非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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自粛要請とか緊急事態宣言とかいう憲法第13条や22条侵害案件

おそらく多くの人々は、新型コロナで死ぬことは心配していない。それよりも失業することや収入低下を心配しているだろう。僕もその1人だ、僕の思う生存の懸念をまとめてみよう。

緊急事態宣言が憲法第13条や22条違反である可能性

日本国憲法第13条は、個人の尊重、幸福追求権及び公共の福祉について規定し、第11条・第12条とともに、人権保障の基本原則を定めている。また同22条は、居住移転の自由、職業選択の自由、外国への移住、国籍離脱の自由について規定している。

緊急事態宣言によって、僕たちは公共の福祉の名のもとに基本的人権である自由権や幸福追求権を抑制される。移動したり遊んだりすることに対して、地方自治体側が明確にそれを制限できる。不要不急の外出の抑制などがそれである。これらは罰則はないが、心理的な抵抗が伴うようになる。

また緊急事態宣言のもう1つの要点である、飲食店の営業時間を午後8時までと定めることは、第22条の職業選択の自由(に付随する営業の自由)を不当に侵害しているように思える。しかもこちらは、直接的にではないにせよ、営業時間の制限に従わない飲食店の店名を公表するという方針もあり、社会的制裁をちらつかせている。つまるところ事実上の強制である。

まぁ後者の営業時間の制限を守らない飲食店の公表については、逆に「午後8時以降も営業している飲食店リスト」として転用できるかもしれないが。

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そしてウイルスが午後8時という時間に前後して活性化したり不活性化したりすることも期待できないので、この点において営業時間の制限の効果は甚だ疑問が残る。

僕が思うに、今回の緊急事態宣言の実態というのは、完全にポーズなのだろう。おそらく菅政権の狙いは、飲食店がこれまで通り営業することだろう。もはやこれは生存競争である。飲食店は生き残るために、営業をし続けなければならないだろう。また政府が補償金を出すにしても、そんな巨額の財政支出をいつまでも続けるわけにいかない。原資は税金だから有限なのだ。その意味で「自粛と補償はセット」という寝言も通用しないことも理解されるだろう。

またこうして補償金で飲食業界は救われたとしても、それに密接に関わり合っている物流業、農業、清掃業、食品加工業、設備業などの周辺業界に対しての救済は何もないわけだ。これらの業界が救われるには、これまでの生活様式を続けるよりほかはない。税金よりも僕たち一般市民の個人消費の集積の方が、圧倒的に経済的な威力を発揮するのだ。

経済に影響を与えずに感染者の拡大も抑制できる方法を模索するとか、経済も医療もバランスよくとか、優等生的なコメントはもう終わりだ。そうやってどっちつかずのコメントで何かを言った気になってはならない。そんなものに価値はない。現実は全く変わらない。バランスを考えるのは当たり前だ。その上で現実的に対応しうる選択肢を取らなければならないし、そのバランスがとれるような事案でないのなら、どちらか一方を優先し、そうでないものを劣後するという決断がなくてはいけない。

それは政治家の役割である。政治家どもよ、今こそ仕事をしろ。

コロナが人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ

コロナウイルスは、数々の統計データが示している通り、基礎疾患のある高齢者に対してしかその病原性を発揮しない。僕たち生産年齢の世代は、ほとんど健康の影響を受けないと考えて差し支えない。つまりコロナウイルスそのものは、弱った人間を殺すことしかできないような雑魚ウイルスであるのだ。それなのにコロナ禍で人が死ぬのだと言うなら、人が作った制度によってであろう。

合理的ではない規制をかけるから人が死ぬのだ。彼らはコロナでは死んでいない。彼らは政治家どもが作った制度に殺されたのだ。

世間の分別ある一般大衆どもは、コロナ禍が収まったらまたいつも通りの生活ができると期待して、それまでは自粛だの我慢だの考えているようだが、そんなことはありえない。僕たちが自粛を強要され、そんな中で死んだ事業や店舗、サービスは二度と帰ってはこない。

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考えてもみるがいい。こうした事業は、偉大なる創業者が、決意と強運と経営手腕によってようやく提供することができていたものであり、その決意も強運も代替されるものではない。よってその事業は二度と元通りの姿にならない。名所だった「いい店」はなくなったままだ。

上のグラフを見れば分かる通り、何しろ多くの経営者は60歳以上であり、このタイミングで事業を畳んでしまえば、コロナ禍が収まったとして、新たにビジネスを再建しようという気力すら湧いてこないだろう。あるいはこのように感染症というリスクによって事業の存続にリスクを抱えてしまうのなら、そんなリスクなど抱えたくもなくなるはずだ。

一度廃業してしまった事業はもとに戻らない。コロナ禍でいつまでとも知れず自粛することは、これらの小規模事業を絶滅させることだ。だから僕は緊急事態宣言に反対してきた。もう取り返しがつかないからだ。これらの事業を滅ぼしたのは紛れもなく自粛や緊急事態宣言を推進した政治家どもであり、それに対して何の疑問もなく同調した一般大衆どもである。腹に据えかねるは、この一般大衆どもが、こうして事業を滅ぼしたことに対して判断の誤りを反省することなく、あるいはそこで働いていた人々を社会から追放したことに罪悪の意識を感じることもなく、それでいて自らが善良で分別ある人間だという自負を失っていないことだ。

以前の生活様式を取り戻せ

僕は2020年春頃から訴えているが、新しい生活様式なんかいらない。

僕たちは思い知る。以前の生活様式というのが、歌い、話し、食べ、あるいはライブやスタジアムでスポーツの試合に熱狂し声援を送ることが、いかに人間的だったかを。

新しい生活様式とは、そういう人間を人間たらしめる社会性を失わせるものだ。

新しい生活様式の中で生きてても面白くない。僕たちは社会的なコミュニケーションの中で、ウイルスを移して移されて生きてきたのだ。おそらくそれが人間という社会的生物の本質だった。コミュニケーションによって取り込まれたウイルスが、僕たちの免疫向上に一役買っていたのだ。その事実を誰もが認識していなかった。それが可視化された途端これである。そこまでウイルスが恐ろしいなら、どうぞ無菌室で暮らすがいい。

そして、いつコロナ禍は収束するのか?それは皆が飽きてメディアが報道しなくなった時だ。メディアの本質とは、視聴率というかたちで数字を取ることだ。それが正しい内容かどうかは考慮されていない。メディアどもは僕たちを不安に陥れようと画策し、不安に対してさらに不安というエサを大衆に食わせているのだ。メディアどもはコロナで視聴率が取れる限り、コロナの扱いをやめることはないだろう。

僕たちは人生の本質を忘れてはならない。僕たちは病気を恐れていないのではなく、人生を楽しんで張り切って過ごしたいのだ。自粛だの緊急事態だのと押し込められて、張り合いのない人生を健康的に生きたところで無意味なのだ。それは生きているのではなく、ただ死んでいないだけだ。引きこもって社会的交流を断絶させるような世界で生きて、一体何の意味があるのか?何ならそうして抑圧された人生は、人を不幸に、そして不健康に陥れるだろう。

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