非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【新型コロナ】そろそろまとめと総括と反省会しようぜ

かつてこのブログは、非モテ底辺喪男が社会問題を斬る社会派ブログとして誕生した。今はすっかり非モテの生き方考察や哲学などを探求するブログになっているが、今回は社会派ブログなりに、今般のコロナ禍について、一般庶民視点でまとめてみたいと思う。書きたいことをとにかく詰め込んだので12000文字超にもなってしまったが、ぜひお付き合いいただければ幸いである。

2020年9月の時点で、新型コロナウイルスについての混乱(以下、コロナ禍と総称する)は、収束しつつある感がある。それはある明確な一時をもってではなく、おそらくこのまま有耶無耶に終わるだろう。そうして戻ってくるであろう日常に、このコロナ禍下の異常な日常はあっという間に上書きされるだろう。

だから、この異常な日常の記録を、忘れないうちに僕だけでも残しておこう。これこそ一般庶民から見たコロナ禍であるから、専門家が書いたものでない分、よりミクロな視点で語ることができるだろう。個人的な考察も加えつつ、僕が直面したすべての事実を後世に伝えよう。はてなブログがいつまで残るかは分からないが、この記録は、当時の日本で何があったかを僕が覚えている限りで生々しく描写したものである。多少の事実誤認があるかもしれないが、そういえばこんなことあったよなーと懐かしみつつ読んでいただけたら幸いである。

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https://www.cdc.gov/

あるいは江戸時代の庶民の日記が、当時の習俗を推定するうえで貴重であるように、僕の記録も後世において、パニック下の日本人はこんな行動してたんだなーなどと、社会行動学研究の一助とかになれば、それはもう望外の喜びである。何しろ当たり前の日常を記録することは、当たり前ではないのだ。記録すら残らないからこそ日常なのである。だからこそ、僕のような一般庶民が記したこのコロナ禍の日常の記録に価値が生まれるのだ。

このブログは、SEOで重要な信頼性や権威性、そして専門性は何もない。だから単純に、コロナ禍の情報を検索することでヒットはしないだろう。だから僕はこのエントリを、Twitterで広めることにしよう。

新型コロナウイルス」の存在自体に恐怖が広がった

武漢発の新型肺炎が、新種のコロナウイルスによるものだと発表された。この「未知のウイルス」の存在は、世界中を混乱と恐怖に陥れた。バイオハザードの世界とか、あるいは直近の2009年新型インフルエンザの混乱と恐怖が、世界中を覆った。東洋経済日本経済新聞は、オンラインで日毎に、世界中の感染者数や死者数の統計を集計し公開した。

toyokeizai.net

これらは結果として、感染が世界中に広がるという恐怖を可視化し、さらに混乱を煽ることになったが、一方で後に「データやグラフが読めない人」という残念な人々の存在を浮き彫りにするのであった。

中国当局は、コウモリ食の文化から感染が発生したと発表したが、国内のネット界隈では、中国発の生物兵器が漏れ出した説すら流れた。ネット上に生息するネトウヨどもはそうした生物兵器の存在を信じ、中国に対して憎悪を向けたが、ネトウヨどもはウイルスが変異することや、人工的にウイルスの遺伝子配列を制御することの不可能性を疑うだけの知能を持っていなかった。その意味でネトウヨどもは反知性主義者でもあった。

結局、なぜか中国寄りの言動を取るWHOに対し、感染源は中国であること、その中国を擁護していることを非難した米国が、WHO脱退を宣言する顛末に至り、中国嫌悪のネトウヨどもが歓喜する瞬間があった。

緊急事態宣言下の生活と東京都知事の動向

続いて国内でも、豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号における集団感染が報じられ、国内でも複数の感染者が発表されるようになり、いよいよ感染の恐怖が本格化するようになる。空港での入出国は厳しく管理され、14日間の隔離が義務付けられた。そしてPCR検査という手法によって、風邪のような症状が出た人に検査を行い、陽性判定の出た感染者を特定し隔離するという、もぐらたたきのような水際作戦が展開された。

