東京オリンピックが終わった。祭りのあとというのは、いつもどこか寂しいのに、何しろ僕たちは当事者ではなかったので、あまり「終わったのだ」という実感が湧いてこない。今回のオリンピックは、あまりにも日常的すぎた。そして、同じくらいに縁遠いものだった。僕たちは観戦することもかなわず、ただただテレビやパソコンの画面の向こうで、選手の声しか響かない虚ろな空間で行われる熱戦を見ているに過ぎなかった。
僕は基本的に球技しか見ていなかったが、野球やソフトボールの金メダルには喜んだし、女子バスケの銀メダルも素直に称賛したいと思う。一方で女子バレーボールや男女のサッカーには失望した。
オリンピックの閉会式に驚いた人いるよな
さて、そんなこんなでオリンピックは終わったわけだが、諸君はオリンピック閉会式を見たか?あれは凄まじいものだった。閉会式クライマックスの、次回オリンピック開催都市となるフランス・パリへのオリンピック旗継承式の一幕だ。
この時、国立競技場とパリ市とは、中継で繋がっていた。まずはフランスの少女が、BMXを軽快に乗りこなして、パリの見どころや魅力を紹介する。エッフェル塔やヴェルサイユ宮殿などの歴史的観光名所の他、パリ旧市街の裏路地、オフィス街、セーヌ川のほとりの風景が次々に映し出される。いわば観光案内のようなものだ。汚いところは見せていないことは理解しつつも、やはりパリというのは魅力的な都市だと思ってもらえるように腐心したことが見て取れる。
そしてその映像の最終盤である。フランス空軍の航空隊が、エッフェル塔上空に、美しくいトリコロールを描く。自由・博愛・平等を国是とする誇り高き国を、これでもかと主張する。そしてエッフェル塔のたもとに人々が集まり、笑顔を見せながら東京に向けてパリ市民が手を振っているではないか。
何だ?一体何が起こっているのだ?僕は目を疑った。誰もマスクをしておらず、文字通り密集して歓声を上げている。これはエッフェル塔に集まった人々の、過去の録画映像なのか?いや、そうではない。マスクをしている人が少数ながらにいる。ならばこれは、現在進行系のパリの映像に間違いなかった。
マスクをしていない人が圧倒的多数!それは僕のように、マスクを厭わしく思う人間にとって、まさに天国のような空間だった。パリオリンピックのアピールという1つの目的のもとに集まった人々が、ノーマスクで歓声を上げている。なんて、なんて羨ましい光景なんだろう!
知っている人は知っているだろうが、フランスの新型コロナ感染者数は、日本より圧倒的に多く、1日に2万5千人が感染し、70人ほどが亡くなっている。それでもフランス人はエッフェル塔に集まって、オリンピック開催都市としてのアピールをノーマスクで実施した。
一体世界では何が起こっているのだ?翻って僕たち日本人は、マスクの着用を事実上強制されている。僕たちはマスクなしで店舗に入店たり、電車やバスに乗ることははばかられるというのに!これは僕たちへの当てつけか何かなのだろうか?
