非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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大人は迷子を助けないのではなく、助けられない件

迷子で泣いている女児を助けて交番に届けた小学校5年生男児が、警察から感謝状をもって表彰されたという。

www.nishinippon.co.jp

一言で言えば素晴らしいニュースであり、その善行は称賛されるに値する。

それに対してネット上では、「大人は何をやっていたのか」とか、「子供に冷たい社会に未来はない」というような非難の論調が相次いでいる。僕はこれに対して少々反駁を加える必要がある。

確かにこの記事にも、「大人は助けなかった」と男児が語ったことが記載されている。迷子の子供を助けるべきという道徳的規範が正しいと了解される中で、多くの大人がそれを助けないと判断したのならば、それにも一定の合理性があるはずだ。なぜなら迷子で泣いている女児を大人が助けることほど、社会的リスクの高い行為もないからである。このエントリでは、そのあたりの二律背反と、実際僕たちが迷子の子供に出くわしたらどうしたらいいのかについて考えてみよう。

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子供に近づく全ての大人は不審者である

「いい話ですね!どうして周りの大人は助けなかったんですか?泣いている子供に冷たすぎる」というネットの非難は、少々世間知らずがすぎる。あるいは単なる無邪気から来るのか、それとも道徳的側面しか考慮していないか。僕たちとて、道徳的には子供を助けにいったほうが良いに決まっていることは理解している。そしてそう理解している大人が大多数だ。それでも大人が助けなかったところにある闇の理由を、なぜ少しでも考慮したりしないのか。

不審者情報というのがある。帰宅途中に声をかけられた、後ろをついてこられた、あるいはもっと直接的にわいせつなどの被害情報があった場合、僕たちはアプリやメールなどを通じてそれをリアルタイムで受領することができる。

その中で興味深かったのは、あるお婆さんが、通学路を歩いている近所の子供に「おかえりなさい」と声をかけたところ、防犯ブザーを鳴らされたという新聞投書だ。そう教育したのは紛れもなく親世代の連中である。おそらく彼らは「知らない人に声をかけられたら迷わず防犯ブザーを鳴らせ」とその子供に言い聞かせてきたはずだ。そしてそれは子供を守るためである。そこは極めて合理的である。そしてその子供は忠実に親の教えを実践した。

僕たち非モテ層が注目するべきなのは、子供に危害を加えなさそうだと安心されそうなお婆さんという属性でさえ、子供から見たら助けを呼ぶ存在だということだ。翻って僕たち非モテ(に限らず全ての青年以降の大人たち)は、今まさにその子供に危害を加えそうだとみなされる属性ではあるまいか。ましてや今回のケースでは、女児は泣いているのである。何か大人に泣かされたとみなされて、客観的に見て明らかに不利益を被るのは、善良な市民にしてその子供に優しく手を差し伸べたその大人ではないか。

ここで不利益と表現しているのは、警察に同行を求められたり、調査や確認のために時間的拘束を受けたり、あるいは後々現れる両親に誘拐犯だと疑われて罵倒や暴力を受けることによる精神的苦痛などのことを意味している。

さて、自分の子供が迷子になった場合、両親は子供を見失った不安と自らの管理不行き届きを自覚している状態で、精神的に不安定に陥り、非常に感情的になっている。タイミング悪く、警察や警備員などが駆けつける前に両親が駆けつけようものなら、第一発見者にして心優しき保護者たるその大人に殴りかかるに違いない。「うちの子供に何するんだ!警察に突き出してやる!」と言うのが聞こえるようだ。例えばショッピングモールや駅、テーマパークとかであれば、防犯カメラなどで後々助けた人の無実は証明されるかもしれないが、そうでない場合は衆目のある前で任意同行を求められたりするという不名誉を見事に被ることにもなる。

つまり今回のケースでは、道徳的には助けるべきであると知りつつも、助けに行くことそれ自体、警察に同行を求められるという社会的リスク、あるいはそれによる時間的拘束、精神的苦痛などの可能性をはらんでいる。僕たちにとって、これらは許容できるのだろうか。

そして言い換えるならば、この問は次のようになる。僕たちの人生において、その子供を助ける価値はあるのだろうか?あるいは様々な社会的リスクを背負ってでも、助けにいくだけの価値がその子供にあるのだろうか?

