非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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差別主義者として生きていく~BLM運動から差別主義を考える~

米国で黒人男性ジョージ・フロイド氏が、逮捕の過程で警察に殺害されてもう1年以上が経つ。諸君はこの事件を覚えているだろうか。このエントリでは、セレブどもがよく唱えている反差別主義の欺瞞性や、人間に本能的に備わっている差別主義について考察してみよう。

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当時、Black Lives Matter (BLM)とか言って反差別運動が高まったが、僕自身はそれを全く実感できない。少なくとも黒人差別の当事者であるとは認識していないからだ。僕自身は黒人によって何か危険な目に遭ったわけでもない。少なくとも日本人は、自らの生活圏の隣に黒人(の集団)がいるという状況にある人は極めて少ないだろう。

黒人との接点がその程度であるのに、なぜ日本までBLMは広まったのだろうか。僕の考えでは、ただブームに乗っただけなのだと思う。差別に反対することはいいことだ。そのスローガンがBLMであるなら、それを叫ぼうという極めて単純な反応だ。なぜならそれは、自分が差別問題について意識の高い高尚な人間であると周囲にアピールすることもできるからだ。

いわゆる美徳シグナリングというやつだ。しかもとてもお手軽に。やることはBLM支持者の著名人のツイートをRTするだけでいいのだから。

その態度については、差別問題の本質を捉えられていないと思う。

あの時世間一般は、多くのセレブを中心に、差別反対を唱えてきた。女子テニス選手の大坂なおみ氏が先頭に立っていたのをよく覚えている。しかし僕にはそれがどうも腹落ちしない。僕は問うのだ。差別とは、必要があるから差別が発生しているのであり、それは極めて合理的な処理ではないのか、と。

言い換えれば、僕たち一人ひとりにおいて、誰一人として他人を差別しないで生きていける人間などなく、その意味で全ての人間は、自分の中に差別性を内包しているのではないか。

BLMが警察権力の縮小を要求しだしたときから、風向きは変わった。警察は、公的な身の安全の保証がなくなったため勤務をボイコットし、至るところで制御不能の暴動が発生した。黒人が経営する個人商店は、おそらくBLM運動で守られるべきだったにもかかわらず、破壊され略奪された。BLMは社会の秩序を破壊する事がわかり、またBLMの支持者が、追放したはずの警察の介入を求めるなど本末転倒な事態にいたり、ようやくBLMは収束した。

BLMによる社会破壊の責任を取らない偽善セレブ

BLMは暴力的であり破壊的であるとイメージが付いた以上、とくにセレブどもにとってはそれを支持する旨味がまったく失われていた。そういうわけでセレブどもは今やだんまりを決め込んでいるが、差別廃止の旗印に乗っかって社会の秩序を破壊した責任を、このセレブどもは何一つ取っていない。セレブなんてどうせそんなものだ。口だけ出して運動を煽り、それが破壊的になると関係ないふりをする。鬼畜の所業と評価して差し支えないだろう。

junny-policies.hatenablog.com

2020年のアメリカ大統領選挙のときにも触れたが、都市部に住むリベラルやセレブどもは、移民だの黒人差別だのの問題を論じる上で、すぐ隣に貧困層の移民や黒人が住んでいる、という状況にない。だから平気で手を差し伸べてやろうと綺麗事を並べるのだが、それにつきあわされる一般国民側は反発するだろう。銃社会において隣に貧困の黒人が住んでいることが、彼らの不安をどれだけ増幅させることだろう。

ついでに言えば、BLMはそもそも大きな話題になったが、欧米各国で未だにアジア人が差別されていることを、BLM支持者たちはどう考えていたのだろうか。特に新型コロナが広まった2020年初頭、その発生源とされているのが中国であったこともあり、各国でアジア人やアジア系国民が襲撃に遭ったと聞いている。

BLMの支持者が、このアジア人への差別をやめろと声を上げた例を、僕は知らない。つまりBLM支持者は、ただ黒人至上主義をその本質としており、その実態は全ての差別に反対しているわけではない。つまりBLMの連中は、アジア人差別主義者でもあるのだ。

差別の本質

差別とはつまり、異端者の排除である。単純に考えて、集団生活を営む僕たち類人猿にとって、異端者を排除することは合理的な対応である。それはおそらく本能的なもので、集団の同質性に馴染まない人間や危害を加える可能性のある人間は、常に排斥されてきた。

ユダヤ人、クルド人、インディアン、ハンセン病患者、アトピー持ち、不潔で弱い者……規模が大きければジェノサイドとなり、小さければ学校クラスのいじめである。諸君はユダヤ人のジェノサイドに加担したことはなかろうが、アトピー持ちや弱いものをいじめたりしただろうし、またはいじめられているところを助けることはなかっただろう。

今起きているのはそれと同じことだ。これらの「異常者」は、集団の同質性を破壊するものであり、それは集団の秩序を乱す。またはそれを内包し庇護することで、集団自体が弱体化する。そうなれば集団は、他集団との闘争で敗北し、生存が危ぶまれてしまう。異端者の排斥は、それを忌避するための本能的行動であり、僕たちの遺伝子にその行動様式が刻み込まれている。

現代ではその行動に「差別」という言葉があてがわれているにすぎない。そういうわけで、僕たちはこれを否定することはできない。

うまく差別しあって生きていこう

僕たちは今、お互いをうまく差別しあって生きていく必要がある。特定の人間や集団に対して、自分にとっての関連性に比例してその取扱いに差をつけるのは、どこでも誰でもやっていることだ。差別をせずに人は生きられない。差別をしなければ、自分の大切な人に対して特別扱いをしない人間になってしまう。それができる人間はいない。あまりに人間的ではないからだ。

そういうわけで、自分は差別主義ではないと自称してはならない。僕たちは差別を許容して生きていこう。

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