荒廃が進む大阪真田山陸軍墓地にお参りしようぜ
僕は第二次世界大戦期の飛行機と艦船を主とするミリオタである。ミリオタである僕だからこそ、自らが愛でる兵器とそれを運用した軍隊組織について、それがもたらした結果を受け止めて、深く祈りを捧げる義務があると考えている。僕が以前広島県呉市にある旧海軍墓地を訪れたのは、そんな理由からであった。
さて、広島に海軍墓地があるならば、大阪府大阪市には旧陸軍の墓地がある。僕が今回この陸軍墓地を訪れたのは、海軍墓地にお参りをしたのなら陸軍墓地にお参りしないという話はない、という割と単純な動機だった。
しかし話によれば、きれいに整備されている呉海軍墓地と異なりこちらの陸軍墓地は荒廃が進んでいるという。とくに2018年9月の台風21号によって相当の打撃を受けたとことだったが、現時点ではどのようになっているのか。僕は大阪を訪れる用事もあったので、この陸軍墓地にお参りすることにした。
行き方は簡単で、JR大阪環状線の玉造駅が最寄りである。
玉造駅前にあるビエラ玉造。かつて大阪環状線を走っていた103系車両をモチーフとしてデザインされた。鉄オタでもある僕は記念にパチリ。
三光神社にお参りする
三光神社は、陸軍墓地と同じ敷地内にある小規模で静かな神社である。ところで、「三光」の文字にピンとくる人もあるだろう。
かつて中国大陸で日本陸軍が繰り広げたというこの「三光」は、「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす(杀光、烧光、抢光)」を意味する中国語の用語であり、日本軍側がこう呼称したことはない。そのため「三光」と意味をつなげるのは誤りである。
この三光神社は、天照大御神、月読尊、素戔鳴尊の三柱を祭神とする神社である。
三光神社を含めた周辺の小高い一帯には、大坂の陣で活躍した西軍武将の真田信繁(真田幸村)の出城「真田丸」があったといわれている。
そのためこの地名を真田山といい、真田山陸軍墓地と呼ばれている所以である。こちらは真田信繁が構築したといわれる、大阪城まで続いているトンネルである。
真田山陸軍墓地を歩く
大阪市街地特有の陽気な賑わいはここには存在しない。住宅地のど真ん中に、ひっそりと墓標が佇んでいる。
小規模な墓が整然と立ち並ぶ。
一部土台からずれたり崩れてしまっているものもある。これらは台風の影響でこうなってしまったようだが、おそらくそれと同じかそれ以上に、補修などの管理をする人がいないのだろう。
通路に雑草が生い茂り、供花の筒はあるが花は手向けられていない。人の往来がないことを意味している。
墓碑を見ると、二等兵、一等兵、上等兵などの、階級が下の方のものが多い。しかしそれも風化して判読しづらくなっているものがほとんどだ。
墓地内を歩いても、ご遺族かあるいはボランティアと思われる人が、草むしりをしたり墓石を磨いている以外、ここを訪れる人は多くはないようだ。
墓地に大挙して人が押し寄せても嫌だけど。
土台から崩壊してしまった墓石は、一旦ひとまとめにしてこれ以上の崩壊を防止している。
少尉、中尉クラスになると、墓石の規模も大きくなる。
歩兵大尉クラスになるとさらに墓石が大きくなる。
艦船名の刻まれた大きな石碑を墓標に見立てたものが多い呉海軍墓地と異なり、真田山陸軍墓地には小規模な角柱型の墓石が立ち並ぶ。海軍墓地は艦船単位で墓標が営まれていたが、陸軍墓地はそうではなく個人単位であるものが多いようだ。
この違いというのは、艦船の場合は沈没してしまえば遺体や遺骨の回収が困難である一方で、陸軍は陸上で戦死した場合においてはある程度個人が特定され得たからだろう。だから海軍墓地では艦単位のひとまとめの墓標が、陸軍墓地は個人単位の墓標が数多く営まれるのだ。
満州事変のような大規模な戦闘においては、戦病死した兵士をまとめて合葬碑をなしている。
戦病死した兵士を年単位でまとめて合葬碑をなしている。
陸軍歩兵中佐の墓は真田山陸軍墓地の中で最大規模を誇る。
このように墓石の大きさがそのまま階級制度をなしているのも、当時の軍隊文化がなんとなく伝わってくる気がしてくる。
納骨堂。こちらは立入禁止となっている。
真田山陸軍墓地は荒廃しているという話だった。実際訪れてみると、墓標自体は整然と並んでいるように見える。しかし1つ1つをよく見てみると、墓石に刻まれた文字は判読が困難になってきているし、そうでなくとも土台が傾いていたり、ヒビが入っていたりする。このまま放置しておけば、その多くが遠からぬうちに崩壊するだろう。
とくに軍隊組織の現場は上等兵以下の名もなき兵士たちによって根幹をなすのであり、国家のために殉じた彼らに敬意を示すための場所が、このように荒廃していいはずがない。
ニュースによれば、大阪市主導で真田山陸軍墓地を再整備する予算が組まれる方針とのことである。少しづつでもいいので進めてほしい。