【曹操】天下統一目指すやつってサイコパスだよな【三国志】
僕は幼少の頃から歴史ものの作品やコンテンツが好きだった。図書館にあるような「漫画日本の偉人伝」「世界の歴史」「日本の歴史」は全て読んだし、あるいは古代中国の三国志とか、安土桃山時代の群雄割拠の時代が好きだった。中学生の時、学校の空き教室に忍び込んで、保管されていた横山光輝三国志を愛読したこともよく覚えている。
三国志は、後漢帝国末期の乱世に現れる英雄たちの物語である。英雄。英雄である。英雄とは何なのだろうか。
三国志の英雄とは誰だろう。主人公格の劉備か、またはそのライバル格の曹操か。あるいは江東の碧眼児孫権か。少なくとも後半の主人公格である諸葛亮を英雄だと言う人は少数派だと思われる。蜀陣営においては関羽が英雄であるという人もあるが、張飛や趙雲などを英雄だと言う人はいるだろうか。魏陣営の司馬懿や張遼はどうか。呉陣営だと呂蒙や陸遜あたりはどうだろう。
三国志の序盤のクライマックスは、曹操と劉備の英雄談義だ。劉備は曹操に英雄とは誰かを問われ、袁術や袁紹、劉表といった当時の群雄の名前をいくつか挙げるが、ことごとく曹操に却下される。そして曹操は劉備に「英雄とは君と余だ」と言い放ち、それを聞いた劉備は己が曹操に警戒されないために、雷に驚いたふりをしてテーブルの下に隠れて笑われる、という場面である。
僕はこの場面を思い返すと、いよいよ英雄というのがわからなくなってくる。この場面の後、この両雄は、とにかく民衆と、敵味方問わず軍隊を、直接的にも間接的にも殺しまくるからである。
例えば曹操。曹操は陶謙が治める徐州に侵攻した際、徐州の民衆10万を殺し、また劉備のいる荊州・新野城を攻撃した際も、劉備に付き従う新野城の民衆10万を殺したのだ。その前後においても、長安に撤退する董卓軍を追撃して返り討ちにあったり、呂布との濮陽攻防戦で手ひどく敗れたり、最も大きなものは赤壁の戦いで大きな被害を出している。おそらく曹操1人で殺した数というのは、100万人にもなるのではないか。
そして人徳の士と評される劉備もまた然りである。もともと劉備の兵力は義勇軍であるがゆえに寡兵であり、挙兵の理由も、漢の圧政と黄巾の乱に苦しむ民衆を救うこと、そして漢王室を再興し平和をもたらすことが目的であった。曹操との英雄談義で雷に驚いたふりをしたのも、献帝の密命を帯びて、当時権勢を振るっていた曹操に反旗を翻す算段を整えつつあったからだ。
劉備についてはもう1つ、赤壁の戦いの後日談で、破れたとはいえ未だ強大な力を有する曹操や、江東の実力者として覇権を確立した孫権らに対して、天下はより乱れ、自らを含めた三つ巴の闘争を楽しみにしているような描写がある。劉備はワクワクした面持ちで笑みを浮かべながら、彼らとの将来の対決を心待ちにしているのだ。
戦うことを楽しみにしている事自体、これまで戦乱や乱世に苦しむ人々を救いたいという、挙兵時の理念を忘れ去っている気がする。漢王室の再興という目的すらも忘れてはいないか。曹操に下って戦乱を終わらせ、曹操一強による平和をもたらすという選択肢はなかったのか。何なら自分が戦乱の元凶になってどうするんだ、劉玄徳よ。
劉備の陣営が寡兵である状態は、劉備の益州攻略・漢中王即位の頃には解消し、その後劉備は蜀漢・成都の地を足がかりに、多くの数十万単位の多くの兵力を抱えることになった。以降劉備は変質し、荊州を守っていた関羽が呉軍に処刑されたことで呉に対して大軍を発動し、夷陵の戦いで敗れて多くの将兵を失った。
平和の実現と漢王室再興を目的としていた劉備は、義兄弟たる関羽を殺された報復として、呉へ侵攻し多くの呉軍の命を奪い、味方の軍の命も失わせる結果となったのだ。本来であれば、漢王室の再興という名目からしても、献帝に魏王に奉じられつつその政治の実権を握っていた曹操に、その軍を向けるべきであった。趙雲や馬超が諌めたが、劉備は聞かなかった。劉備の老害化といえばそれまでなのだが、しかしてそれは英雄のやることだっただろうか。
もしかしたら、三国志の世界には、英雄などいなかったのかもしれない。武勇や軍事の指揮に優れた将軍や王がたまたま割拠した時代であるというだけなのかもしれない。
燕雀安知鴻鵠之志哉
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、という言葉がある。始皇帝が統治する秦帝国の支配に対して反乱を起こした陳勝が言い放ったとされ、スズメやツバメのような小さな鳥には、大空を駆けるヒシクイや白鳥の気持ちなどわかるまい、と嘆息するものである。
曹操の徐州大虐殺事件や荊州の民衆の襲撃など、そもそも曹操が天下を統一したならば、彼らは将来的に曹操の支配下におかれる民衆であったはずだ。それなのに当時の敵対勢力に従っているからといってそれを殺せば、民衆の恨みを買い、将来の反乱の種になってしまうはずだ。そういうわけで、僕は曹操のような聡明にして思慮深い人間が、天下統一の野心のもとに、その社会基盤となる民衆や農民を皆殺しにする道理がまったくない気がしている。
僕の認知的不協和は、つまりこういうことだ。僕は英雄が好きである。しかし英雄とは、自分の目的のために他者の命を平気で奪う存在でもある。ならば英雄が好きな僕は、他者の命を大切にせず、それは失われても仕方のないことだと思うのか?それは違う。僕は心優しき合理主義者だ。僕は全ての人の自由と幸せを願っている。
なるほど、もしかして僕も、時代感覚が違うとはいえ、英雄のやること為すことなど理解できない燕雀にすぎないのではないか。僕はそんなことを思ったりする。だとすれば、英雄とは、目的達成のために命を犠牲にすることを厭わない存在である。しかもそれは他人の命もそうである。英雄にとっては他人すらも必要な犠牲だ。
英雄=サイコパス
英雄とは、人と自分の命の喪失を厭わず、それでいてそれを納得させてしまうだけのカリスマ性がある人間のことを指すようだ。それはつまり、現代で言うところのサイコパスである。
そういうわけで、三国志を読んで心酔している人間というのは、サイコパス大好き人間であり、おそらく自身にもサイコパス的要素をもっていることになる。そう考えると、三国志の読者とは、少々危険人物扱いされてもいいのではあるまいか。曹操も劉備もサイコパス気質だったのかもしれない。
同様に、強烈なカリスマ性に憧れるのは、まぁ理解できなくもない。アレクサンドロス大王、チンギス・ハーン、織田信長、ナポレオン、あるいはウィンストン・チャーチルの名のもとで、どれだけの人間が死んだだろうか。
僕なんかは織田信長の石山本願寺攻めや比叡山焼き討ちなどの戦記を読んで、信長マジやべぇ(恐怖)などと思ったものだ。数十万人の命を奪った人間であることを考えると、楽市楽座の恩恵を差し引いても、あまり肯定的に捉えることができない。
人間にも物事にも表と裏がある。英雄の覇業の裏には、大量の人間の死が隠されている。英雄談義は面白いが、僕たちが英雄論を語るとき、その英雄によって奪われた命について、僕たちは重みを感じる必要があるだろう。僕たちは物事の本質を捉えられるようにしよう。