【広島・呉】長迫公園の旧海軍墓地にお参りしようぜ
旧日本海軍とともに発展してきた広島県呉市。かつて軍港都市として栄えた歴史あるこの街の一角に、日中戦争や太平洋戦争などで散っていった海の兵どもの鎮魂の聖地がある。それがここ、長迫公園にある呉海軍墓地である。
折しも、大阪・天王寺区にある旧真田山陸軍墓地について、ようやく修復される予算が計上されたというニュースがあったばかりである。こちらの陸軍墓地は、管理責任の所在に問題があり、遺族とそれらの寄付金によってしか維持されていなかった。今後は墓碑などの修復が進むと思われる。
一方で呉海軍墓地は、海軍の戦死者や殉職者を慰霊するために、1890年に旧海軍がこの地を買収したのが始まりである。旧海軍は呉鎮守府の管理のもと、定期的にこの地で慰霊の祭典を執り行った。しかし終戦後は風水害の影響もあり荒れ果てていたらしい。その後1970年頃から旧海軍の遺族などが支援者や地元民らと協力しあって組織的に修復、維持整備をすすめ、現在では長迫公園として呉市の責任によって維持管理がなされている。そのため呉海軍墓地は墓碑ともに美しく整備されている。
呉海軍墓地へのアクセス
長迫公園へは、呉駅から歩いていくには少々遠い上に、丘陵地帯の中腹にあるので山登りになる。呉駅北側の出口(大和ミュージアムなどとは反対側)のロータリー9番または10番乗り場から広島電鉄のバス(長ノ木長迫線・左回り)が出ているので、それに乗って長迫町バス停まで行くと便利である。片道は160円で、概ね30分に1本の発着ペースなので時間も読みやすい。
路線情報や時刻表などはこちらを参照されたい。
慰霊碑や墓碑は91基。数々の大海戦で沈没した艦船のものが多い。英霊は13万柱以上がこの地に眠る。
公園内には案内図があり、どの艦船や部隊の碑がどこにあるかがすぐわかるようになっている。
戦艦大和の慰霊碑。1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦にて戦没。
水上機による偵察部隊を中心とした航空隊634海軍航空隊と、東インドネシア戦線防衛で活躍した934海軍航空隊の慰霊碑。航空隊の慰霊碑らしく、プロペラが奉納されている。
最上型重巡洋艦の2番艦である「三隈」の慰霊碑。1942年6月7日、ミッドウェー海戦において戦没。
陽炎型駆逐艦の9番艦「天津風」の慰霊碑。計画35ノットの快速を誇り、ソロモン諸島における主要な作戦に従事。太平洋戦争末期に被雷し艦首を喪失し、シンガポールで応急処置を受けた。太平洋戦争末期の1945年4月6日に、アメリカ軍の爆撃を受けて戦没。
「海上の修理工場」こと工作艦「明石」の慰霊碑。巨大なクレーンや整備・修理設備を持ち、損傷した艦船を次々に修復し戦線に復帰させたため、アメリカ軍の最重要攻撃目標としてマークされていた。1944年3月30日、パラオ大空襲により被弾し戦没。
重巡洋艦「熊野」の慰霊碑。ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い、ソロモン諸島、パラオなどの各戦線を転戦し活躍したが、1944年10月25日、レイテ沖海戦でアメリカ軍機動部隊の襲撃を受け戦没した。
呉鎮守府を本拠とする、駆逐艦により組織された艦隊。雪風、浜風、磯風などの名だたる武勲艦が所属していた。
呉海軍墓地の展望台から呉市街と海上自衛隊基地方面を望む。日本の安全保障にあたる海上自衛隊を、旧日本海軍の面々が見守っているようだ。
重巡洋艦「青葉」は、珊瑚海海戦やガダルカナル島、ソロモン諸島の戦いなどを転戦したが、レイテ沖海戦にて損傷。修理のため呉海軍基地に留置されていたが、1945年7月28日の呉軍港空襲で被弾、大破着底した。
軽巡洋艦「矢矧」は、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦に参戦した武勲艦である。坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」の護衛任務にあたったが、アメリカ軍機動部隊の襲撃を受け戦没した。
ところで、一部のファンの間では、呉はアニメ作品「この世界の片隅に」や、アプリゲーム「艦隊これくしょん(艦これ)」などの聖地とされているらしい。前者においては部隊そのものが呉であるし、呉軍港空襲や広島への原爆投下についても触れられている。艦これについては、呉海軍工廠で建造された艦娘が多く登場する。けれどもここ呉海軍墓地を「聖地巡礼」するファンは多くないようだ。艦娘には興味があっても、艦そのものやそこで戦い散っていった兵どもには興味がないということだろう。まぁ慰霊の場所でもあるし、大挙して押し寄せられても困る。静謐な雰囲気がぶち壊されてはいけ
ない。
そして平和とはなんと素晴らしいことだろう。僕たちは人や物を破壊する兵器という存在すら、愛玩対象とすることができる程度には平和な時代を生きている。僕はここに眠るすべての先達にひざまずいて報告しよう。貴方がたのおかげで、後世の日本国は平和を謳歌している。