【皇室の菩提寺】御寺泉涌寺にお参りしようぜ
京都の紅葉の名所である東福寺の裏手には、
東福寺から徒歩で歩く場合は裏手から入るような感じだ。
また京都市バスを使う場合、南5系統・東福寺道バス停が最寄りとなる。
この泉涌寺は、皇室ゆかりの菩提寺として有名で、御寺ともいわれる。その名の通り、多くの皇室の一族や歴代天皇がこちらに葬られている。安土桃山時代から江戸時代にかけての歴代天皇の葬儀は、全て泉涌寺が執り行ってきたという。
久爾宮墓地と賀陽宮墓地。どちらも明治時代に創設された宮家である。これらは東福寺側から入ると左手に見える。
金剛宝塔というこの石塔は、解脱会の創始者岡野聖憲(諡号・解脱金剛)のものである。岡野は、戦後荒廃した泉涌寺の立て直しを支援した功績がある。
御寺泉涌寺の大門。拝観料は大人500円である。
泉涌寺の起源は、中国(宋時代)で律を学んだ
楊貴妃観音堂。名前からしても、泉涌寺が中国仏教の影響を受けていることがよく分かる。堂内に安置される楊貴妃観音は、唐時代の中国皇帝玄宗が、妃であった楊貴妃の冥福を祈って造顕されたという。それを俊芿の弟子
残念ながら撮影禁止であるが、像容は極彩色の名残があり、微細な彫刻細工も大変見事である。また楊貴妃観音自体、日本国内ではあまり見られるものではない。
楊貴妃観音堂の手前には、願掛け地蔵という、六体の地蔵が並ぶ。表情も優しげで、大きさはなんとも可愛らしい。
心照殿。内部は小規模な博物館のようになっており、教科書で見たことがあるような歴代天皇の御真影やゆかりの屏風、直筆の手紙などが公開されている。
いったん大門側に戻り、境内を奥に進むと少し下り坂道となる。
参道右手側にある浴室。僧侶が身を清めるために使っていたという。
水屋形。この地はかつて仙遊寺と呼ばれていたが、泉涌寺の名称の由来は、この地に霊泉が湧き出たことでにあり、その霊泉が今でも湧き出ているという。仙遊寺と泉涌寺、音便が入ったとはいえ音が同一であることにも着目したい。
清少納言歌碑。清少納言はその晩年に泉涌寺近くの月輪山荘に居住していたことで、泉涌寺と関係がある。
参道の坂道を下りきったところに仏殿がある。仏殿は、何度か倒壊と再建を繰り返しているが、現在のものは1668年に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱公により創建されたものである。内部は非公開である。
本尊は運慶作の「三世三尊仏」であり、左に阿弥陀如来(現在)、中央に釈迦如来(過去)、右に弥勒如来(未来)を配する。現在・過去・未来全ての時代の全ての人を救うことが祈念されている。
未来を担当するのが弥勒仏であるのも仏教の教義どおりだし、多くは弥勒菩薩として修行中の身として像容される弥勒仏も、この世界においては悟りを果たし、弥勒如来として顕現するのである。
仏殿の隣に位置する舎利殿。ここに納められる仏舎利は、先ほどの楊貴妃観音を中国から持ち帰った湛海が持ち帰ってきたものであるが、その仏舎利は「仏牙」ともいう歯の部分である。仏牙は説法を行うのに喋る口の部分に関係することから、大変尊いとされている。湛海という男、仏牙といい楊貴妃観音といい、色々貴重なものを中国から持ち帰ってきたようである。
舎利殿の天井には、狩野山雪の鳴き竜が描かれており、日光東照宮薬師堂の鳴き竜と並んで有名であるらしい。
泉涌寺勅使門。皇室の使いのみ入門を許される。
勅使門の拡大。木工細工が大変美しい。
霊明殿。現在のものは明治天皇が再建したもので、四条天皇尊像と御位牌をはじめ、歴代天皇の御位牌を安置している。内部への立ち入りは不可。
霊明殿の前には唐門が置かれているが、その扉の彫刻の美しさ・精緻さにも注目したい。菊の御紋が皇室を表す。
霊明殿の奥にある月輪陵。扉は閉ざされているが、奥には石塔が立ち並んでいるのが分かる。
ここからは孝明天皇陵を目指し、敷地の奥へと登っていく。階段を登った先には、後堀河天皇観音寺陵がある。後堀河天皇は、承久の乱の後に鎌倉幕府によって即位(位1221~1232・第86代天皇)した。
明治天皇の父にあたる孝明天皇の陵。門は閉じられ、森以外は何も見えない。正式名称は孝明天皇
伽藍の威容も見事であるが、楊貴妃観音などの中国仏教の名残も見所であるし、皇室文化が好きな人にとってもオススメのスポットである。東福寺観光のついでにでもいいので足を伸ばしてみてほしい。