さらには4月7日には緊急事態宣言が発出され、不要不急の外出は公的に自粛するよう要請が出た。この時には僕も必要な買い物のみの外出となったが、道路には人通りも車も少なく、行きつけの飲食店は軒並み営業を中止している有様で、営業しているスーパーやホームセンターも、ひどく重苦しい空気だったのを覚えている。すべての人がマスクを付けて、ほぼ会話やコミュニケーションを交わすことなく買い物を行う様子は明らかに異様だった。人々は不安と恐怖の渦中にあったのだ。

ところで、ウイルス学においては、接触レベルについては段階がある。すなわち暴露(体内にウイルスが入ること)、感染(細胞にウイルスが入り、増殖すること)、発症(咳や発熱などの免疫防御が発動すること)の3段階であり、発症の段階でようやく病状が認められる。今回のコロナ禍において検査方法として採用されたPCR検査の運用方法については、検査キット数が限られている上に判定に時間もかかるため、症状の出た人のみを対象にするという方針がとられていた。

これは合理的だったが、緊急事態宣言が解除された2020年5月末以降の段階で、特に東京都のPCR検査の運用は大変悪手であったと思われる。つまり、上述の通り政府はPCR検査を症状のある人のみに絞って実施していたのを、東京都は全体検査のように運用してしまった。しかしそもそもPCR検査は、本質的には「ウイルスが存在している・または存在していた」ことを判別する検査であり、「感染している・していない」ことを判別する検査ではない。つまりウイルスに暴露しただけの人や、感染しているけれども症状が出ていない人でも、コロナウイルスの遺伝子配列が検体上に存在すれば、彼らは陽性と判定された。そのため大量の無症状の「感染者」が発生することになったのだ。

これについては、都知事選を控えた小池百合子都知事の策略という疑いをかけることは避けられない。僕の考えでは、この時点で高齢者の死亡率が高いことが統計的にわかっていたから、都独自の緊急事態宣言や自粛要請などの施策によって、低投票率の中で訴えかけやすくその数も多い高齢者を守るという方針を明確に打ち出し、彼らを自らの票田に利用したのだ。こうして彼女はコロナウイルスから都民を守る英雄となり、都知事に再選した。

しかしこの小池都知事の動きによって、国民の恐怖と分断は決定的なものになる。特に検査で陽性反応となった人を症状の有無を問わず感染者扱いにしたことや、独自の緊急事態宣言を発出するなどの対応を行い、都民を混乱させる動きも見られた。これが後に深刻な感染者差別と、国民全体の分断を対立を生むことになる。

メディア・マスコミどもの本質を看破する

悪意の増幅器と化したSNS、そしてネット私刑リンチ

感染者差別の兆候はすでに現れていた。

2020年5月のことである。山梨県新型コロナウイルスに感染した女性がいると発表されたが、彼女の行動経路をメディアが詳しく伝え、それを受けたネット上では彼女の本人特定やバッシングが広まった。攻撃されている側から反撃される恐れのないネットという世界には、実在の人物を陰湿に攻撃するという性質をもつ汚い連中が大量に存在するという事実:つまり潜在的にこのように生贄を要求し騒ぐことを目的とするノイジーマイノリティが存在することが顕になったのだ。彼らは絶対数は少ないが声は大きく、それでいて安全なところから石を投げている卑怯な連中だった。そしてネットで彼女を養護したり、あるいはそのように報道したメディアを批判する声は、それよりも明らかに少なかった。

このネット私刑のさまによって、僕たちのパニックとネット住民の陰湿さが露呈することになった。この時僕は、インターネットは悪意の増幅器であることを痛感した。この世界は、安全であるがゆえに、その行動に悪意が伴うことの危険性を一切考慮しなくていい空間だった。反撃される覚悟のないゴミカス野郎どもの巣窟だった。こうして僕は、特にSNS経由の情報収集に限界を感じるようになる。

メディアが育てた自粛警察とマスク警察

メディアも恐怖を煽り、ネットやSNSでは感染者叩きや反自粛派VS自粛警察・マスク警察の論争が続いていた。僕が拠り所とするべきは、東洋経済などのメディアが集計した統計データや、厚生労働省感染症学会のウェブサイトの情報のみに限られた。

