読書感想文とかいう苦い思い出
読書感想文というものを書いたことがあるだろうか。僕は読書は好きだが、感想を書くということが大嫌いだった。なぜなら、感想を強制されたからだった。
小学校の頃、夏休みの宿題で、読書感想文を書いてこい、というものがあった。経緯はよくわからないのだが、その当時僕は「びんのむこうはあおいうみ」という本を持っていて、これの読書感想文を書くことになった。
あらすじは確かこんな感じだった。主人公は母子家庭に育った男の子で、夏休みの間、北海道の美瑛にある親類の牧場に引き取られて、そこの手伝いをすることになる。母親はそのまま町に戻り、夏休みが終わる頃に迎えに来るという。
男の子はおじさんと一緒に朝早くから牛の世話や畑作業をやるかたわら、宿題もこなさなければならない。やさしいおばさんに世話をされるも、母親が恋しくなってしまう。夏休みが終わる頃、母親がやってきて、ラムネのビンを男の子に手渡す。そのビンの向こうに見た空が、海のように美しく見えた…というものだった。
僕のこの話に対する感想は、「ふーん、大変そうだなあ」というものだけであった。特におじさんと(仕方なく)働く場面が印象に残っていたので、感想文ということで「主人公は朝早くから働かされてかわいそう、遊びたかったと思う」というようなことを書いた。そして母親に大目玉をくらい、「母親に会いたいという気持ちと一生懸命働く姿に感動しました」みたいな文章に書きなおさせられたのだった。
別に僕は感動などしていなかった。つまりそれは僕の感想ではなく、母親の感想であった。だがそれは僕の感想として発表され、先生からは「人の気持ちがわかることはすばらしい」みたいなお褒めのコメントをもらったと記憶している。
この教訓から僕は、感想には正解があると考えるようになった。僕は何か感想を求められた場合は、その人がどう言って欲しいのかを考えて、それを感想として伝えるようになった。違和感はあったが、結局その違和感には慣れてしまったのだ。
自分が思った感想は全て正しい
けれど今では、それは明確に誤った態度だということができる。親子の力関係で強引にそれが捻じ曲げられたとしても、「主人公は朝早くから働かされてかわいそう、遊びたかったと思う」というあの感想はやはり正しかったのだ。それは僕がそう思ったから正しいのであり、僕の感想にして唯一無二である。
大人共に褒めそやされるような感想など、自分で本当にそう思っていないのであれば、それは明確に誤りなのだ。感想文を書かせるということは、その思いや考察をプロセス化して表現する過程であり、そこに何者も強制させたり、あるいは「そう思うことが正しいこと」という規範や承認を与えてやってはならない。
模範的な感想文を求める大人が悪い
だいたい、浅薄な教育委員会とかいう連中が読書感想文コンクールなんてやるから、話がおかしくなるのだ。あれらは大人が喜ぶ文章を記載している。もしかしたら本当にそう思ったのもあるかもしれない。けれども「つまらなかった」「面白くない」などの否定的な感想文がなく、「僕も頑張りたいと思いました」とか「主人公の姿勢に感動しました」などの美しい模範解答が並べられているさまには、全身総毛立ちそうである。
「つまらなかった」は許されない。あるいは例えば「はだしのゲン」を読んで、「クソ笑えて面白かったです」という感想がないのも筋が悪い。結局大人どもは、自分の耳に心地いい感想文しか見たくないのだ。そしてそうでないものは「不正解」として却下されてしまう。コンクールを開催し感想文に優劣をつけるということは、そこに何かしらの基準が存在しており、その基準を満たしているものが「正解」となることの証拠である。
例えば「はだしのゲン」に「面白かった」と思った理由をしっかり考察している感想文があるとしたら、それはそれで大変価値ある文章だと思うけれど、そうはならない。なぜなら「はだしのゲン」が面白いのは、不正解だからだ。ちなみに正解は感動だったり、主人公ゲンの体験した境遇への共感や、平和への思いを新たにすることである。
大人である僕たちがここから教訓とするべきなのは、僕たちは周囲の人間に受け入れられることを期待して、何かを表現してはならないということだ。それは他者に自己の寄辺を担わせてしまい、自分の立つ瀬はなくなってしまう。自分の表現や意志が、他者の承認に担保されることによってしか存在できないことは、極めて筋が悪い。
これは今でも「意識高い系」の連中に見て取ることができる。彼らは自分が何者でもなくて自分の意志の価値を過小評価しており、何か「正解」を口にしてばかりで、それを他者に承認してもらうことで自我を成立させている。だから彼らは「正解」ばかりで「自分」というものがない。薄っぺらな連中だ。僕たちはそうならないようにしよう。
映画に「泣ける」と強制された話
ある日映画かお芝居の作品の宣伝CMを見た時、ありがちな「泣けました」という感想を聞いた時だった。一瞬頭が沸騰したようになり、一気に思考が巡った。こんな感想は嫌いだ。なぜならば、その人にとっては泣ける作品だったのかもしれないが、僕にしてみたらめちゃくちゃ笑える作品かもしれないじゃないか。
100人いたら100人が泣く作品など存在するだろうか。それって何だ、洗脳目的の何かなのか。泣ける以外の感想は認められないのか。そんな作品だったら絶対に見ないぞ。
あくまで作品というのは、観る者に何かしらの心の動きを与える働きを持つものだ。それはあくまで作品視点であり、創作者は、感動を与えることを第一の目的にするものでもないと思う。多分作品を作る側というのは、感動させようとして作品を作るのではない。作品を作る側の内側から湧き出してくる精神世界のようなものが、様々な媒体によって発現しているに過ぎず、感動するのはおそらく結果を切り取っただけのものであるだろう。
作品を鑑賞するということは、公平公正な、フラットな状態、ゼロの状態、真っ白な状態から、作品と正面から向き合い、その作品によって心が動いたら、その動きを記憶し考察していくことだ。つまり作品はただの媒体かきっかけに過ぎず、本来は自分自身の思考そのものが考察対象になるのである。
だが観る前から「泣ける」などのインプットをされた作品に対しては、「泣ける」バイアスがどうしたってかかってしまう。真正面から受け止めることができなくなる。僕はそんな態度で作品の鑑賞に臨むことはできない。
それ以後、僕は、人に作品の感想を語るときは、とくに気をつけるようになった。僕が作品を観ていて、話し相手がそれを観ていない場合、気にしてしまうのは、僕が語った感想によって、その話し相手に何かしらのバイアスが発生しないか、という点だ。だから僕は、作品の何が面白いかは語らない。仮にそんな話になったら、四の五の言わずに観ておいで、というようにしている。
正しい感想など存在しない
そうだ、感想に正解はない。そして、全ての感想は、それが自分でそう思っている限り正しい。これを僕たちは自信を持って心に留めておこう。自分が思ってもいない感想を自分の感想として伝えるのは、絶対に間違っている。僕たちはそういうものを遠ざけつつ、自分自身をしっかりと観察対象に見据えることによって、自分のことをより知っていくようにしよう。