるだろう。その中にはほぼ間違いなく、僕たちの文化や社会常識的に許容できないものが含まれることになるだろう。

BTSの原爆Tシャツという多様性を守ろうぜ

かつて韓国の音楽グループ「防弾少年団」(BTS)が、原爆のTシャツを着用して炎上したことを覚えているだろうか。BTSは原爆Tシャツを着た。それに対して僕たちが不快や怒りを表明した。それでこの話はおしまいのはずだが、実際にはそうはならなかった。

www.bbc.com

もし僕が表現の自由を支持する者であると証明するなら、今回のBTSの「原爆Tシャツ」を許容する必要がある。なるほど確かに、過去に原爆を投下された民族の子孫としては、原爆によって多くの市民が殺傷された歴史が思い起こされて甚だ不快になる。その流れで、僕たちが原爆TシャツとBTSに対して怒りと不快感を表明するのは、極めて合理的である。

BTS(とその所属事務所)は実に商才豊かである。セールスの得意先である日本からの受けるマイナスイメージを払拭するべく、すぐに謝罪のコメントを出した。この素早い判断は評価に値する。間違いは誰にでもあることだ。彼らのうちのメンバーの一人は、(もしかしたら多少の反日感情があったかもしれないが、)特に何も考えずに原爆Tシャツを着て、それが時を経て時限爆弾のように炸裂したに過ぎない。

あるいは、きのこ雲の写真が日本人へもたらす意味を知らなかったとも考えられる。彼らは日本人でないのだから、知らなくて当たり前である。僕たちがドイツ国内において、何も考えずに右手を上げて高らかに友人に挨拶をするならば、その場にいるドイツ人の心象を損ねることと同じである。

右手を上げて挨拶するという行為は、ナチス式敬礼と解釈され、ドイツ国内においては禁忌とされている。しかし、異文化交流とか多様性とか共生社会というのは、こうした価値観の違いを受け入れ、それによって不快に感じられてもそれを許容することから始まる。

とにかく、話はそこで終わるべきだった。ある声高な連中は、BTSに対して謝罪を要求し、原爆Tシャツの販売差止めなどを求めた。もし僕たちの国が、多様性を標榜する自由主義国家であるならば、僕はそれをするべきではないと思う。職業上の理由から撤回したものの、本来BTSのメンバーの誰もが、気に入った服を着るべきなのだ。そこに原子爆弾のきのこ雲が描かれていたとしても、多様性社会では認められる必要があった。

最も嫌いな表現を守るということ

なぜ僕たちは、最も嫌いな表現を守らなければならないのだろうか。

自分の最も嫌いな表現を守ることは、自分の表現を守ることだ。自分の最も嫌いな表現を攻撃することは、自分の表現が攻撃にさらされるということだ。

多様性社会において、許容される表現と許容されない表現というのは、各個人においてその水準が異なる。Aさんにとって好ましい表現物が、Bさんの不快を催すことがある。それなら、Bさんの不快を考慮して、その表現は排斥されるべきだろうか?

もしその表現が排斥されたのなら、Aさんの表現の自由(表現をすること、表現を楽しむこと双方の意味)が抑圧されてしまうことになる。自由主義国家でそのようなことはあってはならない。だから、社会的に許容される表現のガイドラインが、法律などで決まっているのだ。その法規制に従っている限り、全ての表現は認められる。基準は法律だ。決して特定の誰かの「感覚」などではない。

そういうわけで、ドイツやオーストリアで鉤十字やナチス式敬礼の表現が法律で規制されているのは、これは表現の自由が抑圧されていることにはならない。法律で規制されているものは、法律を変えることによって規制を解除することもできる。そういう選択を国民が望んでいないだけだ。

多様性という点で多くの人間が勘違いしているのはこの点で、許容される多様性と、許容されない多様性の基準の判断基準はどこにあるのかという話である。

とくに多様性を訴えるリベラルやフェミニストどもに顕著なのは、いわゆるダブルスタンダードというやつで、自分の好ましい表現については許容し、それの性別や立場や役割の反転バージョンは許容しないという傾向だ。彼らは自分の好みに合う多様性しか好まない。

例えば露出の多く性的アピールも伴う女のイラストは許容されず、同様のイケメン男性のイラストは許容されることがある。こういう態度は実に良くない。

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現代リベラルやフェミニズムと多様性の相性は最悪だ

まぁそこは趣味嗜好の話でもあるのだが、もしこの連中が、多様性に賛成しているのであれば、寝言は寝て言えということである。多様性社会においてもっとも重要な「寛容の精神」を、誰も持ち合わせていないからだ。

繰り返しになるが、寛容であるということは、自分が最も許せない表現や文化を許容することである。フェミニストどもが多様性を自認する限り、全ての二次元美少女イラストは許容されるべきだ。そして同じようにリベラルは、ドナルド・トランプの演説の動画がネットに拡散することを抑止してはならない。

このように、多様性社会というのは、社会や文化の違いが直接的に衝突する社会でもあるため、非常なストレスと不快さを感じつつ生きる社会になる。そのようなデメリットも踏まえて、僕たちは本当に多様性社会を望んでいるのか、今一度考えてみるがいい。

そしておそらく、「多様性社会」は誰も望んでおらず、究極的には実現不可能である。それよりも、特定の主義主張や社会文化を持つもの同士で固まって、あるいは隔絶して生活するのが、「多様性社会」の結末ではないだろうか。

「多様性を拒否する」という多様性を守ること

そしてもう1つ、多様性社会は致命的な自己矛盾を抱えている。それは、「多様性社会を拒絶するという多様性」を許容する必要があるためだ。おそらくこれはとても大きな問題で、多様性社会を拒絶する者を排斥した場合、「多様性社会を許容する人間だけの社会」という、多様性の欠けた社会が成立してしまうのだ。

多様性社会の住人にとって、多様性社会を拒絶する集団に対して社会の便宜をはかることを民意とするのは、彼ら自身に反目する集団に得をさせることでもあり、非常に難しいことだ。このように、おそらく原理主義的に多様性を追求し続けていくと、どこかで社会が破綻するように思う。

まぁそう考えると、率直に言って、多様性社会などは無理して目指すべきものでもない。人間というのは、価値観や習俗が近しいものどうしが寄り集まって集団を形成する上に、その集団同士はお互いに干渉しあうことはない。非モテ非モテの、既婚者は既婚者の、サブカル系はサブカル系の、意識高い系は意識高い系の、アウトローやヤンキーはそれ相応の集団の中で生きていく。無理して多様性を目指さなくとも、結局その小集団が並立することで、意図せずにも勝手に多様性が成立しているというわけだ。

そういうわけで僕たちは、多様性社会だからといって、無理に異文化や他習俗のことに理解を示す必要はない。不快に思うこともあるだろうが、それによって攻撃をすることなく、相互不干渉の態度でいることだ。この社会には、様々な集団がある。自分たちが不快にならない程度に、それらの集団とうまく距離をとって生きていくことが、結果として多様性社会の持続につながっていくことだろう。

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