非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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毒親サバイバーが体験を語るから聞いてほしい。自分の人生を取り戻すために

僕はこのブログを通じて、弱者男性として生きることがどれだけ辛く苦しいものかを語ってきた。それはひとえに、毒親に育てられたからである。僕は毒親の呪いから解放され、自分の人生を取り戻す必要がある。そのためには、自分が親に何をされて育てられたのかを整理し、理解し、自分の親が異常者であり、社会不適合者であり、情緒不安定の精神疾患を抱えていたことを、事実として受け止める必要がある。

いい大人が人生を親のせいにするななどと思うなら、このエントリの読者としては不適切なのでとっととブラウザバックしてほしい。親ガチャ成功の普通家庭育ちには、この苦しみを理解することはできない。さっさと帰れ。

おそらく以下に列挙する僕の毒親の言動の数々には、諸君の価値観に照らし合わせて意味不明であるものもあるだろう。しかし僕は毒親サバイバーとして、いくつかの補助線を提供しようと思う。それは

  • 毒親は子供を健やかに育てたいのではなく、毒親自身が「優秀な子供を育てた親」になりたい生き物である
  • 毒親にとって子供は、自分の存在を装飾するアクセサリーであり、承認欲求を満たすための媒体である
  • よって子供は毒親が他者から承認されるように、親が要求する通りに振る舞わなければならない。
  • 子供が毒親の手を離れて独立することを望まない
  • 毒親の価値観上)他者から承認されない行動を子供が取らない場合は、その支配を取り戻そうとする。

などというものである。

以降、折にふれてこのポイントに立ち返るが、基本的に毒親の子供に対しての支配は、子供とは自身が承認欲求を満たすための媒体であり、子供の独立や自立を阻むことで、子供の社会性を犠牲にしてでも、一生子供を身近に置いておくことに主眼を置いていると理解してほしい。

僕が考察するに、毒親の行動というのはある程度類型化できると思う。例えば秋葉原の連続殺傷事件の犯人である加藤智大や、安倍元首相銃撃事件の犯人である山上徹也などの家庭環境も、程度の差はあれど、僕と似たような環境だったに違いない。しかしそれは長くなるので別のエントリに譲ろう。

毒親エピソード、始まります。戻るなら今

まずはじめに、以下に列挙する僕の体験の数々は、一部記憶が曖昧な箇所があるが、全て事実である。諸君は子供に、これらと同じような行動をとっていないだろうか?あるいは僕と同じ毒親サバイバーは、やはり同じような経験をしているのではないか。どうか読者諸賢においては、これらのエピソードを読んで、ドン引きするか、強く共感してもらいたい。

毒親の行動パターンは単純で、極めて自分本意である。子供とは、自分が他者に承認され愛されるための道具である。毒親は子供に対して、道具としての所有者として、そしてペットとしての支配者として振る舞う。子供が自身の理想像に満たない場合は、心身両面に対しての暴力をもって容赦ない制裁を加える権力者である

以降、1万文字ほどあるので、お付き合いいただければありがたく思う。

所有物の破壊

スーパーファミコンのコントローラーケーブルを目の前で切断された。

これは毒親しぐさの筆頭あるあるだろう。これに限らず、子供が大切にしている所有物を感情に任せて破壊することは、子供の自尊心をひどく傷つける。鬼のような形相で喚き散らしながらハサミでケーブルを切断し、そのハサミを振り回したり顔に突きつけられた恐怖を、僕はいまだに忘れられない。

多分僕はこの時、ゲームに熱中する純朴な少年であった。他の子供と同じように。しかし、親だけは、他と違った。

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暴言・暴力

お前は橋の下で拾った。言うことを聞かなければ橋の下に捨てると脅された。

これも毒親しぐさにありがちなことの1つだ。毒親は子供にすがりついてもらい、「子供に頼られる親」という自分自身の存在価値を確保するためなら、子供のアイデンティティを簡単に破壊する。子供は「捨てられるかもしれない」と恐怖を抱き、親に服従せざるを得なくなる。そうして子供を恐怖で支配下に置くのだ
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何をしたのかよく覚えていないが、冬の寒空の下アパートの玄関に何時間も追い出された。時たま近所の人にも声をかけられて、そのたびに「大丈夫です」と答えたような気がする。何が大丈夫なものか。現代だったら普通に警察に通報される案件だ。