しかし多くの国民は、それらを確認することなく、ひたすらにメディアの報道を受容し続けた。少数のネット論客はSNS上でそれに反論を加えていたが、同じくSNS上に生息する多数の「コロナ脳」に圧殺されていた。SNSは、客観的なデータと統計を読み解き、あるいはウイルスそのものや検査の本質などを調べ上げて、自分なりの合理的な判断を下せる層と、メディアの報道のみを拠り所に恐怖と不安を感じるだけで何も考えたり調べたりしない層で二分される様相を呈していた。

ところで東京都は、5月末の時点でPCR検査の適用範囲を、歌舞伎町などの繁華街全域とし、無症状を含む陽性判定者を虱潰しに隔離していった。一方でメディアは、日々発表される「感染者」をそのまま報道し続けた。この歪みは、新たな「正しいけれど正しくないデータ」を生み出した。2020年7月、全国では連日1日1000人規模の「感染者」が発見され、感染の拡大が確実視されていた。

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しかしその1000人の感染者を発見した日、その検査数が10000~25000であることを合わせて発表することはなかったし、またやはりその中に重症者がどれだけいたかも発表しなかった。

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おそらくこのメディア側の片手落ちの発表には、以下のように大衆扇動の目的があった。

メディアの大衆扇動力は健在だった

僕が観察するに、メディアの本領発揮はこの点で、大衆の煽動そのものにあった。メディアがビジネスであることを考えれば、この扇動が意図的に作り出されたものだと気づくだろう。

メディアの目的は、正しい情報を届けることではない。あれは巨大な広告媒体なのだ。企業の広告を表示し、その広告費を集金するためのプラットフォームなのだ。それがスポーツであろうとドラマだろうとドキュメンタリーであろうとクイズバラエティであろうと、その本質は変わらない。

しかし今回、その戦略は極めて効果的で、連日報道される新規感染者、有名人の感染や死亡、専門家の危機意識の喚起などによって、メディアから情報を得ている多くの人々は不安に陥った。不思議なことに、不安に陥った人は、より不安を強くする情報を好むようになる。そういう情報を得るために、人々はテレビにかじりつく。視聴率が上がって広告費も上がる、というサイクルが動きだす。

そうして不安に囚われて外部に攻撃を仕掛けたのが、いわゆるコロナ脳とか自粛警察マスク警察と呼ばれる連中である。彼らは彼らの正義感でそのように行動したが、それを仕向けたのは明らかにメディアの責任である。

戦時中メンタリティから成長していない日本人

僕がこのコロナ禍において、まるで70年前から進化していないような戦時中メンタリティを見出したことを記録しよう。

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恐ろしいのは、これがそのまま70年前の、あの戦争に反対するやつは非国民とか言っていた時代と様相が似ていることだ。自粛しないやつは非国民、マスクしないやつは非国民だというのだ。この同調圧力は何なのだろう。極めて全体主義的な恐怖を感じる。戦争と疫病というそれぞれの非日常に対し、国家の意向をくむ多数派が、国家の意向そぐわない少数派を迫害差別する。そらく70年前に、なんの疑いもなく戦争を賛美した連中と自粛警察どもは、全く同じメンタリティをもっている

太平洋戦争中には、「欲しがりません勝つまでは」という標語があった。戦争に勝つまでは、多少の物資の不足にも耐え、不自由を我慢しようという標語であるが、このコロナ禍においては似たような言葉がしばしば聞かれる。「コロナが落ち着いたら行きましょう」である。70年前、彼らは「勝つ」ことを信じていた。そして今、「落ち着く」ことを期待している。

前者は国民精神総動員の政策において政府が定めた標語に対し、後者は国民が自らそう言っているという違いはあるが、僕の考えでは、おそらくその期待はかなわないと思われる。戦争と異なり、新型コロナウイルスの流行は、(PCR検査を続ける限り)収束することはない。よって「落ち着く」ことはない。だからどこかで「割り切る」「諦める」「忘れる」というステップが必要になる。

