非モテ系のままで生きていくブログ

管理人は、寺社仏閣と鉄道と飛行機と猫を愛する非モテ系。モテないままで、流されることなく、流れるように、頑張らないで生きていく。旅行したり仕事とか人生とか考察したり。

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反出生主義と個人主義と、他人への無関心

junny-policies.hatenablog.com

僕は以前このエントリで、出生を与える側がどれほど理不尽であるかについて述べた。今回は出生を受けた側として、反出生主義者としての心構えを、個人主義と他人への無関心の2つのキーワードとともに考察したいと思う。

反出生主義者の心理を考察する

反出生主義者の中には、子供を持つことを肯定する見知らぬ他人に対して攻撃的な人がある。反出生主義者の主張は概ね上記の僕のエントリと同じで、死ぬという不幸が確約されている世界になぜ生命を送り出すのか、それは生まれてくる前の判断基準系がない状態であり、生まれてくる側による意志が介在しないことを問題点としている。

この論自体は特段非合理なところはないが、転じて少し考えてみて、僕は興味深いことを見出した。すなわち反出生主義者の価値観は、逆説的に、一般的価値観に酷く染まっているということだ。そしてその価値観を満たさない状態に自分が陥ることを認めたくないという心理が働いているように思える。

つまり反出生主義者は、人生の理想像というものがあり、それから逸脱した人生を歩んでいるからこそ不幸を感じているのである。つまりそれはそのまま人生の規範であり、ロールモデルであり、価値観である。関係の良好な父母の元に生まれ、愛されて育ち、友人も多く、勉強も運動もそこそこできて、中高生の頃に甘酸っぱい恋を経験し、あるいは部活動で青春の汗と涙を流し、よくもないが悪くもない大学を卒業し、大きくなければ小さくもない会社に就職し、10年経てば役職もつき、あるいは愛の結晶たる子供が生まれる。そんな理想の人生を歩みたかった反出生主義者は大勢いるはずだ。このように反出生主義者の価値観は、そもそも出発点が出生主義者のそれと同じである。これが重要なポイントだ。

しかしそれが理想通りにいかず不幸を感じているので、このように不幸にまみれた人生など生きる価値がなく、あるいはこんな不幸な人生を歩ませるとは、なんて鬼畜であり、理不尽極まるだろうかと問いかけているのである。幸福である時、人は自分が幸福であると自覚はしないが、不幸である時、人は自分が不幸であると訴えるものだ。自分自身が不幸に感じていることを他責化しているということもできるだろう。

反出生主義者たる者は、往々にして満たされておらず、その人生は理想的なそれとはかけ離れている。しかしそういった自らの境遇に理由付けがなされなければ、反出生主義者はいつまでも納得しない。そのため彼らは精神的に不安定である。しかし人生は続く。彼らは人生とうまくやる必要がある。このインセンティブが、彼らに心理適応を促進させる。彼らが自らの人生に適応していくためには、人生そのものの価値を否定しにかかる必要があるわけだ。自らは生まれてしまっているためもう生きるしかないけれど、因果論的には、そもそも生を受けなければ、このような価値のない人生を歩む必要もなかったのだ。理想的でない人生に価値はない。だから自分の人生にも価値はない。そんな人生を歩む自分自身にも価値がない。

そのような説明と理論構築を経ることで、反出生主義者は自分の人生を受け入れていく。

これは理想の人生を目指すに値しなかった自分に、納得できる理由を与える。この納得をもって、ようやく反出生主義者は人生を歩んでいくことができるようになる。ただの逃避だという非難には反駁できまいが、それを非難して何になるだろう。

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差別主義者としての反出生主義者

そしてもう1つ、反出生主義者を名乗るなら、自分が差別主義者と認めることだ

ある人が陰キャやオタクになること、いじめを受けること、障害者として生まれ育ち生きていくこと、受験や仕事で理不尽に挫折すること…このように理想に対して乖離している人生を送っている人があるとする。しかし僕たち反出生主義を称する者であれば、その人のその点を理由に人生は不幸であると訴え、その人生を一方的に無価値であると断じてはいけない。これは大変傲慢な態度である。いかなる合理性があったとしても、他人の人生の幸不幸や価値判断を自ら下してはならない。全ての人間にそんな権利はない。