その後のこともよく覚えていない。何を反省して、何がどうなって家に入らせてもらったのか。ひどく寒くて恐怖したことだけが記憶に残っている。僕が学んだのは、親は僕の支配者で、罰するだけの権力を持っている存在だということだけだった。
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キラキラネームを付けられそうになった。これは未遂で、僕自身は戸籍上は平凡な名をもつが、後で聞いたところによると、「けいのしん」(徳川吉宗の幼名「新之助」から)「はれい」(ハレー彗星から)という名をつけられそうになっていた。キラキラネームが市民権を得ていない1986年生まれの世代である。

そんな名前をつけられたなら、マジでいじめられたと思う。誰が止めてくれたか知らないが、感謝したい。マジで子供のことをペットか何かと勘違いしていたんだと思う。
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誕生日に欲しいものをプレゼントされず、日記に「何ももらえなかった」と書いたところ、「何ももらえなかったとは何だ!感謝の心が足りない」などと暴力を受けた。僕はプラレールか何かを欲しがったのだが、買い与えられたのはその辺の文房具店で売っている画用紙と色鉛筆だった。
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誕生日エピソードをもう1つ。誕生日のある日、何がきっかけでこのような事態になったのか、僕は全く覚えてない。何かの拍子に母親は機嫌を損ねて、誕生日ケーキを目の前で踏み潰し、ポテトを床に叩きつけ、チキンをゴミ箱に投げ捨てた。

これは上段のエピソードとは違う年の誕生日のことである。僕はすっかり誕生日が嫌いになってしまった。あまりにショックでマジで何も覚えていない。僕は誕生日にケーキを踏み潰される恐怖を味わったに過ぎなかったし、この日以来誕生日はめでたい日ではなくなってしまった。

てかケーキを踏み潰すってまずその発想がありえないだろ常識的に考えて。

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学校生活・勉強・学業

以下の全てのエピソードは、僕を「いい子」「優秀な子」に育てるためではなく、毒親自身が「いい子の親」「優秀な子の親」で在り続けるために行ったことである。

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展覧会の絵を描く僕の筆を取り上げ、自分の描いた絵を僕の作品として提出させた。僕は非常に気まずい思いをした。「きれいな絵」とは評価されたものの、それは僕の絵ではなかったからだ。しかしその評価を親に報告したところ、喜んではいた。

しかし僕に絵心がないことは担任の先生も知っていたと思うから、もしかしたら見透かされていたかもしれない。後味の悪かったことだけはよく覚えている。
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中学受験のために進学塾に通わされ、テストの成績が悪いと暴力を受けた

子供の僕は何も考えておらず、親のすすめに従って、中学受験をするものだと認識していた。今から振り返ると、当時僕の住んでいた地域には医者などの高所得者が多かったため、その子供らが暁星中だの開成中だのを目指すとか言うのに張り合ったのだと思う。

SAPIXやTomasなどのお受験予備校が広まりだしたこの時期、小学校5年生くらいからだろうか。僕は日能研に通わされていた。しかしそんな良家の子息どもと違って僕の頭の出来は平々凡々だったから、進学塾の中の世界では、僕の成績は普通~下位に低迷した。

僕の志望校は城北中(くらいしか名前を知らなかった。「城北」の響きがかっこよかった)だったが、それは開成中などのトップ層にとっては滑り止め校にすぎないため、滑り止めが第一志望とは何事かと叱責されたことは覚えている。

ちなみに僕は結局、結局中学受験はしなかった。私立中学校の学費は高額で、その時貧困母子家庭に陥っていた我が家に学費を出せる余裕が無いことを、僕は子供ながらに理解していたのだ。僕は「学費がかかるから公立中学校でいい」と言い、それを受け入れた母親は僕を憐み泣いていた。

しかし僕はこう解釈する。中学受験は、成功しても失敗しても、母親にとってはどちらでも承認と称賛をしてもらえる手札だったのだ

自己愛にあふれる母親にとって、僕の中学受験は、成功失敗どちらでも悪くなかったのだ。中学受験に成功したならば、子供を叱咤激励して難関中学に合格させた称賛すべき教育ママになれたし、受験に落ちる前に中学受験を断念すれば、母子家庭の貧困故に中学受験を諦めざるを得なかった母親として同情を買うことができたからだ。

万が一僕が中学受験して合格してしまったなら、どうするつもりだったのだろう。
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三国志の武将関羽に感動したことを日記に書かされた。

