非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【プロ野球】アスリートを応援する価値が分からなくなってきた件【Jリーグ】

野球もサッカーも今年のシーズンが終わり、移籍市場が賑わっていたり、あるいは誰それが残留や契約更新したりして悲喜こもごもである。

僕は以前、スポーツ選手を観察するエントリを書いたことがある。

junny-policies.hatenablog.com

これらのエントリで僕が語ったことというのは、スポーツ選手だって人間だし、少なくとも日本の会場で金をとって見せている限りは、日本で一番そのスポーツがうまい連中の集まりだから、リスペクトをするべきだ。そしてブーイングはするべきではないと否定した。

僕は最近、そんなアスリートたちの価値をあまり理解できなくなっているのだ。いや、もっと正確に言えば、僕は最近、アスリートたちを応援することの価値を理解できなくなっているのだ。

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うまくプロスポーツと距離を取り、リスペクトしつつ楽しむこと、かつそれをあまり自分ごとに置き換えないようにしようとも僕は語った。今はこちらのエントリをより先鋭化したような心持ちになっている。

今僕は心変わりをしつつある。具体的には、僕はアスリートに対して、罵倒することを許容するべきだと思い始めている。

アスリートとかいう特権階級上級国民

よくよく考えてみるがいい。アスリートというのは、ブラジルのスラム街のストリートサッカー育ちでもない限り、よほど家庭環境に恵まれた上級国民どもである。なぜならアスリートになるには、先天的な身体能力に加えて、両親を含む周囲の人間からの手厚いサポートが必要だからだ。つまるところアスリートというのは、合宿だの大会だので全国を飛び回るだけの遠征費や、消耗品の備品を買い換えるだけのコストを支払う能力がある、特権階級の象徴でもあるのだ。

アスリートは、夢を叶えたり、感動を与えたりすることを見せたいと語る。だがその実、必要なのは周囲のサポートだ。ボロボロになったサッカーボールやスパイク、バットやグローブを買い換えられるだけの、あるいはスクールやクラブチームに入団し活動し続けられるだけの財力であり、または遠征するのに必要な移動手段や宿泊などの確保、コーチへ支払う指導料など、あらゆるものが金銭を介してそのアスリートをサポートしている

僕は純真だったから、努力すれば夢は叶うなんて思っていたが、こうして大人になってみると、どうもそうではないことが人生訓として理解できる。つまりアスリートに必要なものは、夢や情熱は必須ではあるが、それだけでは十分ではない。夢や情熱や、あるいは野心が他人より強いこと、持って生まれた身体能力、さらには養成にかかる財力と人的リソース、そしてスカウトの目に止まる幸運が必要である。それがなければ、トップアスリートとして成功できない。

こうして因数分解していくと、アスリートが周囲の人達に感謝するのは当然であることも理解できるだろう。何かのインタビューで「支えてくれたすべての人々に感謝」することが、どれだけ当たり前のことを言っているか

そういうわけで、今成功しているアスリートどもは、極めつけの特権階級なのだ。アスリートどもはここまで身も蓋もない話を語らないので、僕はアスリートどもを信用しなくなったし、合わせてアスリートが応援するに値しないと判断することができた。

もちろん、恵まれない環境からのし上がったアスリートは、もちろん僕は応援しているのだが、そういうアスリートは、自分がそのような環境で育ったことを語らない。なので僕は、誰がそうであり、僕が応援するべきなのかがわからない。

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ついでに言うと、僕は高校野球とか高校サッカーとか春高バレーとかが嫌いだ。あれらは輝かしすぎる青春なので、青春コンプレックスを抱える僕には痛すぎる。にもかかわらずこの時期になるとそういうニュースが見たくなくても入ってくるので、とても不快な気分になる。

美しくて未来のある若者を見るのは、苦しいことだ。色んな人から応援されて、彼女の1人や2人いるだろう。高校生くらいの、僕にとってどん底だった時代を美しく輝かしく過ごしている連中を見ると、憎しみすら湧いてくる。

アスリート応援とかいう底辺搾取構造

さて、このような考察を踏まえて、フィギュアスケート羽生結弦選手、MLB大谷翔平選手、有象無象のプロ野球選手やサッカー選手を見るがいい。下部リーグに所属しているのでもなければ、彼らは最も恵まれた身体能力を持ち、最も育成環境に恵まれ、その能力と幸運をもって最も金を稼いでいる連中である。

僕たちはこれまで、彼らを応援してきた。彼らの活躍や勝利に歓喜し、敗北に打ちひしがれてきた。

一方で今、野球やサッカーはシーズンオフで、誰それが移籍するだの、あるいは奥単位の年俸で契約を更新するだの、そういうニュースが飛び交っている。そこに僕は、今や違和感を感じるようになった。

トップアスリートどもの年収は、僕たち底辺サラリーマンの100倍以上にもなる。それを僕たち年収300万円程度で必死に生活している底辺サラリーマンが、ありがたがって応援しているのか。グッズやチケットを買ってさらにこのアスリートどもを肥え太らせるのか。何だ?アスリートとは底辺層を対象とした集金機械なのか?つまるところただの搾取なのか?

それでもアスリートにリスペクトを込めて

少し考え直してみよう。僕たちがプロアスリートの姿を見に行くのは、主にスタジアムである。今僕たちはサッカースタジアムに行こう。僕たちは何をしに行くのか。当たり前のことだが、スタジアムに足を運ぶ人たちの目的は人それぞれだ。ホームチームの応援をすること、会場の一体感という非日常を感じること、サッカーそのものを俯瞰的に観察すること。様々な目的のもとに1つの会場に人々が集まる。

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しかし、僕が思うに、ほとんどの観客は、自分が応援するチームが勝つところを見たくて足を運んでいるのだ。いや、より正確に言えば、自分が応援するチームが勝とうと必死になっているところを見たいのだ。そうして観客に気持ちよくなって帰ってもらうために、アスリートたちはその劇場の劇団員となって、シナリオのないドラマを披露する。

ブーイングとリスペクトは両立する

僕たちのアスリートへの要求は、つまりこういうことだ。勝利を目指し、その歓喜を持ち帰ること。それに応えることだけが、アスリートたちの価値なのだ。つまり勝てなかったこと、歓喜をもたらせなかったこと、あるいは勝てないまでも勝とうとする姿勢が伝わらなかったこと。このような場合は罵声やブーイングを浴びせられて当然である。なぜならそれらは、いわばアスリートの側の債務不履行に値するからだ。

そんな中で僕はこれから、リスペクトを欠かずにブーイングをしようと思う。つまり彼らの人となりや個人そのものにブーイングをするのではなく、勝てなかったこと、勝とうとする姿勢を感じられなかったことに対して。何よりも、甘ったるいプレーで拍手をもらうことは、自分に厳しいアスリートたちにとっては逆に冒涜になる。ならばその心意気に応えて、その結果のみに対してブーイングを送ることにしよう。

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