非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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特攻隊とコロナ自粛:若者犠牲という共通点

零戦三二型目当てで大刀洗平和記念館を訪れた

先日福岡に遊びにいったときのことである。大宰府参りの帰り道、僕は大刀洗平和記念館に立ち寄った。大刀洗平和記念館は、かつて国内有数の飛行場だった太刀洗飛行場の跡地に建てられた戦争博物館である。僕がここを訪れたのは、世界でこの場所にしかない、零式艦上戦闘機三二型と、九七式戦闘機を見るためだ。

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僕は戦争博物館や平和記念館、あるいは軍人墓地とよばれる施設をいくつか訪れたことがある。これらはすべて、戦争の惨禍を後世に伝え、その中で散華された先人を追悼することを目的としている。

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僕はそこで、いつも神妙な気分になる。僕たちは、少なからず特攻隊として散華された先人たちの恩恵を受けている。平和とは戦争を思い出さない状態を意味するのであれば、今僕たちは平和を謳歌しているに違いない。そう考えると、先人たちへの感謝がこみ上げてくる。

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大刀洗平和記念館の零式艦上戦闘機三二型。他形式と異なり翼端が四角く、良好な運動性能を誇った。

正直なところ、大刀洗平和記念館で抱いた感想は、他の戦争博物館や平和記念館で抱いたものと同じであり、目新しいものは特になかった。また超重爆撃機B29の大きさと、それを迎撃した二式複座戦闘機「屠龍」の大きさ比較という展示もあったが、僕はアメリカで両者ともに実物を見たことがあるので、それもあまり興味を惹かれるものではなかった。

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それにしても、やはり戦争というのは忌まわしきものだ。太刀洗飛行場は重要な軍事拠点だったため、空襲の目標となった。1945年3月27日、それは実行され、子供を含む多くの非戦闘員が犠牲になったというエピソードを聞いた。子どもたちの避難場所とされていた森の中に爆弾が落下し、31人がその場で死亡したという。

痛ましいことだ。

「音速雷撃隊」のエピソードを思い出した

このような話は、いつ聞いても心が苦しくなる。僕はその時、松本零士氏の戦場まんがシリーズ「音速雷撃隊」の一コマを思い出した。人間が操縦するロケット爆弾「桜花」の搭乗員である野上少尉と、それを敵艦隊まで運搬する一式陸上攻撃機の機長、山岡中尉の会話である。

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「この戦争で死んだ若い者が、あと30年生きとったら、色んなことをやったんやろうな。野上、お前、戦争にならなんだら何をしていた?」(山岡中尉:左)

「俺はロケット工学を研究し、あの月までロケットを打ち上げる。それが俺の夢だった」(野上少尉)

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一方、アメリカ軍側も、その日の戦闘で命を落とした同僚を悼んでいた。

「憎めんやつだったな、ロバートのやつは」(ランパード中尉:中央)

「世界一の漫画家になるってのがヤツの口癖だった…」(左の同僚)

「音速雷撃隊」では、日米両者ともに、「戦争で死んだ若い者」を悼み、その将来に思いを馳せている。子供も、若者も、その未来を、将来を戦争によって奪われた。そこには統計的な死に対して、その内訳には1人1人の人生があったことを思い知らされるのだ。

反戦」は戦争の反省として不適切だ

その時、僕は突然、コロナ禍で抑圧に苦しむ現代の若者のことを思い出した。僕の思考を整理すると、つまりこういうことだ。僕たちはこれまで、敗戦国として、二度と戦争は行わないことを誓い、戦争放棄を謳ってきた。果たしてこれは本当に、敗戦国としての正しい反省の仕方なのだろうか?

実際のところ、僕たちの平和は、その多くを在日米軍の軍事力によって担保されている。戦争放棄や軍隊の不保持とは名ばかりで、湾岸戦争を始めとするいくつかの戦争に、日本は資金援助や艦船、駐留部隊の派遣というかたちで関与している。

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それらは国際社会において、西側陣営としてのプレゼンスを維持するための必要経費であると僕は理解している。その観点から、結果的に多少の戦争へ関与したとしても否定されるべきではないと考えているので、その意味で「反戦」は戦争の反省として不適当である。もし本当に反戦を謳うのであれば、独立軍を組織して永世中立国家を宣言し、世界の戦争に一切関与するべきではない。