僕の担任は毎週1回日記を書いて提出することを宿題にしていた。僕の母親は、保護者面談で、担任の先生が三国志を愛読していることを知ったらしく、毎週のように三国志の感想を日記に書かされたのだった。

僕が小学生の当時、NHKで人形劇の三国志が放映されていて、その回は関羽が麦城の戦いで敗北し処刑される回だった。母親は何に影響されたか大泣きし、いかに関羽が無念のうちに処刑されたか、その忠義に感動したことを日記に書かせた。

この日記の実態は、三国志を媒体に担任に取り入って、僕を「いい子」と認知してもらうための偽装日記だった。それはつまり親自身が「いい子の親」と担任に承認されることが目的にあった。

僕はその回、大して感動しておらず、他に何か日記に書きたいことがあったことだけは覚えているが、完全に忘れてしまった。さらに言えば、後で知ったことだが、史実でも演義でも、この時の関羽孫権にケンカを売ったり曹操を挑発したりと好き勝手やっていて、荊州の安定的の支配のためには処刑されて当然のムーブをカマしていた

振り返ると、僕の母親は泣いたり怒ったりしているばかりだ。マジモンで情緒不安定の社会不適合者なんだと思う。こんなに泣いたり怒ったりする女、社会人になってからは見たことないもの。
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学芸会で場違いな金ピカの衣装を着せて目立たせようとした

僕の役は村人Dで、舞台となったのは貧しい村である。その住人が華美な服を着るわけがないのだが、劇をやるのだからと、どこから仕入れたか、金ピカのジャケットとズボンを僕に着せてリハーサルに臨ませたというわけである。

当然ながら金ピカの服を着た僕はひどく目立ち、担当教師は僕の衣装が劇に見合っているかを学年全員に問うた。その全員から僕は「それはおかしい」と指摘を受けるに至ったのだ。

状況に見合っていない服を着ていた僕も悪いし、それを着せた親も悪いが、1人の児童を晒し者にするその先生のやり方もどうかと思う。

象徴的なのは、この件で僕は特に母親から制裁を受けなかったことだ。貧乏な村人役が金ピカの衣装を着ていれば、それはただの悪目立ちであり、あくまで「いい子の親」であろうとする僕の母親にとって都合が悪かったからだ。同じ学芸会で、結局僕は紺色の上品なボタンシャツを着せられて、本番に臨んだ。

学芸会のあと、母親は僕の出番やセリフが少ないことに激昂し、僕に暴力を振るった。僕が主役ではなく、名前が与えられた重要な役でもなく、最後まで目立たなかったからだ。僕は「あの場面で活躍しているのは私の息子!」などと自慢したいという親の要求を満たせなかったがために、暴力を振るわれたというわけである。
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転校生ながら学級委員に就任したクラスメイトと比較し、暴力を振るわれた。

僕の小学校は、多分親の転勤とかで転出と転入が多く、6年間をともに過ごせたのは全体の半分くらいだった。5年生のときに転校してきたEくんと僕は仲良くなったが、彼は器量も良く、すぐに社交的でクラスの人気ものになった。

学級委員は立候補制で、僕は別に興味なかったが、母親の熱心な勧めで立候補した。投票によりEくんが学級委員になった。その時のやり取りはよく覚えていないが、「最近転校してきたばかりのEに負けるなんてお前は一体何をやってたんだ。この負け犬が」みたいなことを言われ、暴力を振るわれたというわけである。

今ならわかる。母親は「学級委員の息子の親」になりたかったのだ。僕が殴られたのは、母親のその願望を叶えてやることができなかったからだった。
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卒業式の日に私服で出席させた。

これは、僕の母親の一般常識が周りの友人たちの親のそれと決定的に乖離していることを、僕に気づかせる契機となったエピソードである。

僕も卒業式当日まで、卒業式は正装や晴れ着で出席するものであることを知らなかった。おそらく自分が持っている服の中で最も上品で高価な服を着ていったのだが、所詮はカジュアルな私服である。男子はスーツにネクタイ、女子はフォーマルスタイルでしっかりとキメてきているクラスメイトに混じって、僕一人だけ装いが異なることに、僕は激しくショックを受けた。

なぜ僕は当日スーツではなかったのだろう。慌ててスーツを探したけれども子供用スーツが見つからなかったか?いや、それはない。なぜなら僕はスーツを探しに連れられていないからだ。

