異世界転生の次はパーティ追放。なろう系小説を考察しようぜ
ありがたいことに、以前僕が公開した異世界転生系小説についての考察記事は、まだ読まれている。僕はこのエントリで、先のエントリの続きとして、最近流行っているパーティ追放系のなろう系小説を考察してみよう。
生まれ変わるのと追放されるの違い
僕はこのエントリで、2000年代以降に放送されたいくつかの人気アニメ作品を、ツンデレ系、美少女動物園系(男性排除系)、異世界転生系の3つに分類した。そしてそれらの主視聴者層を氷河期世代と推定し、この氷河期世代の異性との関わり方の需要に応じて、作品の傾向が変化していったのではないかと説明している。
分かりやすく想定内の小説だけを読む読者層
かつての名作の小説といえば、「こころ」だの「伊豆の踊り子」だの「金閣寺」だの、大体文節が1つか2つでそのタイトルが決まっていたものだ。しかし今、「ドラゴンボール」とか「鬼滅の刃」とかのようなシンプルなタイトルではなく、なぜこのようにラノベのタイトルは長ったらしい説明口調で構成されるのか?
こういったタイトルは最近始まったことでもないので、正直どこまで一般化できるか不明だが、この視点から、その読者層を考察してみよう。このようなタイトルは、それさえ読めば大体どのような物語なのか想定できてしまう。
僕はこれが何かに似ていると考えていたのだが、つい最近それを理解した。
コンテンツタイトルは、時代の流れをあらわす。話を戻すと、これらのラノベの読者層は、分かりやすいもの、あるいは内容が初めから想定しうるものしか受容できない。僕が考えるに、この読者層が最も忌み嫌うのは、タイトルから乖離した結末を迎えること、あるいは想定外であることだ。そしてそれは回避されるべきものでもある。AVだってそうだ。タイトル買いしたら趣味と合わなかったというのは回避したい気持はよく分かる。
自分の想像通りに物語が結末しないことはストレスであり、自分の想像が外れた場合と、あるいはそもそも展開が想定できない場合は、不快を催すのだろう。それを回避したいというインセンティブが働くようである。どういう機序でそのような心理が働くのかはわからないが、自分の想像の限界を超越する展開は、そこまで思い至らなかった自分の限界を認知させる。だとするとラノベ読者は、「自分が知っていること」が否定されることを忌避しているように思える。逆にいえば彼ら読者にとって、自分の想像の限界は傷つけられてはいけない大切なものに違いない。
僕の偏見であるが、おそらくラノベ読者層は、一般的な小説などは読まないだろう。なぜなら一般的な小説は、タイトルだけでどのような物語なのか想定することが不可能だからである。そんな小説に手を出して、難解なストーリーや複雑な展開を想定できずに自分の全能感を傷つける可能性があるなら、最初から手を出さない方が無難である。このような彼らをターゲットにした小説というのは、それはどのような物語かを考察しなくても頭に入ってくるだけの消化の良さを備えてなければいけない。
氷河期世代は読者の主層ではない説
小説を理解するためには、大なり小なり登場人物への共感や自己投影が必要である。仮に氷河期世代がパーティ追放系小説を読むとして、そもそも最初から社会から追放されていた氷河期世代が、パーティで目立たなくも貢献し、居場所のあった主人公に感情移入するのだろうか?氷河期世代はそもそも出発点が社会から居場所を剥奪された側であるので、どうもそこの親和性が低いように思える。
とはいえ、氷河期世代がパーティ追放系小説を読まないということはないだろう。しかし僕が思うに、おそらくもっとこれらのパーティ追放系小説に親和性が高い読者層がいるように思う。それは誰か?ゆとり世代以降のような現役世代の中で比較的若く、就職したはいいものの、うまくその社会に適応できなかった層ではないか。
パーティ追放系はゆとり世代以降に親和性が高い
おそらくゆとり世代の彼らは、少なくとも今何かしらの組織に属している。つまり組織の中で居場所が存在している状態がスタート地点である。このスタート地点は、氷河期世代においてはそもそも最初から社会から追放されていたので、居場所が存在していなかったという違いがある。
このゆとり世代読者は、今属している社会の中で、本人が実際に有能か無能かはともかく、それなりに無能寄りの扱いをされているのだ。その現実を変えようとする実力がないか、あるいはその機会をうかがっているのかもしれない。彼らはいずれ、「追放」のメタファーである転職・退職に追い込まれるが、そこで自分を軽んじた上司や同僚どもに復讐してやりたいと考えている。
自分は有能なのに追放されたらかつての仲間が困ったがそれを見捨てる物語
重要な点は、彼らは、自身を有能であると自認していることだ。
この文脈で、冒頭、一見関係なさそうな「タイトル」に注目した理由について説明しよう。それは上記の通り、その読者層は多少なりとも全能感を持っているのではないかという仮説を導くためであるが、この全能感というのが、今回のメインテーマである「パーティ追放系」を考察する上で重要になると思われるのだ。
今回、その共感軸として僕が注目するのが有能感である。追放された主人公が実は有能だったというテンプレがあるが、これを導出する属性となるのが、有能であるという自己自認だった。
つまりこういうことである。彼らは隠れた有能である自分の価値を知らしめた上で、かつて自分を軽んじた連中に報復してやりたいのだ。彼らはパーティ追放系小説で追放された主人公に自己投影し、自分が有能であること、自分の存在価値を(後になって)周囲が認めること、さらにその主人公の価値を理解したかつての仲間を見捨てること。これらの要素によって成立するテンプレは、全てその主人公の有能さと存在価値を周囲が認知してほしいという読者の願望が具現化したものである。
このように、パーティ追放系小説というのは、現役世代として働いていて、自分は有能であるが無能の烙印を押す周囲の連中に復讐してやりたいという願望を叶えるためのコンテンツだったのである。
実際は追放された人間のことなどすぐに忘れられる
まぁ率直に、それはそれでルサンチマンが満たされると思われるし精神衛生上有効だと思われるので、用法用量を守って正しく現実逃避するには有用なコンテンツであるように思う。しかし現実論として、僕自身の経験も含めてだが、僕たちが有能か無能かに関わらず、会社とか組織というのは、退職とかでいなくなった人間など最初からいなかったかのように動き続けるものである。
だからもし諸君が有能であっても、おそらく現実世界でその職場を追われたならば、その後諸君に再度かつての仲間から、もう一度加わってくれと懇願されることもなければ、それを高慢に拒絶することもできまい。
何が言いたいかというと、小説の世界ではかつての仲間の懇願を踏みにじることもできただろうが、現実世界においてそれは叶わないということだ。追放された諸君のことなど一週間後には忘れられている。そこには傷跡も爪痕も何も残らない。
誰も(有能だった)諸君のことを覚えていられるほど暇でもないのだ。そのことをしっかり自覚した上で、現実逃避に勤しんでほしい。