戦争で失われたものは何か考え直す

僕たちは特攻隊や非戦闘員の悲劇ばかりに注目して、その個々の死ばかりに因われすぎている。僕たちが本当に戦争のことを反省するなら、戦争によって何が失われ、その時社会は何をしたのか、改めて認識する必要がある。僕が思うに、戦争で失われたものは、「若者の未来」そのものであり、それを社会が要求したのではないか、ということだ。

日本は国難にあたって、いつも若者を犠牲にしてきたのではないか。思い出してみよう。若者を犠牲にする戦争継続政策の代表的なものは、1943年の学徒出陣から始まり、特別攻撃隊による体当たり攻撃に帰結する。連合軍の反攻により次第に戦線が押し返され、あるいは敗北や撤退が始まり、兵力が不足していた時期である。まずは20歳以上の学生が徴兵され戦地に送り込まれ、1944年には徴兵年齢は19歳に引き下げられた。

航空兵力に目を向けると、1944年頃には、旧日本陸軍・海軍の航空隊は、すでにベテランや中堅のパイロットを失っていた。少ない熟練パイロットも消耗していき、飛行機をようやくまっすぐ飛ばせるようになった新米パイロットが、次々と戦場に送り込まれていった。反撃もままならない日本軍は、もはや通常攻撃では連合軍に勝利できないと考え、一撃必殺の特別攻撃を本格的に検討し始めた。

特攻隊は1944年秋以降、組織的に行われることになった。そして彼らは、易易とアメリカ軍の新鋭機や対空砲火の餌食になっていった。

国民は戦争中、何をしていたのか

国民は何をしていたかというと、積極的に若者を生贄に捧げていた。「お国のため」だとか「家族を守るため」とか言って、彼ら若者を煽ったのだ。もちろん彼らは若者であると同時に軍人でもあるから、華々しい死に場所を与えられたことは本望であるし、本心からそう思っていたのだろう。それは特攻隊の達筆な遺書1つ1つにあらわれている。そうして社会的に立派な若者の悲劇的な最期が演出され、結果として僕たちの記憶に残っているに過ぎない。

繰り返すが、僕が注目するのは1人1人の悲惨な死ではない。そしてそれはそれらの死を軽んじるわけでもない。しかし主題は、当時の社会が若者の犠牲を積極的に推進していたという点である。

僕は、当時の日本人が特攻隊を賛美する描写のある作品が、「はだしのゲン」くらいしかないことを思い出していた。大刀洗平和記念館には、「出征○○××君」というノボリが展示されていた。おそらく○○××君はこのノボリをもって、近所の人達から祝福と激励・・・・・を受け、死出の旅路に赴いたに違いなかった。

特攻隊の悲劇の記憶を後世に伝えるなら、当時の日本人の「空気」が特攻隊を積極的に賛美したことも、合わせて後世に伝えるべきだろう。悲劇は当時の自分たちのせいで発生し、それを悲劇だと宣うのは白痴もいいところである。

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日本社会はあの時、若者の犠牲を止めることはなかった。若者は国体護持のために死ぬべき存在だった。こうして日本の若者は犠牲になった。

実効性の軽視。それは現代でも変わっていない

それから75年が経とうとしている。率直に言って、現代日本の精神性は、75年前のそれとまったく変わっていない。日本人は、マスクをしない人間に非国民の扱いをして迫害したし、あるいはマスコミの報道に踊らされて過剰な自粛と遊興の抑制に進んで協力した。やっていることはあの贅沢は敵だとか「進め1億火の玉だ」の世界である。

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反戦派が差別され迫害される世の中では、このようなスローガンを唱えたり、あるいは役に立ちもしない竹槍の訓練に参加していれば、戦争への協力者として社会的に認知されて地位が安定する。とくに後者は、機関銃や歩兵銃を装備し、高度2000mから爆弾を大量に投下してくる300機もの爆撃機の大編隊に、役に立つのだろうか?

実効性や役に立つかというのは、全ての大衆にとってどうでもいいことだ。周りが鬼畜米英だと言うなら鬼畜米英だと言うし、竹槍を持てば竹槍を持つ。この安定した地位こそ大衆が求めているものである。今も昔も、何より大事なのは「やってる感」だ。またそれを続けていれば、日本が戦争に勝ち世の中が良くなると、頑なに信じている。

しかして日本は戦争に負けた。この落とし前を、当時の大衆どもはどう始末したのか?同じ口でマッカーサー元帥大歓迎を口にしていたのだ。この一貫性のなさ!何とも醜く素晴らしい大衆しぐさである。

