非モテ系のままで生きていくブログ

管理人は、寺社仏閣と鉄道と飛行機と猫を愛する非モテ系。モテないままで、流されることなく、流れるように、頑張らないで生きていく。旅行したり仕事とか人生とか考察したり。

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非モテが考える幸福の本質~理性が本能に意味を与える~

快楽と本能との関連性

僕たちの行動は全て、本能的な部分によって支配されているのかもしれない。
ラーメンや焼肉はなぜ美味しいのか。ラーメンや焼肉を美味しいと感覚する理由は何か。

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僕たちが用を足すことに快感を伴い、その排出されたもの自体を不快に感じる理由は何か。第二次性徴期に異性を欲し、射精に快楽を伴い、あるいはセックスによって肉体的にも精神的にも満たされるのはなぜか。

僕たちはこれらの問いに容易に答えることができる。ラーメンや焼き肉を美味しいと感覚するのは、これらの食物に含まれているタンパク質や炭水化物、塩分などが、僕たちの身体を生物として維持するのに必要であるからだ。それらの栄養分を摂取しないと、健康に深刻な問題が生じるのである。

僕たちが森林に住む草食動物のごとく樹木の皮や牧草を食べても美味しさを感じないのは、それらが健康や身体の維持に役に立たないか、あるいは有害であるからだ。おそらくホモサピエンスにおいて、文化的な起源以外で樹木の皮や牧草を主食とする連中が極めて少ないのは、そのような食物を主食とした連中は弱く、進化の過程で絶滅したからだろう。

塩分についても同様で、適切な量の塩分が含まれる飲食物は美味である。ラーメンのスープやスポーツドリンクなどがその例だが、浸透圧的に脱水を起こすほどの濃度差がある海水については塩っぱく感じることで、大量の摂取ができないようになっている。生物にとって脱水は極めて危険であるのだ。

僕たちが用を足す時に快感を覚えるのは、それを体外に排出することで老廃物や毒素を排出し、健康を維持するというインセンティブがあるからである。またその排泄物を嫌悪するのは、その排泄物が健康を害する物体であることを遺伝的に認識しており、それに悪臭を感じ遠ざけることことをプログラムされているからだ。それを嫌悪しない連中は、やはり病気に弱く、進化の過程で絶滅したのだろう。

幸福と快楽との関連性

僕がなぜ長々とこのような前置きをしたか。僕は非モテでも幸福に生きる方法や考え方について悟りを開こうとしているのであるが、その幸福とはおそらく快楽と密接に結びついていて、それでいて同じものではない。そんな中で非モテが幸福に生きるためには、そういった快楽を精緻に観察することで、その実態を明らかにし、実践する必要があるからだ。

僕は、安らかであり、静かであり、穏やかであること(安静・安穏・静穏)を幸福であると定義する。これは仮説だが、この幸福に密接に結びついている快楽は、全て本能的な反応によって定義されているのではないか?安静・安穏・静穏と本能的な快楽とは、どのように結びつき、あるいはどのように区別されるべきなのか?今回のエントリでは、このことについて考察しよう。

恋愛は本能的に快楽をもたらす

大前提として、すべての快不快は、動物的な本能たる生存と繁殖を目的として考える限り極めて合理的である。それに従って行動するように、僕たちは無意識のうちに快感というインセンティブを追求するよう、積極的に働きかけられている。つまり僕たちは本能的に、生存や繁殖につながる行動に快楽を見出している。または、生存や繁殖につながる行動自体が快楽であることをすり込まれているにすぎない

本能とは、生存と繁殖のみを目的とする。生存は前置きで書いたとおり、飲食や排泄においてその制御様式を見出すことができる。そして繁殖については、第二次性徴期以降の、男の精通と女の生理によって繁殖準備が整うという、男女の生理的な変化から説明できるだろう。そういう視点で観察すると、恋愛というのは、極めて本能的な繁殖の領域においてインセンティブが与えられた事象であることに気づくだろう。