あるいはそもそも、卒業式はスーツで出席するものであること自体を知らなかったか。それは体面を気にする毒親にとっては致命的だろう。「あの子スーツ着てないわね」とヒソヒソ話のネタになること請け合いである。

母親はおそらく本当に、卒業式にスーツを着せる文化を知らなかったのだ。常識外れここに極まれりである。
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公文式で大量の宿題プリントを貰うように強要され、処理できないと暴力を受けた。

僕は中学生の途中くらいまで公文式に通っていた。同じ授業料を払っているのだからプリントを大量に持って帰り勉強するのが良いという考えだったが、部活動もやりつつだったので全く進まなかった。

公文式の先生に「本当にできる?無理しないで2~3枚でいいよ」と言われたが、それだと叱責されるので「10枚ください」と言った。ある日「まずは2枚やってきてね」と2枚だけ宿題を渡されたときは、親が公文の先生にクレームの連絡を入れた。今から振り返ると完全にモンスターペアレントである。

人間関係

父親の悪口を言い聞かせた。父親は小さな会社を経営していて、僕が幼稚園の頃はまだ安定していたが、平成不況の時代に経営が危うくなり、借金取りが我が家の扉を叩くことも多くなっていた。母親は当時専業主婦だったが、父親のことを「借金をこさえて家に金を入れないダメな父親」であると僕に言い聞かせた。

借金取りから逃れるため僕たち一家は離婚し、母方に引き取られた僕は、父親を「お父さん」と呼ぶことを禁じられ、「じっちゃん」と呼ぶように言われた。

僕が10歳の時父親は60歳(高齢結婚だった)で、年齢相応にということだったが、僕は子供ながらにこれはおかしいと思い、母親のいないところではお父さんと呼んでいた。この狙いは、僕から「父親」という拠り所を剥奪し、完全に母親側に依存・従属させようとする意図があったものと思われる

まだ僕たち一家が全員同居していた時、当時の父親による母親への家庭内暴力も多々あった。思い返すと、おそらく母親の常識はずれの言動が原因になって、父親の方が耐えかねて暴力に及んでいたのかもしれない。正直、父親と過ごしている僕はまだ楽しかった。キャッチボールしたり魚釣りに行ったり、一緒に野球の試合を見たり。その意味で、父親の方はまだマシだったのだろう。
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友達を家に招待することを禁止した。

小学校~中学校の人間関係形成能力を育成する年代において、友達を家に入れてはいけないということは、僕が疎外され孤立的になるのに十分だった。僕はたまに友人宅にお邪魔させてもらうことはあったが、友人は僕の家には招待されないので、「管理人くんの家は入れてくれないから僕らも管理人くんを呼ばなくていいよね」となる。

今ならわかるが、友人同士がお互いの家を行き来することで、親同士・子供同士より強くつながることができる。しかし毒親は、そういう健全な人間関係の形成を望まなかったのだ。

この件に限らないが、毒親というのは、自分の所有物にして支配物である子供が関係を作ろうとすると、それを排除してくる。「いい子の親」である状態を維持するためには、その人間関係も審査の対象となるというわけだ。

ところで、高校生くらいになると、当然に僕のほうが体格が大きくなるので、肉体的な暴力はなくなった。しかしその分、僕に対しての束縛的な行動抑制と、僕の周りの人間関係の排除を伴う精神的な支配が主となってきたため、僕にとってのダメージはより深刻になっていった。僕が高校生以降の毒親の言動は以下の通りである。
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近所のスーパーのレジの女の子を僕に紹介しようとした

マジで何言ってるんだ?って感じだと思うが、事実である。要は僕の代わりにナンパしたわけである

「近所のスーパーにかわいい子がいる。紹介してやるから付き合ってこい」などと言い出し、嫌がる僕を連れてその子のレジの前に進み、「うちの息子、どう?」なんて紹介した。マジで迷惑だし恥ずかしいからやめてほしかった。大の大人が何やってんだよ。

僕はなぜ断らなかったか?断ったら泣き喚くか怒り狂って、収拾がつかなくなるからだ。これに限らず、毒親は思い通りにことが運ばない場合、感情を爆発させて周囲を支配しようとするので、精神衛生上極めて良くない。
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高校生の僕を日々の買い物に連れていこうとした。僕も周りの目を気にする思春期の年頃である。親とべったりくっついて買い物などしている様を好きな子に見られたなら、もうたまらない。色々な理由をつけて断ろうとはするものの、そのたびに泣いたり喚いたりするので、それを鎮静させるために、結局僕は何度も買い物に付き合ったというわけである。

