甲子園とか高校サッカーのスタンドで応援している生徒って楽しいの?
甲子園で応援している野球部生徒に胸を痛める
高校野球の甲子園でスタンドで応援してる生徒たち、あるいはサッカー高校選手権でやはりスタンドで応援している生徒たちがいる。
他人の実情など知ったことではないのは重々承知している。しかし僕はこの違和感を文章として表現せずにいられない。
彼らは一体何をしているのだ。この僕の疑問に誰か答えるものはいないだろうか。僕にはあのスタンドでメガホン片手に大声で歌い叱咤する彼らの笑顔に、どうしても薄寒いものを感じられて仕方がない。
彼らは同じ部活動のチームメンバーでありながら、そのフィールドに立つことを許されていない。しかももしかしたら下級生にそのレギュラーの座を奪われているかもしれない。僕はスタンドで応援する彼らとフィールドでプレーする彼らの間に、度し難い断絶を感じる。にもかかわらず、彼らは必死に声を張り上げて応援しているのだ。
彼らは、自分がそのグランドに立っていない悔しさを微塵も感じていないわけではあるまい。しかし、彼らは仲間の勝利のために、一点の曇りなく応援しているのか?自分がメンバーに入っていないことがわかった瞬間、心にどす黒い思いが渦巻くこともなかったか?本当の自分の思いはどうなのだ?そこに「どうせ俺が出てないんなら負けてしまえ」という邪念は一切含まれていないというのか。あるいはその思いがあったにせよ、それを押し殺して応援することが社会的に、あるいは道徳的に正しいからそうしているだけではないのか?
それを押し殺して、仲間のために精一杯の声援を送るというのか。
僕は問う。一点の曇りなき応援など、存在するのだろうか。
メンバー外なら「負けてしまえ」と思っていた
僕も僕とて中学校サッカー部のときはレギュラーじゃなかった側だからよく分かるのだが、大会や公式戦でメンバー外になったとき、チームへの忠誠度が著しく低下したのを覚えている。サポート要員とかボール拾いとかで大会会場には赴いたけれど、あの整備された県営球技場の天然芝のフィールドでプレーできず、一方でかつての友人どもがそこでプレーしているのを外様ながら眺めるさまは極めて屈辱的だった。さっさと負けてしまえばよかった。そうなればこの大会などに僕がわざわざ来る必要もなくなる。僕が出場しないならこの大会に何の意味もない。
ちなみに僕はここ最近でサッカーを再開しているので、今ならおそらく僕が最も上手だと思うけれど、それは当時でなければ意味のない話だった。この苦い経験が、僕に「青春を取り戻す」という人生プロジェクトを稼働させるのであるが、それはまた別の話である。
僕は、中学校3年生の春頃の大会で、僕はメンバー外になった一方で下級生がメンバー入りしたことで、部活動に参加する気が完全に失せたので、そのまま退部した。僕はこのとき負け犬だった。僕が当時好きだった下級生の女の子も結局その僕の代わりにメンバー入りした彼と付き合ったと聞いたし、本当マジで得るもののない、クソみたいな学生生活だった。
自分が活躍できない団体に所属し続ける不合理性
例えば社会人になって、自分のスキルや経験が今の自分の会社のためにならないのだとしたら、そのままその会社で働き続けることを良しとするものはないはずだ。サッカーや野球のプロスポーツ選手にしても同じで、自分が今のチームで役に立てずにメンバー入りすることがなくても、他のチームで活躍できる場があるとするなら喜び勇んでそのチームに移籍するだろう。
これらの例から分かる通り、大人ともなれば、自分が活躍できない、あるいは自分の力が必要ないと思われる団体に属して忠誠を尽くすのは非合理的である。この僕のように退部して好きなことをやったほうがいい。
そうであるなら、いよいよスタンドで応援している彼らの不合理性が際立ってくる。彼らがメンバー外という屈辱を受けてまでその部やレギュラーメンバーに忠誠を誓っているのは、いったいどのような理由があるのだろう。
青春とか仲間とかいう欺瞞
僕たちが大人だというなら、彼らはまだ子供だ。だから、たとえメンバーに入れなかったとしても、仲間たちのためにできることがある。それによって報酬が与えられなくともその身を尽くす。レギュラーメンバーが学校名やチーム名に忠誠を尽くすなら、メンバー外の下手くそどもはレギュラーメンバーのために奉仕するだろう。それが唯一できることであり、そうした無償の奉仕の精神こそ、彼らの精神性を豊かにするものである。
これは爽やかな青春の1ページなのだろう。しかしそれは、メンバー外の彼らの悔しさ、あるいは妬み嫉みなどを見ないことにするという点で、極めて欺瞞的である。おそらく人間というのはもっとドロドロしい存在であって、18歳かそこらにもなればそのあたりの感情の機敏を容易に知覚することができる。彼らは10歳にも満たないガキどもではない。にもかかわらず、爽やか青春に100%振り切るように傍目からは見えるのは、彼らがそのドロドロしさを隠しているからであり、大人はそれを見ないようにしているからだ。
大人が爽やか青春を生徒に要求した
彼らは年齢的には子供のようであって、精神的には子供を脱しつつある。だから、そういう価値観に基づいた行動、この場合はスタンドで仲間の勝利のためにメンバーに入れなくても応援することが、大人にとって美しく許容されることを知っている。そしてそれが道徳的に正しいことも。大人であれば、こうしたケースではその返報性に疑念を抱くので、このような行動を取ることはないのだ。
ところで、もちろんフィールドに立っている側の彼らとて、そのフィールドに立ちたかった自分の仲間たちの屍を踏みつけてその場に立っていることを知らないでもあるまい。もし「仲間たちのおかげで~…」とか語ろうものなら、僕は彼を偽善者であり不誠実であると指弾しよう。彼のフィールドの活躍の裏には、メンバーに入れなかった自分の仲間たちの死屍累々が見え隠れしている。
そうだ、応援する側も、応援される側も、そしてそれを高みから見下ろす大人どもも、誰一人メンバー外になった彼らの失望、恨み、憎しみ、妬み、嫉みを語ろうとしない。僕の違和感の正体はこれだったのだ。それを乗り越えて仲間のために団結しようとしているという美しい物語を、大人どもが欲しているだけなのだ。大人は返報性で生きているから、そういう無償の価値提供に自らは失った美しさを見出す。それを想起させる生贄として、メンバー外の生徒が必死に応援しているという絵が必要になるのだ。
彼らの美しい青春が、こうして大人に押し付けられたものと想定できれば、彼らの張り付いたような笑顔や歌声も理解できる。僕はこれで、ようやく心穏やかに甲子園や高校サッカーを観ることができそうだ。
そしてまた、忘れてはいけない。他ならぬ僕こそ、そんな青春の1ページが欲しかったのだということを。仲間のために自分が奉仕するという美しさを僕は持たなかった。だから今そのコンプレックスに苦しみ、スタンドで応援する彼らを猜疑の目で見ているのだ。この醜さを忘れてはいけない。