自殺を止めると表彰されるのって胸糞悪いよな
自殺を止めると表彰されるのって胸糞悪いよな
僕は春夏秋冬の季節ごとに1回ほどのペースで、自殺を止めた人が表彰されるニュースを見る。このニュースは僕を極めて不快な気分にさせる。どこかその辺の正義感あふれるリア充が、「生きていればいいことがある」などと言って、自殺しようとした中年男性を橋の欄干から引きずり下ろして拘束した。それで表彰されたというのである。
自殺志願者の気持ちになって考えてみろ
僕はこの時、自殺を阻止された側に立つと、非常に痛ましい気持ちになる。特にそれが40前後の中年男性だった場合はなおさらだ。おそらくこの人は、自分の人生はこれ以上生きても苦しいばかりであることを悟り、見切りをつけた。40年も生きていれば、自分の人生の結末など容易に想像できるものだ。そして自分自身を、自分自身の手で始末することにした。
しかしそれは、自分の半分くらいしか生きていないようなリア充に阻止された。彼女がいて未来があって正義感あふれる、模範的な優等生であるリア充に。しかもそのリア充は、警察から表彰されてさらにリア充度を増す。自分の自殺を糧にして。この自殺志願者にとって、これほど屈辱的なことはないだろう。自分には自殺することすらできないと、強い劣等感に襲われたはずだ。
さて、その自殺志願者はその後どうしたのだろうか?続報などないのでわからないが、「よし!生きていればいいことあるから生きよう!」とはならないと思う。金もない。食も家もない。社会に居場所がない。おそらく引き続き自殺することを考えるだろう。そしてその一連の葛藤に、助けた側のリア充は一切関与しない。
自殺を助けました!あとは知りませんので勝手に生きてください
自殺志願者を助けたあとは、何もフォローをしないつもりか。この偽善者め。しかもそれで表彰されるというのか。何がどうなったらこのような胸糞悪い流れになってしまうのだろう。
僕にはよく分かる。このリア充どもには、この自殺志願者のその後の人生など何も関係ないことを。しかしこのリア充どもは差し出がましいことに、他人の人生の重要な決断に関与し、あまつさえそれを阻止までした。にもかかわらず、それ以外のことは何もしていない。この自殺志願者の自殺願望の原因の究明や生活環境の改善など、自殺の再実行を防ぐための努力を払うことはない。
当然だ。その自殺志願者とリア充どもには何の関係もないのだから。そういう声が聞こえてくる。ならばなぜ自殺を阻止したのか。関係ないのだから、その自殺志願者がその場で死のうと、放っておいて、見知らぬ他人の命など顧みない幸せな人生を送ればよかったのだ。気が向いたら警察や救急を呼んでもいいが、自ら説得したり拘束したりするのは、あまりに介入し過ぎである。
介入したならば、最後まで介入し続けるがいい。それなしで表彰されるようなところだけ介入することが、人間関係のつまみ食いみたいで、非常に胸糞悪く思う。
僕がここから見出すのは、このリア充どもの冷酷さである。このリア充は結局、自分の目の前で自殺されることが嫌だっただけだ。決してこの自殺志願者のことを想って救いの手を差し伸べたのではない。おそらくこのリア充は、助けた自殺志願者が後日別の場所で自殺したとしても、何も思うところはないだろう。なぜならそれは自分の預かり知らぬところで自殺したのであり、自分には何の関係もないからだ。
自殺という一大決意。一生分の勇気と引き換えに
僕が自殺を止める人に対して憎しみを燃やす理由は2つある。1つは、自殺を止めた人が、自殺をしようとした人の一世一代の大決意を踏みにじることにある。そしてもう1つは、自殺を止める人は自殺志願者に対して、あまりに鈍感かつ傲慢であることだ。
大前提として、自殺は苦しいものだ。自殺は、肉体的物理的にも苦痛をともなう行為だが、なぜ苦痛なのかといえば、それが生物の根本原則、生存本能そのものを否定するからだ。
自殺をしようとした人というのは、これまで何とか生存することを試みただろう。知能や能力のせいで必要な支援にたどり着けなかったかもしれないが、それでもただ気軽に死のうとしたわけではない。人間は気軽には死ねないのだ。死のうと思っても、生存本能が邪魔をする。具体的には恐怖によって。それは高所から地面を見下ろす時や、刃物を体に突きつけた時に感じる恐怖である。
しかし自殺しようという人は、その生存本能に抗ってでも、死を要求したのだ。その苦しみは余りあるもので、僕たちのささやかな支援など思いも寄らないほどなのだ。生存するよりも死ぬほうがマシだというのだ。それは尊重されるべき自由意志である。たまたま通りかかったようなどこぞの他人が介入していいものではない。
僕たちは、誰の自殺をも止めてはならないのだ。自殺する権利というのはおそらく公式的には認められていないが、自由権の1つとしてみなされるべきだ。それを積極的に侵害することの傲慢さや不合理さを、僕たちはもっと認識する必要がある。
僕たちは自殺していいのだ
自殺を止める側の鈍感さと傲慢さ!なぜ自殺志願者に、生きることを押し付けるのか。なぜ自殺志願者の自殺願望を誤りだと決めつけるのか。自殺志願者が誤っていることを、なぜ自殺を止める側が証明できるのか。命は重いというのか。明日を生きられない命があるというのか。親からもらった命を大切にせよというのか。
あぁ、汚らわしい。命は軽い。明日を生きられない命と自分の命は毛ほどの関係もない。親からもらった命だろうが命は彼のものであって、それを保持するも捨てるも、彼のみが決められることだ。
人間は遅かれ早かれ死ぬのだ。病死や事故死、あるいは事件に巻き込まれて死ぬのは良くて、なぜ自殺することが許されないのか。
まぁきっと無いと思うけど、僕が誰かが自殺しようとしている現場に通りかかったなら、せめて素直に自殺させられるように、自殺教唆にならない程度に話し相手になってやるか、そのまま通り過ぎることにしよう。僕は誰の自殺をも止めることはない。僕に他人の自殺を止める権利はない。
もし自殺したいなら、人に見つからないように時と場所を選んで、うまくやるがいい。どこぞのリア充に表彰をくれてやりたくないなら、または武勇伝のネタにされたくなければ、なおさらである。