思い通りにならないと怒るとかマジで子供かと。何でこんなやつが大人ヅラして街を歩いてるのか。恐ろしい。
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アルバイトを辞めろと言った

高校2年生の頃に近所にマクドナルドがオープンしたので、僕はそこでアルバイトを始めた。時給は700円程度だったが、部活動や学費の足しに少しでも足しになればと思っていたし、男女問わず友人もできて楽しかったし、そのうちの他校の女子とはデートに出かけるまで仲良くなっていた。

そうして深夜まで(と言っても22時まで)働き、土日も仲間に会うのが楽しくて働いていたが、毒親はそれが気に食わなかったらしく、アルバイトを辞めろと言ってきたのだ。

おそらく僕に新たな仲間ができて自分の支配下から僕が離れていくこと、つまり僕自身が毒親の制御のきかない「不良品」になること、言い換えれば僕が自立することに、毒親は恐怖したのだ

そうなれば「いい子の親」である自身のアイデンティティを喪失してしまう。自己愛にあふれる身勝手な毒親は、それを回避するべく、引き続き従属せよと僕に迫ったというわけだ。

僕はこの時は逆らい、アルバイトを続けた。実際に学費や部費、遊びで金が必要だったし、せっかく新しく作り上げた人間関係と楽しい居場所を失いたくなかった。これは僕の遅れてきた反抗期でもあった。
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高校生の時、部活動の顧問の先生からの電話に対応している僕に、先生の声が気に入らないので部活を辞めろと言った

この連絡は部活動の遠征予定についてだったが、その声を漏れ聞いた僕の母親は、電話向こうの声からして、僕が危険な人物とコンタクトを取っているのだと思ったらしい。高校体育の先生などどいつもこいつもヤ○ザのような容貌と声をしているものだし、そもそも学校の先生だと説明したが、乱暴なようだから辞めろと言ってきたというわけである。

ちなみにこの時も逆らい、それ以上の追求はなかった。後出しだが、僕がゴルフ部という珍しい部活動をやっていたからだろう。「うちの息子、ゴルフ始めたのよ」なんて言えば、周りがなにそれすごいと称賛してくれることを見越したというわけだ。
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夜遅くまで年相応に麻雀やカラオケに興じていると、早く帰ってこいと鬼電をかけ、二度と友人たちと遊ぶなと脅された。

これも毒親しぐさにありがちなことである。アルバイトを辞めろと言われた話と似ているが、このエピソードは僕が22歳頃の話である。高校生のガキのときであるならまだしも、ある程度分別のある22歳ともなれば、自分が何をしているのか理解しているし、あるいはとっくに(他の友人達と同じように、経済的基盤以外は)自立している年代である。

しかし僕の毒親は、僕の自立を許容しなかった。たまに徹マンやカラオケのオールを楽しむ僕を素行不良と決めつけ、それに誘ってくる僕の友人は悪意のある人間であると断じた上で、「今すぐこの場で電話をかけてお前とは二度と遊ばないと言え。言えなければ私が言ってやる」などと脅しつけてきたわけである。

このような子供の自立性を認めない態度に対しては僕も反発し、想定外の反発を受けた毒親は大いに泣きわめき、自分なんかもうどうだっていいのだとふてくされた。面倒くせえ大人だ。。。

家庭生活

食品添加物を極端に嫌った。「何でもいいからたくさん食って大きくなれよ」というような、普通の親の感性は存在していなかった。母親は郡司篤孝の「危険な食品」を読んで影響され、母子家庭で余裕がないのにも関わらず、僕たち兄弟に食品添加物の入っていない高価な食品を食べさせるようにしていた。

僕は幼い頃からマクドナルドやポテトチップス、コーラなどを飲食することを禁止され、小学校のときに友人宅に遊びにいった時も、出されたお菓子に手を付けずに怪訝な顔をされたものだ。

もしそれらの食品をこっそり食べようものなら、この場で吐けと脅しつけられるか、暴力を振るわれた。それは「子供の健康な発育のために安全を追い求める健気な母親」でありたいからだった。

つまり毒親は、極端な言説に影響されやすく、思い込みの激しい知恵遅れというわけである。常識的に考えて、社会問題になるレベルで健康被害が懸念される食品添加物が使われているわけがない。おそらくこういう親が、東日本大震災の時に放射脳に陥って西日本へ移住し、新型コロナウイルスを怖がって自粛警察になるのだろう。

