非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【感動などないっ…!】他人の感情に共感しないで生きようぜ

福本伸行の漫画「最強伝説黒沢」の一幕に、このような場面がある。

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主人公である黒沢は、仕事仲間とともにサッカーワールドカップの日本代表の試合を観戦していた。誰よりも熱狂し、得点に歓喜し、敗北に失意する黒沢は、一方の心の中では、どこか冷めていく自分自身を感じ取っていた…。

ACL2019決勝戦で感じた喪失感のようなもの

2019年11月24日夕刻、僕は埼玉スタジアムに赴いた。アジアチャンピオンズリーグACL)の決勝戦の第二戦が行われるので、それを観にしにいったのだ。

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地元のクラブチームである浦和レッズと、サウジアラビアの強豪アル・ヒラルの一戦。地元とはいいつつそこまで浦和レッズそのものに思い入れはないが、この時の僕はやはりせっかくなので地元のチームにアジアの頂点に立ってほしいという思いが強かった。

僕の座席はアッパースタンドのだいぶ上のほうだったが、北ゴール裏の、そして僕の周りの観客の声援に誘われて、僕自身もチャントを歌い、手拍子を打ち、そしてまた歌った。We Are Reds!!の叫びから始まり、後半にアル・ヒラルに先制点を食らっても、Pride of URAWA、赤き血のイレブンなどの声は衰えることはなかった。

結果としては、後半アディショナルタイムアル・ヒラルのゴミスにダメ押し弾を食らって0-2で敗戦、アジアチャンピオンの座はアル・ヒラルとなった。浦和レッズは負けてしまった。

そこで僕が感じたのは実は悔しさではなく、ああ負けてしまったのだなという現状の受け入れと、盛大な祭りが終わってしまったあとの少々の喪失感だった。あるいはアル・ヒラルの組織的なサッカーや、ジョビンコ、ゴミス、カリージョらの華麗にしてパワフルなプレーを見ることができたことには、満足感すら覚えていた。

試合は盛り上がったし興奮した。チャントも喉が裂けんばかりに歌った。なぜか、どこか心の中が寒々しい。それは一体何なのだろう。

浦和レッズレディースのリーグ優勝が決まった日

時は流れて2020年11月8日、僕は人生で初めて、浦和駒場スタジアムに足を運んだ。この年はなでしこリーグでは浦和レッズレディースが好調で、この日の試合に勝利すればシーズン優勝が確定する大切なゲームだった。なでしこリーグの試合では普段開放されることのないバックスタンド側にも大勢の観客が集まり、その試合を見守った。試合は浦和レッズレディースのほぼワンサイドゲームで、終わってみれば5-1で圧勝した。

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見事にリーグ優勝を飾った浦和レッズレディースのイレブンを拍手で称えるその傍らで、僕は再び、あのACL2019決勝戦埼玉スタジアムからの帰り道に感じたあの感覚を思い出していた。そして今回は、目の前で熱い戦いが繰り広げられていたというのに、それが自分ごととして捉えきれない感覚があった。

僕はこの時、最強伝説黒沢の一幕を思い出していた。

感動などないっ…!
あんなものに……
オレが求めているのは……
オレの鼓動 オレの歓喜 オレの咆哮
オレのオレによる
オレだけの……感動だったはずだ!
他人事じゃないか…!どんなに大がかりでもあれは他人事だ…!
他人の祭りだ…!

感動とは、嬉しさや喜びに感極まって泣くことばかりではない。喜怒哀楽に関わらず、心が動かされ感情が発現すること全てを意味する。

そうだ、結局、自分の人生は自分ごとでしか成り立たないのだ。他者の物語で自分の人生をいくら装飾しようと、それは人生の本質ではない。自分自身が自分自身を感動させなければいけない。

今なら分かる。僕はACL決勝の日、感動していなかったのだ。あの日の帰り道、よくよく考えたら、僕は負けたにもかかわらず悔しく感じてはいなかった。どちらかというと、一大イベントが終わったような、そういう喪失感だった。地元のクラブが完膚なきまでに敗北したのにもかかわらず、怒りを感じてもいなければ、失望することも特になかった。僕は当事者ではなかったからだ。地元のビッグクラブである浦和レッズとそれを応援していた僕の間には、明確な境界が横たわっていた。

