非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」とかいう微妙なリア充ラブコメ

俺ガイル原作完結、アニメ3期放映おめでとう!

この読後感は何だろう。

不快である。

期待外れである。

想定外である。

どれも正しいように思えて、そのどれでもない気もしている。いずれにしても様々な納得いかない感が、今僕を貫いている。

このエントリにはネタバレが含まれている。これだけまとめブログやYoutubeアーカイブされている俺ガイルのようなコンテンツに対してネタバレもへったくれもない気がするが、まだ読了していない諸君はここでブラウザバックされたい。10行後より文章が続く。

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「あなたが好きよ、比企谷くん」

おい、マジかよ。ほんとにめんどくせぇなこいつ。

言い逃げされたらこっちはなんもできねぇだろ。

なにこれ、別の機会にまた改めて俺もなんか言わなきゃいけなくなるんじゃないの?そういうのほんと辛いですけど。マジでめんどくさい。

──けど、死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。

比企谷の劣化コピーを自称していた自分

俺ガイルを初めて読んだ時、比企谷は僕にとても似ているように思えた。比企谷も僕も(学校の勉強的な意味での)学力はそれなりに高かったほうだし、同じように死んだ魚の眼をしていた。そして思想も。その発言一つ一つはとても僕に共感できたのである。それは、「なぜ自分の感じている楽しさを、自分の正しさを、己一人で証明できないのか。」とか「人生には一度や二度、孤独と向き合うべきときってもんがある」とか、「孤高であることは強い」とか、僕みたいなコミュ障非モテの琴線に触れるような表現が随所に見られるからなのだ。

しかし似ていたのはそこだけで、僕には比企谷とは違って小町のようなかわいい妹はいないし、既に両親ともに亡くなっている。さらには比企谷は顔立ちはそこそこ整っており背丈もそれなりにあるが、僕に至っては、薄い眉に小さい目と横に潰れた低い鼻と不格好に飛び出た口を持ち、加えて背も一般的女性の平均くらいしかないときている。比企谷のリア充コンプレックスに加えて、僕は容姿コンプレックスも属性としてついてくるわけだ。

人物に共通点が多いと創作は受け入れられる

しかし実際のところ、この作品が結局容姿や周囲の人間に恵まれた青春リア充物語であることに変わりはない。僕はラブコメに限らず、あまり小説や映画などの創作が得意でない。それはすべて虚構だからだ。美人の担任の先生がいて、その先生から突然紹介された部活にこれまた学年一の美少女がいて、斯々然々かくかくしかじかの経緯があって同じクラスの美少女から好意を寄せられているという状態が、虚構でなくて何であるだろう。

それなのになぜ僕はアニメを見通してしまったのか。それは、上にちょっと書いたとおり、比企谷は僕に似ているような気がしたからだろう。それだけではない。雪ノ下の孤高さ、建前を嫌うところ、人への頼れなさ、それらによる苦しみにも僕は心当たりがあったし、由比ヶ浜の周囲の円滑な関係性を追求するあまりに自分の本心が言えない苦しみにも僕は心当たりがあった。

主要な登場人物にこれだけの共通点があれば、それはそれで話もすんなり受け入れられるというものである。そういう描写のないただのラブコメだったら、僕はきっと途中で見るのをやめていたに違いない。

俺ガイルを視聴する非モテを考察する

ところで、非モテ非モテであるのは、傷つくことと傷つけることの覚悟ができるほど大人になれなかったことが原因である。それを掘り下げると、その覚悟ができるほどの恋愛経験を積まなかったこと、あるいは積むことができなかったことがその根本にある。今更そんな経験と覚悟を自分に課してしまったら、自分の心が折れ壊れてしまうだろうということを、非モテはよく理解している。

傷つくことは苦しいことだが、傷つけることも苦しいことだ。そんな苦しいことはしたくない。一言で表現するならば、極限まで非モテは怠惰なのだ。だからギャルゲーや二次創作ものに走るのだ。そこは自分が誰かを傷つけることによって自分の心が痛むリスクを回避でき、自分が誰かに傷つけられることそのもののリスクを回避できるユートピアであり、桃源郷であり、安住の地であるからだ。一方で人はそれを、精神的な未熟さと定義するに違いなかった。

僕は「俺ガイル」に出会ったことによって、自分の中にある、非モテ非モテたらしめる精神的な未熟さに気づかされてしまった。僕はそんなもの見たくなかった。僕は非モテなりに知性と理性をひたすら研ぎすませて、それを何とかごまかそうと極めて非人間的であろうとしたが、それこそが僕の精神的未熟さを自己欺瞞で覆い隠すヴェールのようなものであった。