あるいはもっと直接的に命に関わる場面:例えば川や海で溺れたりはぐれたりしている子供を助けようとすることにも、社会的リスクが存在する。この場合は命に関わる場面であるため、見知らぬ大人による救助についてもある程度の手出しは許容される感があるが、それでも「救助中に女児の体に不必要に触った」と訴えられてもおかしくない状況ができあがっている。そんなことはないと言い切れるか?そこまで他人は善良で合理的で分別あると言い切れるか?そう言い切れないならば、助けになど赴かないほうが自分のためである。僕たち大人は、そのあたりの社会的リスクを考慮した上で、救助に赴かなければならない。

そして僕は知っている。女児を助けたこの男児も、いずれは僕たち大人のように、「助けない側」の仲間入りをすることを。

「子供は社会で育てる」の」崩壊

そもそもどうして僕たちがこれだけ迷子を見て見ぬ振りをして通り過ぎるのかといえば、そういう社会状況だからというしかない。僕はこのあたりの地域社会学的な分野には疎いが、僕の持ちうる知識を総動員し、せめて表層的なことだけでも整理してみよう。
僕はよく知らないが、僕より年上の人達にとって、子供は文字通り地域社会で育てるものだった。ご近所さんは向こう三軒両隣が知り合いで、登校時と下校時は大人と子供がそれぞれ挨拶し、近所で遊んでて窓ガラスを割ったなら親でも何でもない他人に怒られた世界である。町内会とか回覧板とかがあって、親子ではない大人と子供どうしのコミュニケーションが成立していた時代である。僕のイメージでは、三丁目の夕日ドラえもんサザエさんのような世界観である。

時代の流れとともにそれは移り変わり、核家族を1つの個体とした極めて個人主義的な社会ができあがる。家庭のことは家庭でという線引が明確になされた。それは地域社会における子供と大人の断絶を意味した。

折り悪く子供を狙った犯罪が複数件発生し、家族単位では子供の安全を担保できるのかが心もとなくなってくる。そこで考え出された解決策は、子供と接触を試みようとする全ての大人を不審者とみなし、地域社会から追放することだった。この瞬間、地域社会は大人と子供が関わらないことを是として動き始めた

不審者の存在を織り込む社会のあり方

大人には子供に関わってほしくないのか。それならそれでいい。ならば子供への助けなど要求してはいけない。しかし親どもの要求は、関わるな、接触するな、でも困ったこと気は助けてね、というわけだ。そういうのは筋が通らないという話である。

人間社会においては、どうしても一定数の不審者は発生してしまうものだ。人間というのはそんなに純粋で美しく善良な存在ばかりでもない。社会で育てるというのは、そういう清濁併せ呑む覚悟のもとに表現する言葉だ

それとこれとは話が別で、いかなる事情があろうと困っている子供を助けにいくというのが大人としての態度だというのか。大人としての態度!それならば社会的立場や身分ある大人がそれを守るために、そういった社会的リスクを孕む事柄に関わらないよう行動することも、分別のある合理主義的な大人の態度として十分な妥当性があるではないか。

「子供は社会で育てる」の崩壊

上述の通り、僕たちは、家族とそれ以外で完全に分断されたのだ。だから「子供は地域で育てる」というような感覚はないし、子供というのは小さな他人であるということ以外の存在価値を持たない

つまるところ、この社会は、一定の不審者が紛れ込むが社会の共同体や地域の大人が子供を守る社会と、一切の不審者が存在しないが大人が誰も子供に関心を払わない社会の2通りしかない。地域社会や親世代は、不審者の排除を一義目的として、社会の方向性として後者を選択してきたのだ。子供が狙われる事件も、過去を遡ると数多くあったから、実際それは合理的であった。

そして今やそれは明らかに行き過ぎていった。いたずらをして怒られるどころか、挨拶や道尋ねのような、かつての大人がやっていたような単純なコミュニケーションでさえ不審者扱いをしていった結果、大人共は今、不審者とみなされる行動をめったにしなくなった。つまり子供に一切接触しなくなった。泣いていようが傷ついていようが、子供に関わることが不審者の行動であると共通理解がなされたからこそ、大人共は子供に関わらないという姿勢を見せることで、不審者扱いを避けるという解決策にたどり着いたのだ。

そして、いくら親どもが「困っている子供を周囲の大人が助けてほしい」と要望したとしても、大人共はこの親どもが作り上げた社会を信用していないのだ。つまり大人共は、不審者かどうか、警察への通報に値するかどうかを当の親どもが決めるという権力勾配を見抜いているのだ。不審者扱いせず、警察に通報もされず、あらゆる精神的苦痛や社会的不名誉リスクを負わない前提が保証されない限り、もはや周囲の大人が泣いている子供を助けることはないのである。その社会のどこが不満だというのだ?自分たちがそれを要求し作り上げたくせに。

大人が迷子を見かけたらどうするのか

僕たちにできることは、迷子を見かけたらやはりそのまま通り過ぎることしかない。もしそれでも良心がとがめて何かできることをしたいと思うならば、「迷子がいる」と警察に通報することだ。それ以外に関わり合いになるべきではない。僕たち非モテはなおさらだが、単独で行動している大人(所帯やパートナーを持っているのかは問わない)というのは、存在自体が不審なのだ。それが迷子という媒体によって可視化されるに過ぎない。

非モテとはいえそれなりの所得があったり社会的地位の高い者もあるだろう。それらを失いたくなかったら、そうしたリスクは回避しよう。君子危うきに近寄らず、である。運良く助けに成功したら、警察から感謝状の1枚くらいはくれるのかもしれないが、それが欲しいのならば、まぁ好きに助けに赴くがいい。

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