非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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自由という不自由〜水泳の自由型はクロールばかり〜

水泳には自由型という種目がある。何が自由なのかといえば、クロールや平泳ぎ、バタフライといった様々な泳ぎ方や、あるいは犬かきのような泳法ですら許容される、文字通り自分の好きなように泳ぎ方を選ぶことができる。

しかし僕は、自由型といえども、実際のところはクロールばかりであることを見出す。このことは、自由であることの不自由さを端的に示している。そしてこのことは、水泳の世界だけではなく、僕たちが人生を歩んでいくにあたって重要な示唆を与えてくれる。

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自由という生きづらい世界

そもそもなぜ自由型がクロールに落ち着くかといえば、単純にそれが最も競争に勝てるからだ。競争の世界である限り、その選択はより勝てる方法に絞り込まれ、それ以外の選択肢は顧みられることがなくなる。そのようにして、自由な世界からは選択肢が失われていくのだ。つまりその最善の選択しか取りようがない、不自由な世界に収斂されていく。

例えば野生の馬は俊敏でなければならない。俊敏でない馬は肉食動物に食い殺されるからだ。俊敏でない限り、「頭のいい馬」や「おっとりしていて優しい馬」であることは許されない。

僕たちは常に自由を要求する。あるいは意識高い系の連中が、労働の自由化とか言って自由に解雇できるような労働体系を要求したり、あるいはグローバルな競争社会を望んだりすることもあるだろう。僕たちはこのように自由であることを要求する前に、その領域において自由であることが本当に僕たちの生存を脅かさないか、注意を払う必要があるだろう。

自由な社会と不自由な安全

僕たちが自由であるというのは、何者からも守られることがない状態のことである。僕たちがいかに自由であるからとて、金を払わないままでラーメンを食べることはできないし、人を殺していいことにもならない。その意味では、僕たちは主に民法や刑法でその身を守られているわけだが、そういう法律には「○○した場合は××の罪として△△の刑罰とする」ということが書かれているだけで、「○○してはいけない」と書かれているわけではない。

僕たちが法律に守られているというところの実情は、つまり○○しない代わりに○○されないようにするという紳士協定のようなもので、その社会においては○○するという選択肢は事実上与えられていない。根本的に不自由な社会でもある。そしそれは安全とバーターである。

僕たちの社会は、「人を殺す」という選択肢が紳士協定的に排除されている。その意味で不自由である。しかしその代わりにお互いの安全が担保されている。そして社会というのは、その不自由と紳士協定の集合体で成立している。

自由になるには決断が必要である。ある人が「人を殺す」と決断した時、その人はその社会の不自由から解放されるだろう。しかし同時にその人は、安全保障を失うだろう。そういうわけで人を殺しそうな人間は、特に無勢の場合は集団的に暴力を受けることになる。そしてその人は、その責任を償わなければならない。

このように、自由には決断と責任が伴う。

あるいは、こういうこともある。若い意識高い系の実業家が、定年の若年化や自由競争、グローバル化を必死に訴えたとしよう。もし僕たちがそれに乗っかるなら、それによって何を失うかを考える必要がある。これまで年功序列でうまくやってきていた人は、ある日突然競争社会に放り出されては生きていけなくなる。

自由競争社会では、敵はより強いものが現れるので、自分はより強くなる必要がある。英語やITやファイナンスマーケティングなどの様々な知識を得て、実務経験を積む必要がある。そしてそれについてこれないような、弱きものを切り捨てる社会で生きていく必要が出てくる。

多分その世界はきっと息苦しいはずだ。常に上を目指していなければ、いつか自分が捕食される側に回ってしまうからだ。しかし、自由競争の社会とはそういうことだ。無能には生きづらい。諸君は本当にそんな世界で生きていくことを臨むのか?

なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、フェンスを撤去してはいけない

強きものはそれでも良かろう。しかし僕たちのような無能は、真っ先に強きものの餌食になる側ではないのか。意識高い系の非モテ諸君、実は諸君は弱きものなのにも関わらず、ただただカッコよさに惹かれて自由を要求していないか。

僕たちは生存や安全を担保される限り、不自由を許容する必要がある。それは法律的な話もそうだし、社会的な観点でも同じことだ。これまで存在してきたルールや既得権益がなぜ生まれて維持されているのか、僕たちは立ち止まってよく考える必要がある。

僕たちが強きものでない限り、自由は僕たちに牙を向くことがある。僕たちはひたすらに自由を求めるのではなく、時には必要に応じて不自由を受容することでうまく守られながら、より気楽に生きていく方法を模索しよう

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