僕が何よりも嫌った自己欺瞞が、僕の中に存在したことがえぐり出されてしまったのだ。今や僕は、自分の根底にある人間的未熟性からなるどす黒いヘドロを認識してしまった。僕はこのヘドロを抱えて人生を歩まなければならない。

そして、半分以上僕のエスパーなんだけど、おそらくこの作品の読者の多くはコミュ障で恋愛経験に乏しく、葉山のようなイケメンリア充層に強烈な劣等感を抱えていたはずだ。だからこそ、このような鬱屈した思いを抱えながらそれらのスクールカースト上位層から逃れるようにコソコソ過ごしていたはずであり、そんな過ごし方をしていた読者層は、その姿を比企谷に投影したのではなかったか。

僕自身もそれを否定しない。

比企谷がただのリア充に成り下がった

しかし、冒頭のセリフとモノローグである。

かくして比企谷は雪ノ下という恋人を得たリア充になった。ハッピーエンドを迎えた、そして無事完結したことを喜び祝福する読者は多い。しかし僕は問いたい。青春とは嘘であり悪であるとか、リア充砕け散れとか作文に書いていたあの陰キャコミュ障の比企谷はどこへいってしまったのか

実は兆候は既にあったのだ。アニメ第二期の冒頭の修学旅行エピソードである。

実のところ僕には、修学旅行で嘘告白を行った比企谷の行為に対して、雪ノ下が怒り由比ヶ浜が悲しむ理由が未だによく分かっていないのだ。海老名の依頼は達成され、戸部も海老名に告白する前に阻止されたことで、別途告白のタイミングを探ることができると同時に、葉山グループの友人関係も維持することができたのである。僕から見れば比企谷は依頼を遂行しただけであり、関係者は誰も損をしていない

ここで明らかになるのは、比企谷が傷つくことで悲しむ人がいて、それが異性であり、学年トップクラスの美少女であるという事実だ。もうこの時点で比企谷はもはやただのリア充である。何となくストーリーを追いかけるという意味で僕はその後も見続けたが、この時僕は比企谷を、そしてこの作品自体を見切るべきだった。

ちなみにこの嘘告白において、当の比企谷はまったく傷ついていないのであるが、それを勝手に傷ついているのは単純に由比ヶ浜の感受性が異常だと思われる。雪ノ下についてはコミュ障なので「やり方が嫌い」だとしか意思表示できなかったが、「あのタイミングでああするしかなかった」という比企谷に対しての反論が成立していないところをも見ると、どうもこのあたりの人間関係の機敏は比企谷のほうに軍配が上がるようだ。

イムリミットとかデッドラインのような概念があれば、実際あのタイミングで戸部の告白を阻止しなければいけないという発想にたどり着く。その方法は比企谷の嘘告白しか手がないのに、雪ノ下はただその方法を否定するしかしなかった。

アニメ第二期の後半、クリスマスイベントの前後から、明らかに雪ノ下が比企谷を意識している描写が目立っていた。雪ノ下と由比ヶ浜という2人の美少女から想いを寄せられ、それに感づきつつあるが、居心地が悪くないためそれをごまかしつつ現状維持を試みる比企谷という構図である。

比企谷が最も忌み嫌った自己欺瞞に、今比企谷自身がとらわれている。それを正面からストレートに突っ込まれたのが、クリスマスイベント時に陽乃が放つ「それが比企谷君が求める本物?」という一言である。いい雰囲気の3人に対してそれをぶち壊す陽乃にはひどくヘイトが集まったが、今見返せば僕こそそれを受け止めるべきであった。

もしかしたら陽乃が1つの良心だったのかもしれない。陽乃が3人の甘ったるくて欺瞞的な「現状維持」を破壊するきっかけとなったのは、間違いなくファインプレーであった

比企谷がただのリア充に成り下がった

その後、アニメ3期では雪ノ下家の後継問題や卒業式、プロムとイベントが続くわけであるが、僕が見る限り、既に「間違った青春」はどこにも存在していなかった。比企谷は、このまま奉仕部のヌルい関係が続けば、いずれ奉仕部という媒体がなくなった時、つまり卒業を境に連絡を取らなくなり自然消滅するだろうと見越していた。

比企谷は、雪ノ下との関わりを続けたいためにプロムに(無理矢理)関わっていったり、それに前後して由比ヶ浜を悲しませたくない人扱いする。そんな比企谷の姿は、何とか好きな異性との関わりを保とうとする健全な・・・、つまり間違っていない男子生徒の行動そのものである。その後は比企谷が卒業式で泣いたり(この点も疑問で、たぶん城廻先輩関連なんだろうが、泣くほどのエピソードに心当たりがない)、プロムを成功に導くなど、全てにおいて間違いのない、リア充側の言動が続いていった。