だが、その決断は早くなくてはいけない。特に観光業や飲食店の経営は危機的である。GotoトラベルやGotoEatが、他の産業にも先行して予算が策定され始められた理由はここにある。「落ち着いた」ころには、これらの旅館も観光地も飲食店も廃業しているだろう。そのときに騒いだり後悔しても遅いのだ。

あるいはこうして自粛を緩和していくと、「これまで自粛を頑張ったのは何だったのだ」と問う人も現れる。せっかく不便な自粛を頑張って継続したのだから、途中でやめるなんてありえない、この努力を無駄にしないために、ウイルス撲滅まで徹底的にやり抜こうというわけである。

経営学的には「サンクコスト」コンコルド効果」と表現するが、あるプロジェクトにかけたコストに対して得るものがない場合、それをやめてもかけたコストは返ってこない。にもかかわらず、コストを掛けたことを理由にそのプロジェクトを更に進めようとという非合理性を説明したものだ。日本人が苦手なのが、このサンクコストの見切りと、途中の方針変更である。日本人は、最初に決めたことをやり続ける、つまり一貫性とかを好むが、何かをすすめる中でよりわかったことをベースに戦略や対応を考え直すのが苦手なのだ。そういう感情論が行動規範になっており、その判断に合理的な部分はない。

転売厨×メディア扇動=紙製品の品薄

コロナ禍が広まってすぐ、2020年2月頃には当たり前のようにマスクは品切れになり、これまで50枚500円で売られていたマスクは、5000円まで値上がりした。医療用の消毒用アルコールも不足し、各病院では手術や診療に使用する消耗品が手配できない有様となった。転売厨どもは悪びれもしなかったし、むしろそのフットワークの軽さは見習うべきものがあるとすら思えた。

紙製品の消耗品であるキッチンペーパーやティッシュなども煽りを受けて品薄になった。原因は2つある。1つはSNS上の「紙製品は中国製だから中国から輸入ができなくなって品薄になる」という情報を、多くの人が鵜呑みにし、疑いも検証もせずに買いだめに走ったことだ。あるいは疑ったり検証をした人も、当面の在庫がなくなっては困ると、やはり必要な分だけを買い求めた。

もう1つはやはりメディアである。彼らは品薄になった陳列棚を放送し続け、それはかつてのオイルショック時と同じように、生活物資の不足という危機感を煽るものだった。この時期ホームセンターに行ってみると、数少ない紙製品の他、保存食や飲料水を箱で買う人も多く、まるで災害に備えているようだった。当時は緊急事態宣言中で、ロックダウンの噂もあったから、それに対応した行動だったのかもしれない。

僕が考察するに、オイルショックの頃と比べて、日本人は豊かになったが、精神性は何も成長していなかった。こうして情報に踊らされるさまは、ワイドショーで健康に良いと言われた食品が当日の夕方に売り切れるなどの事象と、何が違うのだろう。

ちなみに、安倍政権は各家庭に布マスクを配布すると宣言したが、これは僕は極めて有効だったと評価している。実際、マスクの品薄はこのタイミングから徐々に解消されていき、かつての価格帯よりも若干高いままではあるものの、すでに市中で気軽に購入することができるようになったからだ。このマスクはアベノマスクなどと揶揄され、そんなことよりコロナ対策をなんとかしろと叩かれたものだが、マスクの品薄を解消したというのは紛れもない功績だし、あのきっかけがなければ僕たちはまだしばらくマスクの調達に苦労したことだろう。

満員電車はクラスターではなかった件

僕は満員電車が嫌いである。密を避けるという意味でリモートワークが広まったのは、働き方改革としても非常に有効であったと思う。このような「外圧」がない限り、社会規範というのは変わらないものだ。

ところで僕は当初、満員電車が感染を広めているのではないかと考えていた。しかし結果として満員電車がクラスター認定されなかったのは、満員電車で近距離で会話し、飛沫を飛ばす者など存在しないからだ。ウイルスは主に飛沫に乗って拡散するが、通常の呼吸をしている限りは、飛沫はそんなに飛ぶものではない。今は窓を開けて換気も強化しているし、結果的に満員電車というのは、比較的安全な空間だったと総括することができるだろう。