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僕は友人の親からお菓子やコーラをすすめられても「毒だからいらない」など断るような、大変失礼な子供に育ってしまっていた。僕の毒親はそんな僕を「分別のあるいい子」と思っていたようだが、他人から見れば「子供らしさや可愛げのない、失礼な子供」だったことだろう。

僕の本心はやはり、お菓子やコーラやラーメンをお腹いっぱい食べたかった。その反動で僕は、大人になってから、食品添加物が大量に入ったファーストフードやラーメン、ポテトチップスが大好きになったし、ドカ食い気絶部なる運動をしていることも付記しておこう。

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マルチレベルマーケティングにハマり、自然由来の食品やサプリを与えられたほか、僕の友人の父兄を紹介するように迫った。僕の友人関係を一体何だと思っていたのか。今でも僕は怒りが収まらない。
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謎の宗教にハマり、僕たち兄弟にも題目を強制した。「世界人類が平和でありますように(白光)」「我即神也(白光真宏会)」などの題目を唱えさせられたほか、自分には守護霊や気が見えるなどと言い出し、僕たち兄弟の気が良いだの悪いだの言って困惑させた。

母親の死後、何かの宗教活動を行っていた中年女性二人組が我が家を訪れ、残された僕たち兄弟に入信を迫ったこともあった。僕は彼女たちを追い返したが、いくら自分が不安と恐怖にかられていて不安定だからといって、僕たちをも巻き込むのは本当にやめてほしかった。
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テレビに出演する芸能人が気に食わないと、テレビ局にクレームの電話を何時間も入れていた。また、芸能人の好き嫌いに同調するよう要求した。テレビは意識高い環境番組とニュース以外の視聴を禁じられた。

アニメではちびまる子ちゃんとワンピース、クレヨンしんちゃんの視聴を禁じられた。理由はそれぞれ「まる子の話し方がぼんやりしていて気に入らない」「絵が気に入らない」「下品である」だった。程度は違えど、かの加藤智大の母親もアニメの視聴を限定したとのことなので、毒親というのは子供が接触するコンテンツを完全に支配しようとするという生態が観察できる。

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家族旅行先で料理が気に入らずに、料理長と支配人を呼びつけ何時間もクレームを入れた。会席料理で出された鮎の塩焼きが、しんなりしていたらしい。鮎は焼けばしんなりするものである。

「こんな料理を客に出すなんて客を馬鹿にしているのか」みたいなことをただただ感情的に料理長にぶつけていて、僕は子供ながらに、この料理長から謝罪よりも困惑の感情を読み取った。ずっとお店の中で騒ぐものだから、他の人にも迷惑をかけたと思う。僕は本当に恥ずかしかった。何で子供の僕がこんなに申し訳ない思いを抱えなければいけないんだ。

ちなみに僕は普通に美味しくいただいた。
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スーパーで買った惣菜に髪の毛が入っていたとクレームの電話をかけて何時間も話した。上記のエピソードと合わせて、クレーマー気質を持つことも毒親の特徴だろう。店員などの逆らえない立場の人間を選んで攻撃する卑怯者だ。僕がそういうやつを嫌うのは、それが母親の怒り狂ってる姿に重なるからだ。

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歩道を自転車で走行中、ベルを鳴らして先を歩く歩行者に迫り、歩行者があまり避けなかったのを見て、その歩行者を追い抜きざまに突き飛ばした

僕は後ろからこの状況を見ていて、子供ながらにドン引きした。大人になってから、相手方が転倒して怪我でもしようものなら傷害事件で訴訟沙汰になる案件であることも認識し、二度ドン引きした。歩道を自転車で走行することに今ほど制限がなかったとはいえ、明らかに母親は社会性や一般常識、リスクマネジメントが欠如していた

なぜこんな低スペック人間が人の親になれたのか。僕は疑問に思う。
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別居中の父親に電話をかけさせ、生活費を送金してもらうよう頼ませた

常識的に考えて、子供をダシにして金を無心するなんざ人間の親のやることじゃねえよ。おそらく、自分が電話して生活費の送金をお願いしても断られることを見越して、僕たち子供を使って金を引っ張ろうと画策したのだ。僕たち兄弟を金を引っ張る道具として利用しようとした浅ましさも許せないが、何より自分の意志を子供に代弁させて、父親が断ることに罪悪感を感じさせようとするのが気に入らない。