欧州サッカーリーグは満員のスタジアムで開催
ちょうどフランスのサッカーリーグ、リーグ
イングランドのプレミアリーグも同じだ。トッテナム・ホットスパーの本拠スタジアムの観客は6万人を数えた。一方日本では、スタジアムは上限5000人までという謎の入場制限が課され、しかも手拍子でしか応援できることがない。
僕はこれを、コロナ敗戦だと説明した。
マスクしない自由を侵害するな
ところで、僕はすでにマスクを可能な限りつけていない。2020年の春先には、近所のランニングで一周する際にマスクを付けて走って、マジで呼吸困難に陥りそうになったので、それ以降運動時にマスクを着用することをやめた。近所のフットサル場に行ったときも、プレー中は可能な限りマスクを着用することと定められていたので、3分だけそれに従い、あとはノーマスクでプレーした。
よくよく考えれば、マスクなんかつけてフットサルができるわけがない。きっと何も考えずに、コロナ脳どもからのクレームに怯えてルールを定めたのだろう。馬鹿なことをしか考えつかないものだ。
今僕がマスクをするのは、通勤電車に乗るときと、どこか店に入るときだけだ。コンビニ程度の数分の滞在なら、マスクをしないで入店することもある。いちいちマスクを着用しろと店員が言ってくる店からは足が遠のいた。近所のラーメン屋さんは、マスターのおじさんもパートのおばさんもノーマスクなので、とても気持ちよく利用させてもらっている。表情が見えるというのはとてもいいことだ。
車を運転していても、対向車を見ていると、2020年当時はほぼすべての運転手がマスクを着用していた。1人乗りであるにも関わらず、だ。まるで空気感染する危険なウイルスが流行しているようで、たいへん気味が悪かった。
今では気温も相まって、とくに中高年の男性のほとんどはマスクを着用せずに車を運転している。女性はマスクを着用していることが多いように思うが、まぁおそらく化粧が面倒くさくて、顔を隠しているだけだろう。マスクが感染拡大を防止すると信じて着用しているわけではないに違いない。
だいたい、例えば風光明媚な山奥の温泉に行って、周囲10m以上に渡って人がいない時、マスクをする意味がどれだけあるというのだろう。
僕はここ2年で、そういう景色のきれいな展望台や、マイナスイオンあふれる滝壺を訪れたりもしたが、揃いも揃ってどいつもこいつもマスクをしている。一体何をやっているんだ。この美しく澄んだ空気を、マスク越しにしか味わえないというのか?
僕はその場でマスクを外し、思い切り空気を吸い込んだ。少し湿った山の空気は、それはとても涼やかで気持ちよかった。
マスクをする意味を今一度整理しよう
僕たちは何も考えずにマスクをしていないか?だいたいこんな呼吸の妨げになる物体をつけ続けるのは、大変不快なことだ。このマスク着用を、僕たちは事実上強制されているのであるが、それをする意味というのを改めて問おうではないか。
よく知られているが、マスクの網目というのは5マイクロメートル(1mmの千分の一)程度であり、これはウイルスの直径0.1マイクロメートルの50倍に相当する。つまりウイルス単体は、余裕でこのマスクをすり抜けるのである。
一方で、ウイルスは主に、咳やくしゃみによる鼻水や唾液の飛沫によって排出される。この飛沫は最低でも5マイクロメートルくらいあるので、ちょうどマスクの網目に引っかかるというわけだ。その分マスクは汚染されてしまうが、まぁそれはそれである。
で、何が問題かというと、健康な人が咳をするのは水などの異物が気管支に入ってむせた時くらいだし、くしゃみをするのは鼻に粉状の異物が入ったときの排出反射によるものだ。この時の咳やくしゃみには、ウイルスはほぼ含まれていない。もちろん0ではないのだが。
健康な人は、ウイルスが体内で増殖していないから健康なのであり、排出しなければならないほどの大量のウイルスが呼気に含まれているわけではない。
というわけで、僕は健康な人がマスクを着用する意味はないと考えている。街を歩く人やランニングをする人がほぼ全員マスクをしているのは、不自然な光景だ。全員が体調不良者だというのか?もちろん、同じ理由で、発熱や咳、くしゃみの症状のある人は、体外へのウイルスの拡散を抑制するために、マスクを着用する必要があるだろう。
マスク着用という奴隷の鎖
奴隷どもは鎖に繋がれているが、そのうちその鎖を自慢しあうようになる。自分を支配する連中に、自分がいかに優秀な奴隷であるかをアピールするためだ。その奴隷の象徴がマスクである。しかし今、僕は自由だ。マスクをつけることも、外すことも。
僕はマスクを外すことができる。それが制限されるのは、僕のマスクを着用しない自由が不当に侵害されているということだ。僕はこの自由を守るために、戦わなければいけない。