コロナ禍でも同じことが言えるのが趣深い。自粛だのマスク着用だのに僕たちは取り組んだが、感染者数は増えたり減ったりしていた。もはやマスクが役に立っていないことは明白だったのに、第5波で感染者が増えた時は、さらにマスク着用して自粛を徹底することしか思いつかなかった。

自粛もマスクも意味ないからやめようぜと言った人間は迫害された。そうして自分達は今、様々な場所でまるで病原菌のように扱われている。アルコール消毒させられ、変なアクリル板越しに会話し、狭くなったテーブルで無言で飯を食ったり、交通機関を利用するにもマスク着用を要求させるような、不便な世界に生きている。

この不便な世界は、専門家どもに扇動された大衆諸君が作り出したものだ。諸君がおかしいとも不便だとも、あるいはこんな世界は嫌だと拒否しなかったからだ。そしてもっとも手ひどく影響を受けたのが、若者たちである。

コロナ禍における若者軽視の風潮

僕たちはおそらく、若者たちの犠牲にあまりに無関心ではなかったか。

コロナ禍において、若者たちは部活動や行事、イベントなどの中止の憂き目に遭った。修学旅行やスポーツ大会は中止になった。甲子園大会などでコロナ感染者が発生した出場校は、1試合もすることなく懲罰的に大会を追放された。まるでコロナ感染することが犯罪であるかのようだった。

給食は黙って食べ、マスクで互いの顔すらまともに判別することなく過ごせば、情緒の発達にも影響するだろう。大学生はオンライン授業ばかりで、同年代との関係構築もままならない。こうして明らかに若者は被害を被っている。すべて大人どもの都合で決められ、それに従わされただけだ。彼らはまだ反撃の方法を知らないから、従順に従ってくれただけである。

そして当の大人どもは、その責任が自分たちの意思決定によるものだと思いも寄らない。この無責任さも指弾されるべきであるのに、ごく少数のネット論客を除いて、誰もそれを攻撃しなかった。

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このような今回の若者迫害は、物理的な死が伴っていないため可視化されていないこと、そして特攻隊は男子だけだったが、今回は男女問わず影響を受けている2点において、明らかに悪質である

大人どもの若者への要求は、75年前のそれと同じように、社会体制の維持のためにその活動を抑制することだった。過去の日本人は、国体護持目的の戦争継続のために若者を死ぬことを要求したし、現代の日本人は、社会秩序を安定させるために、若者から人生経験や人間性を差し出すことを要求した。物理的な死を与えたわけではないが、その分悪意すらも覆い隠されている点が大変卑怯である。

コロナで死ぬ人間というのは、その多くが80を過ぎた老人どもである。その老人をさらに何年か生かすために、若者に抑圧を強いることがどれだけ醜いか、自覚はないのか。この連中は、たかだか1年や2年程度の自粛や我慢など平気である。命や時間の価値がないからだ。だからこそ、老人どものたかだか10年程度の残りの人生における1年2年の重みが、残り60年以上生きる多くの若者のそれよりも重いことがありうるだろうか?

未来ある若者を犠牲にしない。それこそが戦争の反省だ

僕は大刀洗平和記念館において、希望あふれる若者の限りない未来を閉ざすような世界を二度と誕生させないように、社会のすべての人々が協力するべきだと考えた。そしてそれこそが、唯一戦争から学ぶべき反省点であるように思えた。

改めて問うが、社会に生きる大人どもは、過去の戦争から何を学んだのだ?特攻隊の遺書を見て泣いて終わっただけか?少なくとも、コロナ自粛に積極的に協力して間接的に若者を苦しめている諸君は、特攻隊の遺書で泣き濡れて、戦争への反省を口にする資格などない。太平洋戦争時と同じく、諸君はその手で若者の青春と未来を握り潰したからだ。

こういう平和祈念施設から得られる教訓というのは、未来ある若者の犠牲を払わせないような社会を作ることではなかったか。しかし、これだけ多くの人間が今回のコロナ禍における若者の犠牲や抑圧に対して無関心であるのなら、僕たちは様々な平和祈念施設から、何も学んでいないことになるのではないか。あれだけ反戦だの反核だの声高に訴えているくせに、足元の若者の犠牲に対しては一切の関心を払わない大人どもの態度は、どうにも偽善的で許しがたい。

つまるところ、過去の若者の犠牲に対して、僕たちは何も反省していないということになるのか?それこそ特攻隊の無駄死にになってしまうじゃないか。そんなことは許されない。ありえない。あってはいけない。それこそ英霊に対しての申し訳が立たない。

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