そして何よりも「父親から金を引っ張れなかった僕は役立たずである」と子供に認知させることのリスクを理解していないことに腹が立つ。こんな自尊心の失い方を子供にさせてよくも平気でいられたな、この人でなし。

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12歳の頃、兄弟で市民プールに連れられ、女性更衣室で着替えさせられた。

僕たち兄弟は小学校高学年と低学年であり、僕は弟の着替えの監督として男性ロッカーを使おうとした。ロッカー代の100円玉がもったいないからと母親は言い、僕は不本意にも弟とともに女子ロッカーに入った。母親はトイレに行ってくるとか言って一旦姿を消した。

タイミング悪く、そこに知らないお姉さんが通りかかり、僕たち兄弟を見つけて大騒ぎした。当たり前である。僕たちは当然に、女子ロッカー室から追放された。しばらくして母親は、男女のロッカー室の分かれ道で途方に暮れる僕たち兄弟を見つけた。僕は「お姉さんに追い出された」と説明し、改めて男子ロッカーで着替えるよう訴えたが、母親は再び僕たちを女子ロッカーに入れた。

先程のお姉さんが今度は母親に「男の子なんだから男子ロッカーで着替えさせなさいよ」と正当な文句をつける。すると「私はいつも女子更衣室で着替えさせている。子供なんだからいいでしょ」と言い返していた。その後のことはよく覚えていない。

小学校高学年ともなれば、女子更衣室に入ることも抵抗があるし、利用者の女性も当然に小学校高学年の男子が女子更衣室にいることに不快感を覚えるだろう。あるいは万一僕が女子更衣室にいたことを友人にでも目撃されようものなら、僕は間違いなくイジメやからかいの標的になるはずだった。

そのような社会通念の考慮とか、他者への配慮とかが、僕の母親には欠落していたという話である。

先程の歩行者を突き飛ばした例も考慮すると、僕の母親は普通に常識外れである。僕はこんな母親をもってしまって大変恥ずかしい思いをした。いや、何度も言うが、子供に恥をかかせるなと。

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飼い猫を虐待し、僕たちにも加わるよう強要した

我が家ではかつて、キジトラ猫と白猫を飼っていた。僕の毒親は、キジトラ猫は色がついていて汚い猫、白猫はきれいな猫と認知していたようで、キジトラ猫は狭い折に閉じ込めて折檻を加え、白猫は自由にさせるというルールになってしまっていた。

このように2つの存在に対しての取り扱いを差別化して、子供をそれに従わせるのも、自身の支配権を確立させる毒親しぐさの1つである。やっていることは「馬鹿」の故事そのもので、キジトラを折檻しない=反逆=制裁の対象というわけである。

僕たち兄弟はまだ幼く、それに適応しなければならなかったから、かわいいキジトラ猫を殴らないといけなかった。殴らないといけなかったって何なんだ。子供により弱いものに対しての暴力を強要するとかマジで親のやることじゃねえよ死ねカスって感じである。もう死んでるけど。

また、猫は水を嫌う生き物であるにも関わらず、風呂に入れて洗うことを強要した。おそらくその本質は、猫をきれいにすることではなく、猫が嫌がることをやらせ、僕たち兄弟と猫に対しての自身の優越と支配権を確認することだった。それに僕たち兄弟が(嫌々ながらも)従うのを見て、毒親は楽しんでいた。猫が風呂場から脱走したなら、猫と僕たち兄弟に制裁が加えられた。

僕が高校生になった頃から、僕は僕の判断でキジトラを檻から解放し、家中を自由に歩き回れるようにした。親はそれに何も言わなかった。僕のほうが体格が大きくなり、反撃を恐れて暴力が振るえなくなったからである。

白猫は母親が死んだあとも何年か生き、16歳の大往生だったが、キジトラ猫は8歳のときに亡くなった。キジトラ猫を虐待していたくせに、キジトラ猫の死に涙する母親に、僕は怒りを感じたものである。

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母親が保険外交員の仕事をしていたとき、設計書作成のため担任教師や部活顧問、友人などの生年月日を聞いてこいと言われ、また提案調整するよう言われた。子供に「保険の提案をしたいので生年月日を教えてください」と言わせることが、どれほど子供にとって屈辱的だろう。