実のところ反出生主義者は、自分の人生を含めて、そうしたロールモデル上にない人生を無価値であると断じている。これは他者の人生への価値判断を一方的に突きつけているのであり、極めて差別的である。反出生主義者が他者の人生を評するとは、つまりそういうことだ。しかも将来の死を理由に、幸せな家庭のもとで生まれてくることすら攻撃する。それは自ずから差別感情を露出してしまうことになり、反出生主義者=差別主義者と見なされるため筋が悪い。

けれども実際に、僕自身が反出生主義であること、あるいは出生に疑念を抱くという思索を止めることはできない。ならばどうすれば、他者を攻撃することなく反出生主義で居続けられるのか。

徹底した個人主義を確立する

反出生主義者は、それを他人に強要してはならない。出生に価値を感じている人々に対し、その価値観を否定しにかかってはいけない。彼らの価値観を否定するならば、同時に相容れぬ僕たちの価値観も否定される必要が出てきてしまう。それは反出生主義者にとって好ましくない。僕たちの反出生主義は、僕たちがそのように考える限り、否定されてはいけないからだ。

反出生主義を成立させるために最も好ましい態度は、他人に対して無関心であること、つまり徹底した個人主義である。実際のところ、出生を非難する如く他人の人生に口を出すなら、自分の価値判断系に根源的に備わっている差別感情に向き合うことになる。実際その差別感情も、人間である限り持ち得てしまう。そしてその差別感情の露出は、それはそれで出生主義者どもからの攻撃対象となってしまう。つまるところ僕たち反出生主義者は、出生主義者どもとは相容れない。だから彼らとは関係を絶ってしまうのが最も望ましい。

そもそも自分が相手にできるのは、自分の人生だけだ。自分が生きることと死ぬことのみに考察の焦点を当てることだ。そうだ、僕たちはあと30年か40年もしたら死んでしまう存在なのだ。(物理的にではなく精神的に)死を克服しなければいけない。死を迎える準備をしなければいけない。自らが最も望ましいタイミングで死を迎えるために、今際の際に後悔しないように行動し、準備を進める必要がある。そんな僕たちには、他人の人生にかまってやっている暇などないはずだ。

そして僕たちは、今生きている者も、これから生まれてくる者も、全てを救うことができない。僕たち反出生主義者は、これから生まれる命に対してさえも反出生主義を適用し、その起因となる出生主義者どもにその責を問うのか?それをしたところで何になろう。出生主義者がその瞬間に反出生主義に転向して中絶するか、あるいは将来の人生を苦にしてその命を絶つことを要求するのか?それは他人の人生にひどく立ち入った話であり、いくら生まれてくる子供の人生を心配し悲観しているという態度を示したとて、他人に対しての越権行為であり、一切許容されるべきではない。

たかが人間の分際で、人間を救うことなどできない。一方で自分を救うのは自分だけだ。出生主義とのイデオロギー対立の観点から他人に関わっても、何も生むところがない。上に書いたとおり、自分のいずれ来る死を迎え入れる準備でもしていたほうが生産的である。

僕は誰の出生も止めない。僕ができることは、ただひたすらに、その生まれてくる命が反出生主義に陥らないよう祈るしかない

僕たち反出生主義者は、このようにして他人に対して無関心である必要がある。僕たちのような反出生主義というのは、そもそも繁殖を是とする生物個体としては異常であり、非合理的であるがゆえに広まることはない。だから、いつも反出生主義者は後天的に再生産される。そして彼らは子孫を残さないから、いつでも反出生主義者は淘汰され、出生主義者どもの遺伝子のみが繁殖していく。つまり僕たちは、出生主義者どもの社会にたまたま発生してしまったエラー個体なのだ。そのようなことを自覚しつつ、個人主義を確立し、自分自身の人生のみをただひたすらに追求していこう。

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