この場合、コミュ障の諸君ならどうするか、僕には容易に想像がつく。2人とも卒業まではそのままの関係を続けておき、卒業後は一切の連絡を取らなくなるのだ。連絡を取る必要性がなくなるからである。このことは平塚先生も語っていたが、もしかしたら由比ヶ浜みたいなキャラが、たまには会おうよなんて声をかけてくるかもしれないが、それも由比ヶ浜が「会いたい」と思わなければ、やはり自然消滅に向かっていくのだ。

junny-policies.hatenablog.com

コミュ障に2人の美少女との関係なんかできない、というツッコミはさておいて。

とにかく、卒業式にプロムと、間違いのない青春が続くアニメ3期中盤以降は、作品タイトルそのものの否定と言ってよく、大変冒涜的だと思った。プロムのようなリア充イベントに秒で拒絶反応を示すような、非モテリア充諸君が投影できる比企谷の姿は、もはやどこにもなかった。僕たちが投影するべきは、そういうイベントで一切注目を浴びることのないモブキャラでしかなかった。

こうしていつの間にか、ラノベの名作は、誰も何も間違えないただのラブコメに成り下がった

僕は比企谷に最後まで間違い続けてほしかった

僕は、比企谷にはいつまでもコミュ障でいてほしかったし、フラグを破壊し続けてほしかった。そんな間違った選択肢を己の卑屈さを根拠に選択し続けてほしかった

恋愛は、好いた側も好かれた側も、同じように傷つけ、傷つけられる関係の上に成り立っているのだ。そしてその傷の痛みに耐えて、あるいはそれを癒やして、そんなことを繰り返していくうちに、大人と呼ばれていくようになる。

恋愛において必要条件というのは、一定水準の容姿とか収入とかそういうハード面のものを除くと、おそらくある種の覚悟があることなのだ。その覚悟とは、自分が相手を好きになり、あるいは大切することの結果として、あるいは自分が相手に好かれ、あるいは大切にされることの結果として、自他双方に発生して傷つけ傷つけられの関係が発生することに対しての覚悟のことだ。

「お前の人生を歪める権利を俺にくれ」という比企谷のセリフはまさにそれである。そしてそれは、上記の恋愛に対して一切間違っているところがない。

・・・ふざけるな。

結末は雪ノ下とのイチャラブである。実のところ僕は、どちらにもフラグの立っている雪ノ下と由比ヶ浜の好意をどのように破壊して完結するのかだけが楽しみだったのだ。比企谷のコミュ障と他人に心を開けない性格の結果、全員が傷ついて別れて終わる。そんな終わり方がよかった。そしてそれこそが「間違っている」ラブコメの姿だと信じていたからである。

比企谷は知らぬ間に間違わない陽キャ側のリア充に成り下がっていた。それを僕は楽しんでいたというのか?

それにしても由比ヶ浜の救われなさっぷりが際立つ。由比ヶ浜は結局告白することも雰囲気的に許されることはなく、ただひたすらに親友と同じ人を好きになってしまったことの板挟みになり、身動きが取れなくなってしまった。

初期から比企谷に好意を抱いていた結末がこれである。まぁ僕の中では由比ヶ浜も「間違った」比企谷によってフラれる運命だったが、どちらにしても「救われた」雪ノ下と比較して完全に割を食っている。判官贔屓がすぎる気もするが、ひどく残念な扱われ方をしている。

俺ガイルの価値は平塚先生にある

そうだな、この作品は非常に成功したと思うけど、僕にとっては期待外れだった。結局最後の最後で間違えなかったリア充主人公などもはや論ずる価値はない。僕は最後に、この作品の良心にして最後まで結婚できなかった平塚先生の名言を記載しておこう。

「誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならない」

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだ」

「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいる事にそろそろ気付くべきだ」

とか、とか。僕そんなこと言われたことなかったな。そういう考えもあるんだね、知らなかったよ。そして、そう思ったり思われたりする関係が欲しかったな。

いやでも、僕これまでに人を助けたことなんてあったっけな。そして僕が傷ついて痛ましく思う人なんかいたっけな。親はそうだったかな。ちょっとわかんない。親以外では?記憶もないし心当たりもないや。

あまりアニメ作品に肩入れするものではない。それらは一時の現実逃避にはなるが、自分の人生そのものを豊かにすることはない。僕も現実に帰るときが来たようだ。よし。話は終わりだ。

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