他人の感情に共感しないで生きること

人生を穏やかに過ごすためには、こういう自他境界を明らかにする必要がある。この境界が曖昧になると、他人の喜怒哀楽が自分にも影響されてくる。他人に自分の感情を支配されてはいけない。それは大きなストレスになり、人生の幸福度を下げてしまうだろう。そのためには、僕たちが通常コミュニケーション能力としてもっている「共感」を、ある程度抑制する必要がある

スポーツの試合において、負けた時には悔しさを感じる。それは自分ごとであるか、または自分ごととしてそれを捉えているからだ。実のところ、僕が試合に出場していて負けたならば、僕は明確に悔しがるか、あるいは晴れやかな気分であるはずだ。前者であれば試合に出場している側が期待されることに対して応えられなかった悔しさであり、後者であれば勝つための全ての取るべき手段を取り全力を出し尽くしたことの清爽感である。

勝利に対しての達成感と歓喜、そして敗北に対しての悔しさあるいは清爽感。ピッチの上ではそれが湧き上がっているのがわかる。もちろん僕は試合に出場していないので観ている側であるが、そんな僕はこの感情をどのように取り扱えばいいだろう。

受け身の人生では感動できない

自分が観戦する側である限り、つまり受け身である限り、僕はそのように感情を動かされることはないのだろう。そうだ、受け身である限り、本当に感動することはできない。この2つの試合観戦を通してわかったのは、他者から感動は与えられるものではなく、自らの行動をもって獲得しにいくものだということだ。

スタジアムに行ったらあとは座ってコーラを飲み、または北ゴール裏のコールリーダーの音頭に合わせて歌っているだけだ。僕の主体性はどこにもなかった。それでは感動などできるはずがない。このコールリーダーと北ゴール裏のサポーター連中のみが、おそらくその試合の当事者であり、その敗戦を悔しがるに値した。そしてその悔しさ、喜怒哀楽の哀の部分は、彼らにとっての感動に違いなかった。

考えてみると、僕は小学校の頃から、友だちがRPGのテレビゲームをやっているのを見ていて、ボス戦に勝利しようとも嬉しくもなんともなかった。おそらく僕には幼いときから、このような感情の自他境界を構築していたのだ。他人の喜びは自分の喜びではないと知ったとき、僕は自分自身が他者から独立した存在であることを思い知った。

夏目漱石の小説「三四郎」に、こんな一節がある。

髭の男は「御互は憐れだなぁ」と云い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが──あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより他に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない。」と云ってまたにやにや笑っている。三四郎日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

小説の読み方は人それぞれであると理解しつつ語ってしまうが、僕が思うに、この髭の男はつまり、自分の行動や経験のみに価値があると言っている。例えば世界中から尊敬を集める万世一系天皇をいただく日本の国民であること、卒業した学校の同級生に有名人がいたこと、三四郎のこの時代であれば、ロシア帝国に勝利して一等国の仲間入りだと浮かれても、それが自分で拵えたものでない限り意味がない。だいたい万世一系天皇や同級生の有名人など、自分では拵えようがないから、それはこの髭の男のいう富士山のようなものだろう。

共感ゲームから降りると幸せになれる

僕が確信しているのは、自分の行動と経験だけが、自分の人生を充実させるということだ。そうでないものにいくらのめり込んでも、満たされない渇きが続くだけだ。他者によって何か感情が与えられたとしても、それを自分ごととして受け止めることができるほど、人間の心というのは素直ではない

それはスポーツだけではなく、芸能人や政治家の不祥事に怒り狂うことも同じことだ。感情の発現因子を他者に帰してはいけない。喜んでも悲しんでも怒っても、それが僕たちの人生に何か影響を与えるわけではない。だからそれにいちいち付き合って感情のコントロールを失ってはいけない。

他人の感情に支配されないことがとても大事だ。振り回されてはいけない。それはあなたの感情のリズムを乱し、怒りや憎しみで幸せになる人はいないのに、人間というのは怒りのほうが共感しやすく、一方で喜びについてはそうでもなかったりする。喜びについては、その裏に嫉妬が関係する場合があるからだ。喜怒哀楽全てにこのマイナスの環状要素があるから、他人のこうした感情に付き合ってはいけない。

自他境界を意識して人生を歩もう

自他境界という概念は、他人と適当に距離をとって生きていくのに必要な概念だ。人間は全ての感情に共感する必要はないし、それにいちいち付き合っていたら不幸になる。幸福に生きたいなら、この自他境界を守っていこう。他人は他人、自分は自分だ。そしてスポーツについていえば、おそらくスポーツは見るよりもやったほうが感動できる。

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