労働とかいうクソゲー
月曜日が来た。5日間の平日が始まる。もうこれを何度繰り返し、僕はその度に落ち込んだ。僕は既に日曜日の夜から憂鬱だった。明日になればまた5日間も働かなければいけない。
かれこれ僕は13年もサラリーマンをやっているが、この13年の間、労働を楽しいと思ったことがない。13年もやっていて面白さや楽しさが一切なく、可能な限りしたくないと思われ続ける労働とは、一体何なのだろう。
このエントリでは、どこかの転職アフィリエイトブログみたいな、仕事に消耗したら転職しましょう!輝くあなたらしい働き方を☆のようなことは書いていない。これは、ただひたすらに労働を厭わしく思う読者諸君と、働きたくないという深層の欲望に共感するためだけのエントリである。
労働が楽しいという欺瞞
労働は楽しいかと問うのか?満員電車に揺られる社畜どもの表情を見るがいい。それはディズニーランドやユニバーサルスタジオ、あるいはスーツケースを抱えて空港へ向かう電車に乗る人の表情とはまるで違う。これから体験するであろう素晴らしいアミューズメントを楽しみにしている人の顔ではない。
もし転職サイトや求人メディアで言われているように、どれだけ仕事を楽しむだの何だのと宣ってみても、実際に仕事へ向かう人々の表情、目つき、雰囲気を見れば、そんなことはありえないということがすぐに分かる。仕事が人生の大半の時間を捧げるにふさわしい素晴らしきものであるなら、満員電車に揺られる社畜どもの目つきがこれほどまでに濁り澱み生気が失われているはずがない。
はっきり言って、こういう態度で仕事に向かう人々がこれほどまでに多いならば、それこそが仕事に対しての人々が思っていることを表している。誰しも仕事に行きたくないし、仕事をしたくないのだ。それなのに仕事をしなければいけないから仕事に出ることを強いられる。そしてその生活を何年も繰り返している。
満員電車は社畜どもの静かなる憎しみを運ぶ。
そんな人々が何人も集まれば、電車の雰囲気は推して知るべしである。彼らは電車の空席を見つけるや、我先にとその席を争う。それを見るだけでも気が滅入る。その僅かな1日間ですら座りたいほど、彼らは消耗しているのだ。
その空間では、皆が皆に対して無関心であり続けたいし、ただでさえその雰囲気に体力が削られる。それをずっと立ちっぱなしの中でというのは、さらに人々を疲れさせる。
いっそ仕事を辞めて転職するか?転職するなどと思い切ることができれば、むしろ憂鬱になどなりえない。実際に転職するなど思いも寄らない。何しろ僕には何もない。僕のような低スペックコミュ障を中途採用で受け入れてくれる職場など存在しない。そういう会社に貢献できる能力をもっていないからだ。あるいは転職のために時間や体力を使って履歴書や職務経歴書を書いたり、面接に赴くことすら煩わしい。
転職しても労働は苦しいことに変わりない
それでも転職で環境を変えようというのか?僕も何度か転職してるので、環境を変える重要性は理解しているつもりだが、何度会社を変わっても、仕事をすることが楽しいと思えたことはなかった。
つまり転職することによって仕事の楽しさを得ることは出来ない。だとすると仕事の楽しさという概念そのものの存在を疑う必要が出てくるだろう。
おそらく問題の本質は、仕事そのものにある。僕が思うに、どんな仕事であっても楽しみは存在しないのだ。そんな楽しみでないものを毎週40時間以上も要求するこの世界とは、端的に言って地獄である。
しかしてそこから抜け出し、フリーランスとかで気ままに生きていく(僕の考えは全く逆で、フリーランスこそリスクの高い働き方だと思う)ことや、やはり転職するほどの気力を持てない人もあるだろう。
であるならば、やはり不本意ながらサラリーマンを続けるしか選択肢がない。僕はそんな閉塞感を抱えた人に共感しているから、そして僕自身がそうだからこそ、このエントリを書いているのだ。
新卒8年間の職場ガチャを当てる
いやそれにしても、サラリーマンとはなんと取り返しのつかない職業であるだろう。実際のところ、サラリーマンとして労働する時間は22歳から40年ほどもあるのに、35歳〜40歳とかに転職限界みたいなのがあるのが絶望的である。
また異業界異職種への転職は30歳までとか言われると、実質最初の8年で職種業界ガチャを当て、自分が働きやすい職場や職種と出会わないと、身動きが取れなくなって文字通り詰んでしまう。
サラリーマン、35歳〜40歳とかに転職限界みたいなのがあるって割と絶望的だよな。そして異業界異職種への転職は30歳までとか言われると、実質最初の8年で職種業界ガチャを当てる必要がある。
— 非モテ菩薩 (@himote_sattva) April 22, 2021
