僕は国産ジェット機MRJにロマンを感じたことを反省したい
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20170511/biz/00m/010/025000c
国産旅客機MRJにのしかかる“過剰な夢とロマン”
※写真は本文と関係ありません
様々なところから、50年ぶりの国産旅客機MRJの先行きについて懸念する声が上がっている。先日Yahooニュースのトップに上がった神戸国際大学の中村智彦教授(地域経済論)の記事は、僕のMRJに対する考え方をわかりやすく整理してくれた。
本記事の中で中村教授は、MRJをとりまく様々な状況を整理し、それが今後のMRJの商業的成功という着地点からどれだけ乖離しているかを説明した。
航空機の選定と導入が遅れれば、その分の代替航空機を手当しなければならず、その影響が大きいこと。
そもそも三菱重工が、納入遅れに際して違約金を払わなければいけないケースが考えられること。
契約内容も、一方的な破棄が可能なオプション契約が多く含まれていること。(スカイウェスト航空への納入分100機が該当)
MRJの採算ラインは1000機と言われているが、契約機数がその半分にも届いていないこと。
日本にも地方の空港は100程度あるが、地方間輸送にMRJが採用されても、おそらく採算ラインには届かないのだろう。それを考慮して、ANAとJALがそれぞれ25機、32機で事足りてしまっているのだろうし、他の地方航空会社も、エンブラエルEシリーズを使い続ければよいという判断なのだろう。
中国版MRJは成功しつつある
MRJと対比させる上で、うまくやっているのは、中国の国産小型ジェット機ARJ21だ。中国はARJ21を、MRJに先駆けて開発し、既に商業飛行を達成している。実のところ、中国にはその広大な国土に地方都市が点在していて、地域間の航空輸送需要が潜在的に高かった。これはアメリカと事情が似ているところがある。あえて他国に販売攻勢をかけなくとも、自国内でその需要を賄えば、開発費をペイできてしまうという判断なのだろう。ARJ21は、中国国内の航空会社を中心に、300機あまりを受注している。結局中国国内でしか飛ばさないのだからということで、アメリカの形式証明(FAA)を取得する必要がないと判断されたことも幸運だった。
僕も夢とロマンを追ってしまった
僕は反省しなければならない。なぜなら、MRJ開発のニュースを聞いたとき、僕は大いに気分が高揚したことをよく覚えているからだ。景気後退により閉塞感漂う日本が、欧米に独占されている航空機開発事業という強敵に挑戦するという威勢の良さを見せたことに、少々の感動すら覚えたのだった。それはまるで、失われた30年という舞台設定をまるまる伏線に仕立て上げて転結をすすめる、少々良くできたドラマのようなものだった。
実際のところ、中国やタイ、ベトナムなどの新興国が台頭し、アジアの覇権国家としての地位が大いに揺らいでいた時期においての発表だったから、日本はまた復活するかもしれないと、日本の技術力を今一度世界に見せつけてやれる機会がつくられたのだと、僕のみならず、多くの人々がこのニュースを好意的に迎え入れたと思う。
そのことを、記事の末尾で中村教授は指摘している。国産ジェット機に夢とロマンを感じる人も多い、と。
けれども、結果からすると、航空機開発というのは大変困難であった。
誰も言わないから僕が言うけど、MRJは失敗した
僕が審判員をしていて、MRJに対して成功か失敗かの二元論において結論を出すべきであるならば、僕は迷わず失敗であると答えるだろう。その根拠は以下のとおりである。
・開発費…3300億円
・採算ライン…1000機
・世界の小型機市場の動向…2035年までに4000機弱
・現在の受注状況…400機程度
・量産体制…月産1機
・政治力…スコープクローズが未だにクリアできない
今後の展望として、例えば画期的な改修設計のアイデアがまとまって、一気に量産が進んでも、既に埋没費用となっている開発費は戻ってこない。
「今更後には引けない」という呪縛と恐怖
中村教授の記事にも、ある技術系研究者の談として、「今更後には引けないかもしれないが」という表現がある。
話は少々飛躍するが、僕は「今更後には引けない」というのが嫌いだ。往々にして、そこには合理的な根拠などなく、その発想の大部分を個人的な感情に帰することができるからだ。
単純な問題で、個人的な感情で、税金を取り扱ってはならないと僕は訴えているのだ。
戦争に例えるならば撤退戦
