非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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ポスト小室眞子さんの皇族とは?開かれた皇室なんて無理だった

記者会見はメディアと日本国民との「訣別宣言」

2021年10月26日、小室眞子さんの結婚会見。僕は記事化された内容を読んでいた。要約するとつまりこういうことであった。

「お前らメディアや週刊誌がよってたかって私の婚約者の家庭問題を面白おかしく取り立てた結果、国民からの支持を失いバッシングすら受けました。ふざけんじゃねぇぞコラ。私はもう小室家の一員としてやっていくからもう関わってくんな」

それは実際にそうだったし、この会見は、大変少数派であった眞子さんの支持者や支援者に対しての、感謝と決意を表明する目的もあったのだろう。

会見については記者の質疑は設定されておらず、小室夫妻がメッセージを読み上げ、事前に寄せられたいくつかの質問に文書で回答するという方式で行われた。この一方通行ぶりも、夫妻に対しての国民の心象を悪くさせただろう。

まぁそれも無理からぬことではない。問題をことざら取り上げたのはメディアだが、それに乗っかって謂れのないものを含む中傷を与えたのは他ならぬ国民の方だ。夫妻からしたら、国民やメディアなどは自分たちに恐怖をもたらすものでしかなく、それが3年も続けば、もはやこの連中など、可能な限り関わりたくない存在に成り下がるに違いなかった。

何しろ国民の側は安全である。皇室から直接攻撃されることなどあり得ないのだ。安全であることと、また(メディアに流されて)正義の側に立ったと認識した人間は、他人に対してもっとも残酷になる。それが人間の本性だ。それが集団になれば、「自分だけじゃない」と尚更抑制が働かなくなる。

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この集団攻撃に晒され、眞子さんは精神を衰弱した。PTSDを告白し、また記者会見が一方的な進行になり、その中で「静かに暮らす」という文脈が多用されたのも理由がある。それは、僕が読み取る限り、メディアとそれに流される日本国民を激しく嫌悪し、今後は可能な限り関わりを持ちたくないという眞子さんの決意の現れである。いくら皇族であろうと1人の人間である。それはそれは、耐えかねるものだった。

まぁこうやって完全に態度を硬化させた眞子さんに、その責任が自分のバッシングにあると自覚する日本人はほぼいないだろう。ヤフコメがそれをよく表している。まぁあそこの住民は少々頭の足りない連中が多いのだが。「一方的すぎる」「納得できない」などと一生言っているがいいさ。お前ら相手が皇族だからって好き勝手言ってんじゃねーぞ。お前が皇室を見限ったんじゃなくて、お前らが皇族から切り捨てられたんだ

僕の過去のエントリは誹謗中傷にあたるか?

junny-policies.hatenablog.com

まぁ僕も過去にブログで眞子様は皇室の一員なんだから自由恋愛なんかできるわけないだろ。一個人である前に皇族なんやぞ。優遇されてるくせに自由まで欲しがるなや」と言ったことがある。これが誹謗中傷にあたるのだとしたら速やかに削除するので、ぜひ連絡してほしい。まぁこのエントリは月間で50PVもないので、世間に与える影響など大したことはないので見過ごされるべきだと思うが。

それにこの時の僕の意見は、「一時金辞退すれば後は何でもいいわ」くらいの気持ちだったし、他人の結婚話に首を突っ込んであーだこーだ言うのも野暮だと思っていた。実際に一時金を辞退されるとのことだったので、それはもう僕の中で納得がいっている。

そして、小室夫妻としての人生がこれから始まるわけだし、もう借金がどうのこうのというのは、外野がどうこう言っても詮ないことだ。それよりも僕は、より未来のことを語ろう。

皇室と国民の距離が近すぎた問題

それにしても、「開かれた皇室」というのは、やはり無理筋だったのではないかと僕は考え始めている。

僕たちはこれから、皇族について何か批判的な表現を行おうとするとき、これが誹謗中傷に当たらないか、より一層慎重に考察する必要があるだろう。そして、誹謗中傷であるか正当な批判であるのかを、誰がどのように判断するのだろうか?また、仮に何か、メディアが誤った情報を流して、それに対して国民が皇族を中傷した場合、その罪罰は誰が何によって受けるのだろうか?