恋愛ドラマやラブソングが受けるのも、そのコンテンツとしての美しさ以前に、繁殖を目的とした快楽が不随的に励起されているのではないか。なるほどそうすると、非モテである僕が恋愛ドラマやラブソングに一切の共感が沸かないのも合理性がある。非モテである僕は、そもそも繁殖が快楽因子として励起されるだけのバックグラウンドを保持していないのだ。

つまるところ、僕が考えるに、恋愛というのは繁殖欲求が理性によって意味づけられたものでしかない。概念的には恋愛は存在せず、繁殖欲求があるだけだ。人間とは、子孫を残すことを強烈にプログラムされている動物の一種でしかなく、異性を魅力的に感じることも、性的欲求を発現することも、あるいはセックスそのものも、そのプログラムが行動させたに過ぎない

人間をそのように行動させるのは第二次性徴期以降の様々なホルモンが影響しているが、そのようにホルモンを分泌するように生態を定義したのは遺伝子である。僕たちは様々な個性があろうと、その本質は遺伝子によって行動が定義されたマリオネットのようなものであり、その意味でこの肉体は、ただ遺伝子の乗り物であるに過ぎない

非モテと恋愛と繁殖欲求を観察する

一方で、恋愛に興味のない、あるいはそれを放棄した一定数の非モテが男女問わず存在し、彼らは子孫を残さず死んでいく。彼らは繁殖本能を克服したのか?あるいは繁殖本能を真の意味で失ったのだろうか?

僕が考えるに、非モテどもは繁殖の欲求を、理性によって強制的に諦念に上書きしている。彼らは動物である限り繁殖欲求を持っているが、同時に社会的でもあるから、自分たちのそれが社会的に許容されないことをよく知っているのだ。そしてそのような行動に至ったのは、自らの非モテたる経験則に基づいていると考えて差し支えないだろう。

明らかにしなければいけないのは、僕たち非モテは間違いなく不幸である。まぁ究極的には、どうせ死んでしまうという点においてすべての人間は不幸であるのだが、繁殖ができなかったという意味では遺伝子の負け組であり、少なくとも繁殖という領域の本能を満たすことができない点で、生物としての失敗作である。

実際のところ、僕のいう安静・安穏・静穏というのは、このような本能的な快楽を理性で上書きし、その快楽を本質的に得られないことに対して代替したものに過ぎないのだ。それはつまり、僕を形作る動物的要素から目を背けることになる。僕たちがその点において、真実を覆い隠す、あるいは目をそらすという極めて不誠実な行為を働いていることを自覚しなければならない。この点を僕たち非モテは忘れてはいけない。僕たちは、僕たち自身にある動物的本能からくる欲求を、たまたま進化の過程で得られた大脳新皮質がもたらす理性と精神力によって、抑制できているに過ぎないのだ。

そうした自分を認識した上で、つまり自分が遺伝子の負け組であることを悟りつつ、安静・安穏・静穏を目指すことに意味がある。繰り返すが、僕たち非モテは、繁殖ができなかった時点で、生物としては負け組なのだ。けれども1人の人間としては負け組ではない。

様々な理由があって非モテになった者、特に理由もなく偶然非モテになった者、すべての非モテは、自己欺瞞や現実逃避を抱えつつも生きている、その営為こそに生きる意味がある。その生き方は非モテしかできないのだ。あの恋愛そのものに何の疑いももたない浅薄なリア充どもにはできないが、非モテなら自分をこうして内省するという生き方ができる。家族の愛や子育てなどで覆い隠された動物的本質を看破することができる。しかし、同じように忘れてはいけないのは、遺伝子の勝ち組であり、生物としての成功者であり、少なくとも幸福感に満たされているのは、間違いなくあのリア充どもの方だ

僕たちの繁殖欲求が満たされることはないが、これからもそれを理性で上書きし、あるいはそれを克服したように振る舞うだろう。そうした自己欺瞞を抱えた自分を大事にしつつ、安らかに穏やかに静かに生きていくこと。それが僕たち非モテの生きる道である。

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