この時の僕は15歳くらいで、自分の家庭が友人の平和な家庭環境と異なることを嫌というほど自覚している中で、その異質な部分をさらけ出すようで、本当に恥ずかしかった。子供に恥をかかせるな。マジで一体どんな了見なんだ。
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中学生になっても一緒に風呂に入ろうとした。

今から顧みてもマジで「何で???」という案件である。僕はもう家庭内のいろいろなことを一人でやる能力が発育していたし、風呂など余裕だった。僕は思春期ながらに母親にべったりしてほしくなかったが、母親は執拗に僕と一緒に風呂に入りたがった。

多感な頃でもある。中学生になっても親と風呂に入るなんて、普通にかっこ悪いし恥ずかしいことだ。僕は友人に言えない秘密を抱えて生きることになってしまった。

振り返ると、母親は僕を手放したくなかったのだ。言い換えれば、子離れを望んでいなかった。いつまでもペットのごとく、自分に従属してほしかった。子供の独り立ちを望まない親がどこにいるかと問うのか?少なくとも僕の母親は、僕の独り立ちを望んでいなかった。
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…ざっとこんな感じである。思い出したら追記する。

さて、もし諸君が人の親であるなら、1つだけ僕から差し出がましいアドバイスがある。それはつまり、子供に対して、上に列挙したような接し方をしないことである。これらのことをしなければ、諸君は毒親になることはない。安心していい。

そして、おそらくこれらのエピソードに対しては、「何それ意味わからん」とドン引きするのが正しい感性である。「いやこれ幼少期の管理人にも問題があるんじゃね?」とか「まぁ親なんだししつけの範囲でしょ」と思った諸君は、可及的速やかに死んでほしい

毒親育ちでメンタルぶっ壊れてるけど擬態する

続いて、毒親が亡くなった後の話を。僕の母親は、幸いなことに、長く生きることはなかった。僕が23歳のときに肺ガンで亡くなった。60歳だった。母親が亡くなったというのに、喪失感はまるでなく、安堵感と開放感が僕の心を吹き抜けた。その瞬間僕は、自分の育った家庭が異常であったことを、改めて自覚した。僕はもう、この母親の息子でなくて良くなったのだ。

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今から思うと遺骨を生ゴミで捨ててやっても良かったのだが、一応、墓は建てた。母親の晩年まで叔母には世話になっていたこともあり、叔母にとっても母親は姉であるので、遺骨をおざなりにするわけにもいかなかったのだ。

墓を建てたのはケジメと決別のため、そして僕自身、遺骨を生ゴミに捨てる不忠者と思われるよりも、若くして親を亡くした苦労人の孝行息子であると思われたほうが、何かと都合がいいためである。つまり故人の追悼の気持ちなどまるでなく、ただの打算で墓を立てたというわけである。

毒親を語ることで、自分の人生を取り戻す

最後に。

僕がこのエントリを赤裸々にここまで書いたのは、僕の人生を取り戻すためだ。僕はこのエントリを書くにあたり、いくつかの毒親サバイバーたちのエントリを参照した。そこには彼らがどのような体験をしたかがアウトプットされており、そのアウトプットを通じて、彼らは人生を前に進めているような気がしたのである。

実際、自分が親に何をされて今ここにあるのかを列挙し整理することは、毒親の呪いから解放されるための第一歩であるようにも思う。「自分の親は頭がおかしかった」と堂々と言えるようになる……のはハードルが高いかもしれないが、「自分の親は頭がおかしかった」と確信する・・・・ことは、達成できるんじゃなかろうか。

諸君は僕の正常化の副産物として、このようなゴミのような体験をインプットされているわけである。しかしながら、ネットの海にこのような汚物を撒き散らすことを、僕は悪いこととは思わない。

こうして僕が思い出したくもなければ忘れかけてすらいる毒親の思い出を書き表すのは、僕が僕の人生を取り戻すために、そして自分の人生と向き合うために、必要な工程だからだ。そして多くはないだろうが、きっと一部の読者は僕に強く共感するはずでもある。僕はそんな読者と傷を舐め合いつつ、人生を歩み進めていこうと思うのである。

僕は全ての子供達が安心して健やかに育つことを願ってやまない。僕のような人間になってはいけない。僕のような人間を育ててもいけない。そのためには、僕がこれまで挙げたような毒親の言動をしなければいい。いつか毒親という存在がこの世から絶滅することを、僕はいつまでも願っている。

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