それまでに安住できる職場と出会わないと、20年〜25年も合わない環境で働き続けざるをえないので詰む。
しかも後半の25年間は、前半の15年間の職歴に整合的だと思われる職業しか選択肢になりえなくなってしまう。営業職なら営業の、SEならSEの、経理なら経理の系統しか転職の選択肢がなくなるというのだ。例えばもしその間で営業しか経験していなかったら、未経験職種の転職は35歳とかになったら厳しい。そうすると不本意ながら以降も営業職を続けるしかなくなる。自分はそこから脱出したいと思っているにもかかわらず、だ。
これは極めて絶望的な事実である。文字通り取り返しがつかない。
「働きたくない自分」を認める
実際のところ僕の今の労働環境は、偶然に偶然を重ねて流れ着いた結果、おさまるべきところに収まっている感がある。しかしそれは決して自分で選び取った未来ではない。僕も僕とて、生活するために金が必要だから致し方なく働いているだけだ。
そうだ、僕は働かずに済むなら、働くという行動など取らなかったのだ。その意味で僕にとって労働は強制である。満員電車で沈痛な面持ちになりながらも働き続けるのは、ただ単に生きるためでしかない。生きる必要がなければ、明日にだってこの労働などやめてやるのに。
そういえば、「なりたい職業」というのは一体どういう了見なのだろう。なぜ働くことそのものが何の疑いなく前提とされているのか。
本心を明らかにすると、そもそも僕は働きたくないのだ。僕が思うに、働きたくない人ほどこの本心を努めてみないようにしている。働きたくないという本心を誤魔化してその事実を希釈する人は、二重人格のようなものである。彼らは労働に価値を見出している人間を演じる必要があるからだ。
そしてこのように、心が感じている事実を抑え続ける欺瞞性が、人を消耗させる。満員電車で揺られる社畜どもの目は、その消耗の果てである。
だからせめてこの僕は、働きたくないと思っている自分自身を積極的に認めるということをやっている。実際のところ、労働社会で生きていくには、少なくとも仮面的にでも働きたい自分を演じたほうが適応的である。そんな二重人格の片割れを演じるにあたり、働きたくない自分自身を許容しているか、むしろ演じるのではなく必死に働きたい自分になろうとするかでは、予後が相当違ってくるように思う。
とくに後者は働きたくない自分という本当の自分を否定しにかかる考え方であるから、いつまでたっても本当に仕事が好きで働きたい自分になることができず、いずれ深刻な自己否定につながるだろう。
仕事に行きたくないなら1人で海を見にいこうぜ
1つだけ方法があるとすれば、その1日だけでも仕事から離れることだ。
もし仕事に行きたくなくなったら、そのまま反対の電車に乗って、
海を見に行くといいよ。
海辺の酒屋でビールとピーナツ買って、海岸に座って
陽に当たりながら飲むといいよ。
ビールが無くなったら、そのまま仰向けに寝ころんで、
流れる雲をずっと眺めるといいよ。
そんな穏やかな時間がキミを待ってるのに、何も無理して
仕事になんか行く必要ないよ。
湘南新宿ライン、東海道線直通の熱海行きに乗るのが、都内で働く僕の通勤ルートだが、よく考えるのは、このまま会社の駅で降りずに海を見に行きたいということだ。そして数ヶ月に1回位のペースで、それを実行している。
海というのは不思議なものだ。それを眺めているだけで何となく心が落ちついてくる。僕は非モテでコミュ障で低身長で顔も悪いただのサラリーマンであるのに、そんな自分でもまぁいいか、と思えてくる。
海の広さ、遥かなる水平線とその彼方にある知らない国と人々の存在、そして地球の大きさ……そういうものに比べて、自分は地面を這いつくばる1粒の虫みたいな価値しかない。そんな価値しかない僕が何をしても、何をしなくても、何ができなくても、おそらくこの世界は何1つ変わらないのだ。
そして、それでいいのだ。僕は僕にできることしかできない。
僕が働きたくない自分を肯定し、あるいは無能なら無能なりにやるだけのことをやろうと割り切ることができるのは、こうして時たま平日のど真ん中に海を眺めにいったりして、仕事から離れているからだ。
労働社会で生きていくためには、このように少しの間仕事から距離を置く必要がある。僕が今日休んだところで、どうせ僕の代わりならいくらでもいる。そして将来、僕がいなくなっても会社は全く問題ない。
労働の問題点は、労働にかまけているうちに労働のみが人生の価値になってしまうと錯覚することだ。それを避けるためにも、ぜひ積極的に休んで平日のど真ん中に海を眺めたり温泉を堪能しに行ってみよう。世間一般の労働者どもが汗水たらして働いている中、温泉に浸かって美味いものを食べて昼寝するのは、大変満足度が高いのでおすすめである。