新幹線や飛行機は窓が開かないが換気システムが優れているし、そもそも利用者が減少している。やはり会話もなかったのだろう。同じ理由で、僕は夜行高速バスもいずれクラスターが発生すると考えたが、会話のない空間である以上クラスターも発生しないのだった。こんなことなら、こっそり旅行でもするべきだったとすら思う。

満員電車は、密接・密閉・密集の三密を満たす代表例かと思われたが、密接と密集が成立しても密閉はされていないし、少なくとも黙っていさえすれば感染リスクは低いということだった。

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行政の対応:専門家会議と感染症指定変更

ある日僕は眼科の病院で順番待ちをしていて、待合室のテレビを眺めていると、速報が入った。何だと思って身構えると、東京の新規感染者が180人くらい見つかったというものだった。情報としてはその数値のみで、彼らのうち症状がある人の割合は不明である。

僕は怒りを覚えたが、一方でままならぬ事情も理解していた。それはウイルスの分類が感染症2類で、実際の取り扱いは1類相当になっているという法令的な事情である。1類というのはエボラ出血熱とかの致死性が極めて高いウイルスの分類だが、例えば同じようにエボラ出血熱が蔓延しているなら、感染者数の発表は確かに速報扱いになるだろう。その意味で、新型コロナは法令によって身分不相応な扱いをされているのであり、メディアとしてもそう扱われている以上は、1類相当の速報を出さざるを得ないのである。

よってこの点に限れば、テレビのこのような速報テロップはメディア側ではなく行政側の責任であるし、それによって僕たちが不安とパニックを引き起こすのは当然である。

アベノマスクが安倍政権の功績なら、専門家会議というのは安倍政権の失策だろう。専門家会議に、感染症対策の専門家は入ったが、経済対策や社会学の専門家は入らなかった。主に感染症研究者や医師によって構成されていた感染症対策の専門家に今回のコロナ禍の対策を作らせれば、当たり前のように、これまでの人類の生き方を全否定するような内容になる。

それが「新しい生活様式とか呼ばれたものだが、しかしその点を持って、感染症対策の専門家に文句をつけてはいけない。なぜなら彼らは、彼らの職分に置いて最善を尽くしただけであるからだ。感染症学会の医師や研究者どもができるのは感染症対策だけだ。経済対策は経済対策の専門家が出すべきだったのに、そもそも専門家会議に経済対策の専門家が参加していないこと自体が問題だったのだ。

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無観客試合でのJリーグ再開戦で、コレオで彩られた埼玉スタジアム

会話のない飲食によって断たれたコミュニケーション、あるいはスポーツの試合やライブ、演劇などの文化は、この時全て否定された。人間を人間たらしめるこれらの文化や娯楽は、上述の自粛警察どもによって「不要不急」と扱われた。サッカーや野球の試合が再開されたのはそれから4ヶ月も経過してからだが、これらの娯楽が僕たちの社会生活に必要であったことは、個人的にも思い知ったことである。誰かにとっては無くても困らないが、別の誰かにとっては必要だし、あるいは生きがいですらあることもあるのだ。

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2020年9月、GoToトラベルが始まって最初の大型連休において、観光地に多くの人出があったという。これは「新しい生活様式」に対しての国民の反発が現れたのだろうし、あるいは「もういいよね」という、コロナ禍そのものに対して飽きが来ているのだと僕は考えている。事実、僕はGoToトラベルで安価に手配できた草津温泉の某高級温泉旅館で、このエントリを書いているのだ。

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マスク警察に屈した航空業界

こんなこともあった。ピーチ航空の乗客がマスク着用を拒否したため降機させられ、目的地への到着が2時間も遅れたという報道があったのだ。

運行約款には、乗務員の指示に従わない場合は降機させると規定があるのだが、CAは「お願いしております」と言っていたのだ。お願いではなくて指示であればよかったのに、本件はこの辺りをよく読まないマスク警察どものエサになってしまった。見出しが「マスク未着用の乗客が」となっていたので、完全にミスリードとなってしまったのだ。

なおこの乗客は後日Twitterのアカウントを開設し、見る限り極めて論理的に反論している。何しろ彼は降機をさせられたところで警察に拘束されていないため、逆にピーチ航空が国土交通省に、緊急着陸重大インシデント扱いの妥当性を問われるという事態になっている。