そして、何か表現することすら憚られるような、「名を呼んではいけないあの人」みたいな扱われ方をするのは、おそらく皇室としても本意ではないはずだ。また僕は、皇室は原則として可能な限り存続されるべきであると思っている。その中でこの距離感の問題は大変難しい。少なくとも、皇室が腫れ物に触るような存在に成り下がるなら、それは存在する理由を厳しく問われるようになってしまうだろう。

メディアとそれに流された国民が悪い

ところで、大前提として僕たち大人がいい加減理解しなければいけないのは、メディアというのは視聴率や注目されることが必要であり、彼らが報じる内容には真実を含んでいる・・・・・ということだ。

炎上しようが誰かが中傷の生贄になろうが、注目されて視聴率が取れることがメディアどもの正義である。この場合、眞子さんも小室家も、メディアの生贄になったのではあるまいか。そして、その生贄祭りに喜んで参加した国民どもの醜悪さをその身に感じて、眞子さんは日本国民との訣別を宣言するに至ったのではないか

皇室と国民の適切な距離感を今一度考えようぜ

開かれた皇室というのは、伝統的な皇室感の否定でもある。しかし国民との距離が近すぎれば、こうやって国民の敵意と悪意が直接皇族を傷つけ、皇室の威厳を損なうようになる。なのでこの方針は、ネット全盛のこの時代にあまり合っていない気がする。

実際のところ、少なくとも僕は、例えば天皇誕生日に国旗を掲げて万歳三唱するような習慣はない。たまにどこぞの海外の偉い人が日本に来て、その人が天皇陛下に頭を下げ、「日本は素晴らしい国であり、今後も連携を強化していきたい」などと訪問の最後に記者会見で答えてもらえればそれでよかった。あるいは何か災害が起こった時に、お見舞いに来られて膝をつかれて被災者と対話する姿が見られるだけでもよかった。

それが僕と皇室との距離感であった。普段僕は、神仏などと同様に、普段はその存在を意識することなどないが、皇室というのはこの「少々遠くても何かのタイミングで僕たちのそばにいてくださり、何か役に立つわけではないが心が安定する」という、いわば神のような存在というのが、適切なあり方だと僕は考える。上皇陛下夫妻はまさにそのような距離感を、絶妙に演出した御方であった。

さて、代は変わって令和時代。「開かれた皇室」はどうだろう。率直に僕は、皇室は開かれない方が良かったのではないかと僕は考えている。あまりに国民と皇室の距離が近くなりすぎた。また継続する不景気で、他者の幸せに対して余裕のない人間が増えすぎた。そしてネット時代になって、有象無象の声が増幅されて皇室にまで届くようになってしまった。そして国民を切り捨てるような態度をとる皇族も現れた。その結果が今回の騒動である。

俗物的には、皇室の面々には少なくない経費が支払われている。例えば眞子さんへ支給される皇族費は年間900万円ほどだが、30歳手前で900万円をもらえる人間とは一体何なのだろう。サラリーマンであれば総合商社か投資銀行のスーパー激務のエリートであるのに。おそらく僕の憶測では、皇室の公務というのはそれらのどの職業よりも、仕事はソフトである。

何が言いたいのかというと、「開かれた皇室」を今後もすすめるのなら、それを推進するだけの覚悟と、皇室とは特権階級であるという自覚が足りていないということだ。開かれた皇室とネットの攻撃は、これだけ個人の発信力がSNSやヤフコメで高まっている中で、もはや切っても切り離せない。そして攻撃をシャットアウトするのでは、「開かれている」ことにならない。

今後は、何か皇室の不祥事が発生したり、こうやってメディアに流されたりして、皇室はそのたびに攻撃を受けるだろう。開かれた皇室とはそういうことだ。国民と距離を近づけると、国民の醜悪さとも距離が近づくことになる。はたしてその陰湿な攻撃に、皇室は耐えることができるだろうか。

これだけ不景気が続き、30歳手前では年収は300万円台が当たり前で日々を生きるのに精一杯である中で、成人した時から毎年900万円を貰い続けられる特権階級の人間の結婚が、祝福されるとでも思ったか。ネット住民の多数派であるワープアたちにとって、皇室に対してのこの優遇は理解を得られるものではなくなってきているのだろう。実際に皇族は彼らのために何かをしてやれる存在ではない。

今こそ皇室は、昔ながらの距離感に戻るべきだ。現人神でなくてもいい。何かするわけでもないけれど、そこに存在するだけであってほしい。僕たちに影響力など発揮することなく、ロイヤル外交を通じて世界からの敬愛を集めてくれて、正月と天皇誕生日一般参賀で穏やかに手を振ってくれさえすればいい。

行き過ぎた自由や「開かれること」を見直して、今こそ伝統的価値観の良さに回帰してもいいじゃないか。

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