例えが悪いのは僕の文才の無さによるところが大きいのでご容赦願いたいところだが、今回のケースを戦争に例えてみたい。これを戦闘後の撤退戦に位置づけてみる。舞台設定としては、振興の日本は最新鋭の技術をもって、欧米の小型航空機製造という戦場(=業界)に、その業界の相当程度のシェア確保を戦争の目的として参戦(=参入)したが、その業界で認められる水準の設計に手間取り、結局その市場を多少かじったにとどまったところだ。戦果としては全日空、日本航空、スカイウェスト航空を中心に400機ほどの受注(うち半分弱がオプション契約のため、全てが戦果と確定しない)、損害としては開発費用3300億円が該当するだろう。さて、ここで判断しなければならないのは、このまま戦争を続けるかということである。
戦争を続ける限り、損害(=開発費用)は増えていく。その増大した開発費用に見合う戦果(=受注)が今後確定できるかは不透明である。何しろ未だに設計自体が完了していないのだから。そうである以上、開発費用そのものの額を確定することができず、その額の回収のためにどれだけの受注を得なければいけないのかという、到達する目的の再設定に支障をきたしている。そもそも受注自体も、今後エンブラエルの次世代型が量産されるようになると、その伸びしろがどれだけあるか怪しいところがある。
MRJに対する僕の最大の憂慮はここにある。それは、MRJ開発事業それ自体が、事業の目的そのものにすり替わっていないかという懸念である。
有り体にいうと、「中止できないから継続する」ということ。さらに言えば、「(国産ジェット機を飛ばすと)大見得を切ったのにそれが出来ないのは(自分たちの)メンツが潰れる」。「だから続ける」と続くことである。
つまるところ、損切が下手なのである。
まぁそんなことをおおっぴらには言わないだろうし、あくまで僕の邪推に過ぎないのであるが。
損切りが下手で、失敗を認めたがらない
失敗しているのになぜと問うたとき、連中が口を滑らすとしたら、「これまで開発に多大なリソースを費やしてきた。申し訳が立たない」というところだろうか。
そういえば、全く同じセリフを、80年も前に言ってた連中がいたじゃないか。「満州国を確保するためにどれだけの将兵が血を流したのか」と。それで日中戦争で引くに引けなかった(引かなかった)結果、10年後に400万人の日本人が戦争で犠牲になったじゃないか。戦争の悲惨さが忘れ去られてしまうよりも、こうしたメンツとか体面とか感情とかに対しての固執が、大きな犠牲を未来へ押し付ける要因になりうるという教訓が忘れされられてしまうことのほうが、僕は恐ろしい。戦争の悲惨さは、各地にある戦争資料館とかに行けばある程度推し量れるが、程度の差こそあれ、上に立つ人間の内面に対する固執が、社会的共同体を破滅させることもあることを認識できる人間が、果たしてどれだけいるのだろうか。
MRJは今後どこを目指すべきなのか
MRJ開発事業の目的は、どう考えてもMRJの商業的成功に置かれなければならない。カーボンファイバーを多用した軽量かつ高強度の機体設計も、プラット・アンド・ホイットニーの省燃費ギヤードターボファンエンジンも、その他の関連部品の無数のサプライヤーも、あくまでMRJの商業的成功の手段として用いられるべきものにすぎない。けれども、無数のサプライヤーからの部品供給を遠ざけ、MRJ担当の人員を整理しているあたり、MRJそれ自体がもはや開発計画の中心的存在ではないのではないかという懸念を、僕は拭うことができない。
行政と製造現場の意見が乖離していることは、以下の談にも見ることができる。まずは製造業サイドから。※記事より引用
「完成機にこだわる必要はない。これまで培った技術とノウハウで、ボーイング社やエアバス社などに部品や機器類を提供する方が現実的な選択肢ではないか」と言う中堅企業経営者もいる。この経営者は、航空機の製造組み立ては多数の熟練工が必要で人件費が高く、若年労働者が不足する日本では競争上不利だと指摘する。より高度な技術や製造ノウハウが求められる部品や機器類を海外に売り込む戦略が現実的だと考えているのだ。
続いて行政サイドから
ある行政関係者は「MRJが暗礁に乗り上げたり、赤字のしわ寄せが各メーカーや航空会社に及んだりして、せっかく育ってきた航空機産業に悪影響が出るのは避けたい」と言う。「正直、三菱航空機がなんとか頑張ってMRJを完成させ、販売できるよう祈るような気持ちだ」と別の行政関係者は語る。
僕は三菱重工業にではなく、政府に物を言う
計画が頓挫したらば、目的の修正をしなければならない。せっかくこれまで開発に尽力してきたのだから、という感情もあることは理解する。けれど、あくまでこれというのは、三菱重工業が一企業体の事業として取り組んでいるものであって、そこに税金が投入されているのだ。それならば有権者として、納税者として、僕は僕なりに意見を表明する権利があるはずだ。
僕は三菱重工業の株主ではないから、三菱重工業それ自体が事業を継続することは何とも思わないし思う権利もない。けれど、それに税金を投入して云々ということについては大いに意見させてもらおう。
掌返し?まさにその通り。けれどそれを僕は悪いと思わない。無理なものを無理だと判断し撤退するか、別のゴールを探すかを検討するのは合理的だからだ。