マスクくらいつけろという人もある。確かにそれは簡単な解決策だし、社会的な正しさを鑑みるならばマスクさえつければ全ては解決することも理解している。しかし、マスクを付ける付けないの自由はあって然るべきだ。もしその自由を奪うなら、明確に運行約款とかに記載するか、指示あるいは命令のかたちでCAが明確に文書で明示するべきだった。それを「お願い」に終始したから、男性側にもマスクを付ける義務は生じない、というわけである。

「命令」を出したくないから客側に忖度してほしいと期待するのか?それは客側の社会的な態度として模範的ではあるが、もしそうであるなら、ピーチ航空側のその態度は誤っている。どうしてもマスクをしてほしいなら職務として正々堂々と命令するべきだったし、そうせずにお願いしている時点で、言ってしまえば職務の覚悟が足りていない。その意味で、本件は一言で言えばピーチ航空の不手際である。

むしろ危険なのは、社会通念上マスクはつけるべきだからマスクをせよとのたまう連中だ

ナチス=ドイツの社会では、市民が市民を積極的にSSに密告していたのだが、それはそうすることが社会通念上正しかったからだ。彼らは社会通念上正しいとされたことは、何の疑いもなくやるのだろうか。多分そうではない。彼らにも良心とか一般常識がある。本件についていえば、1つの理由は、第1に自分が不安だから、第2にさっさと飛行機が飛ばないと時間に追われるから、第3に善人であるからだ。僕はニーチェのいう畜群をここに見出す。彼らは善人であるが、善人でしかなく、あるいは悪人とみなされる恐怖に怯えながら、善人であろうとしている。善人は衝突や摩擦を極端に恐れるのだ。彼らは誠実ではない。

さて、どうして席の移動を拒否したのかという質問に対して、この搭乗者の男性は明確に答えていないが、僕が考えるに、席の移動に同意する合理的な理由がその男性にないからだ。この場合、他の乗客が不快に思うから、というのは筋が悪い。なぜなら「黒人がいるので不快だ」と思う乗客に配慮して黒人に席を移動させる航空会社の合理性を説明しなければいけないからだ。このケースは黒人差別として糾弾されるだろうが、マスク未着用者が同じように差別されることには無頓着である。そしていつからこの国は、マスク未着用者を差別するようになったのだ?

ところでJALANAも、機内でのマスクの着用をお願いしているが、その理由は「感染拡大防止」ではなく「他のお客様の不安」となっていることにも注目したい。つまりマスク警察どもからのクレームの相手をしたくないという意図がみえる。後にも触れるが、マスクに感染防止の機能はないが、社会的メッセージとして着用者が感染拡大防止の意思があるというメッセージングがあることがわかる。

まぁ僕が言いたいのは、インターネット世論というのは、このように文章がまともに読めない連中によって形成されており、その1人1人が、自分は理解力があり社会的正義の規範も備えているという意識をもっているということだ。

国民の反省

いよいよ総括に入ろう。コロナ禍においては、以下の点が明らかになった。

日本国民は、僕が考えている以上に頭が悪い。

僕は高校生の時の政治経済の授業でメディアリテラシーという概念を学んだ。これはつまり、メディアの報道をただ受け取るだけでなく、そこに整合性や合理性を常に検証する目を養うこと、そのためには様々な物事について正確な知識が必要であるということだ。しかし実際のところ、メディアの報道に対して考えることもなく受容し、結果として自粛警察やマスク警察が生まれた。そして彼らは勉強したり考慮したりしない。ウイルスについてもPCR検査を検査についても、統計的事実についても、紙資源についても、あるいはメディアの姿勢についても。

それは「コロナ菌」の表現(ウイルスと細菌の区別がついていない)とか、暴露と感染と発症のウイルス学上の定義を知らない(僕も知らなかったし、特に感染と発症の区別は、無症状陽性者の存在を理解するのに役に立った)ことからもわかる。

あるいは後遺症についても、肺炎や息苦しさはずっと残るとか恐れ慄いているが、それならなぜ新型コロナウイルスに感染したことのあるプロサッカー選手や野球選手が、後遺症に悩まされることなく当たり前のようにハードなトレーニングをこなして試合に出ているのか。あるいは2020年1月に発生したばかりのこの新型肺炎の後遺症が「ずっと続く」というのはどのように検証されたのか。こうした検証や反証などすらしない層が国民の多数派だという事実を、忘れてはいけない。

そしてパチンコ店や所謂「夜の街」の客や従業員への攻撃のみならず、ライブや演劇、サッカーや野球の試合などのイベントごとに対しての自粛圧力について、社会やメディアが流した情報をそのまま受け取ってその通りに行動する、正義感をもった「優等生」が数多く存在した。彼らは聞き分けが良かったが、一方でそれは、国や社会が是とする方針に流されやすいという、全体主義と親和性の高い危険な国民性であることも意味する。特に現代はインターネットという悪意の増幅機関が存在し、それには誰でも気軽にアクセスができてしまう。馬鹿どもにインターネットを与えてはならない。

そしてもう1つは、実態よりも態度を重視する性質である。これはマスクの着用に見て取れる。実際のところ、ウイルスが体外に排出されるのは、(感染者ではなく)発症者がその咳やくしゃみによって唾液や鼻水を含んだ飛沫によるものがほとんどである。一方でマスクの網目に対してウイルスは微少であり、マスクの着用はその発症者が自分の飛沫が体外に拡散することを抑制するだけの効果しかもたない。

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そういう意味で、症状の出ていない健康な人がマスクを着用する意味はない。しかし社会全体が、マスクの着用を事実上義務づけた。そしてマスクを着用しない者は、マスク警察どもに迫害されることになった。

このように、マスクの着用による効用そのものより、マスクすること自体が重要だという共通認識があり、それに対して異を唱えることも、やはり周囲の目線が気になってできるものでもない。つまるところ、連中はただ安心したいだけなのだ。お互い感染はしておらず、感染拡大防止の共通意識をもっていることを、マスクの着用をしてただ明示し安心を与えしめあうことが重要で、実際にマスクがそれに貢献できているかどうかは考慮されてこなかった。

以前の生活様式にこそ人生の意味がある

僕たちはこれまで、カラオケで、スタジアムで、ありとあらゆる場所での会話で、その飛沫によって、ウイルスを移して移されて生きてきたのだ。おそらくこの状態が、人間社会にとっての当たり前の姿なのだろう。

実際のところ、僕は新型コロナを軽視しているのではない。ただ存在を認識しつつも、病原性や毒性に対して相応に取り扱い、合わせてこれまでの快適な生活様式を取り戻そうと訴えているのだ。

新型コロナウイルスのことは、多くのことがわかってきた。高齢者や基礎疾患のある人には感染後の致死率が高いが、そうでない子供から壮年にかけての広い年齢層に対しては大した病原性を持たないことなども。ならば打ち手が必要だ。もう新型コロナウイルスの指定感染症分類を5類に変えよう。そして日常を取り戻し、経済を立て直そう。経済というのは死ぬと回復に30年かかり、その時代に生きている人全てを危機に晒すことになる。

これは、経済よりも命だとのたまう連中が理解していないポイントだ。経済は命なのだ。新型コロナで死ぬのは老い先短い連中だが、経済で死ぬのは老若男女すべての人々である。老い先短い連中が死ぬことは許容できないが、老若男女すべてが死ぬことは許容されると言うなら、それはそれで1つの考え方ではある。僕はそうは思わないが。

もう、あの暑苦しい飛沫防止のアクリル板とかビニールシートとか入口のアルコール消毒とかやめよう。そういうのが存在しない日常を取り戻そう。みんなでサッカーや野球を観て大声援を送ろう。何も気にすることなく飯を食い酒を飲み会話をしよう。カラオケで下手くそな歌を歌って騒ごう。

このような不要不急こそ人生なのだ新型コロナウイルスが僕たちの人生に対しての脅威なのではない。新型コロナウイルスによって経済が萎縮したり、国民同士がいがみ合って分断されることが脅威なのだ

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