一方で、何も考えずに、感染拡大防止のもとに、マスクを着用する人がいる。そういう人たちが多数派だから、僕たちはマスクを着用しているに過ぎないのだ。僕たちへマスク着用を求める同調圧力は、他ならぬ僕たちが発生させているものだ。そうして僕たちは少しづつ不自由になっていく。
マスクを着用しないと何もできない社会に、抵抗しなければいけない。従順であることへの無責任さを自覚するがいい。社会的に正しいと思われることが、結果的に誤っていることもある。あるいは僕たち名もなき一般庶民の判断は、往々にして誤っている。物事を正しく判断できるだけの知識も思考力も欠けているからだ。
大衆の無謬性を信じるのは危険なことだ。ヒトラー政権を生み出した1930年代のドイツが、そして喜んでナチスに協力しホロコーストに手を貸した当時の良識あるドイツ人どもが、それを証明している。
僕のように、物事を常に疑い、より正しい選択肢を取り続ける社会不適合者は、このように大衆が誤ったときに、最も反骨精神を発揮する。そしてマスクとかいう奴隷の鎖を引きちぎり、必要なときに必要な分だけ、マスク越しでない新鮮な空気を味わうことができる。
炎天下を歩いたならフーフーと大きく息をすればいいし、荒磯を吹き抜ける海風の潮の香りや、稜々たる山景で秋風の便りを感じることができるのは、従順な大衆どもには獲得しえぬ特権だ。
ところで、僕たち社会不適合者は、合理的でないことはやらない。実のところ僕は、マスクの着用に異を唱えているのではない。マスクの事実上の強制着用がコロナの感染防止に役に立たないと言っているのであり、にもかかわらず僕の快適な呼吸を妨害するマスクを着用させることに、納得がいっていないだけなのだ。
ほぼ全ての日本国民がマスクを着用し続けている2020年夏以降、感染者数が増減していることからみても、マスクが感染を防止しているわけではないことがわかる。この非合理性を説明せよと要求しているのに、専門家や一般大衆は、それに対して何も答えず、四の五の言わずにマスクをしろと要求するだけだ。
ウレタンマスクが禁止されない理由
さて、マスク着用が習慣づけられてから、これまでの不織布マスクに取って代わって登場したのが、布マスクやウレタンマスクである。僕も後者のウレタンマスクを愛用しているわけだが、なるほどこれはいいものだ。僕の呼吸を最大限妨げずに、かつ周囲には、僕が社会的要求に従ってマスクを着用する、社会的に適応した人間であることをアピールできるのだ。
まぁ正直、このウレタンマスクすら煩わしいのであるが、まぁ形だけでもマスクをしろというのなら、呼吸を妨げない度合いからしてちょうどいい落としどころのように思える。この国では、実際の成果よりも、「やってる感」の方が重要なのだ。
もちろん、ウレタンマスクのほうが呼吸が楽であるというのには理由がある。ウレタンマスクはスカスカのスポンジのような素材でできており、ウイルスどころか花粉すらまともに遮断できないほど、繊維の目が荒いからだ。そういうわけで、ウレタンマスクには、不織布マスクと同等以上にウイルスを防止する効果はない。
ウレタンマスクが禁止されない理由はここにある。ウレタンだろうと不織布だろうと、どちらもウイルスを防ぐ機能は持たないので、感染防止という目的上、どちらも意味がない。だからどちらかを禁止してもしなくても、感染防止対策には役に立たない、というわけだ。
マスク教という宗教信者ばかりになった
僕にとっては、マスクなど着用せずに生活できることがのぞましい。しかし、大衆は本当にそれを要求しているだろうか?僕が思うに、大衆は自分で思考ができない愚か者どもの集まりなので、政治家や、または社会の同調圧力がマスク着用を要求するなら、その是非を問わずそのとおりに従うだろう。
この連中は愚かなので、自分の命すらまともに守れない。去年もそうだったが、とくに夏季になると、マスク着用のまま熱中症を発症し倒れる人が後を絶たない。この連中は、マスク着用による体温上昇、それと熱中症リスクと、コロナ感染のリスクを、まともに比較できないのだ。また、熱中症になろうとも自分の判断でマスクを外すことができない程度に、知能が低いのだ。
そして、自分の思考に責任を持つことができない程度に子供である。マスクをしろ、またはマスクをしなくてもいいと誰かに言われることをずーっと待っている。マスクを着用することの不快さを我慢しない程度の反骨心もない。自分では何一つ決められない、子供のような大人が、日本国民の大多数を占めているのだ。
上で説明したとおり、マスクの網目は極めて荒く、ウイルスを1粒単位で防止できるほどの能力はない。にもかかわらず、この連中はマスクを信仰している。マスクさえ着用していれば、感染防止に貢献できていると盲目的に考えている。
マスクを唯一神とした宗教のようだ。「マスクをしていたのに…」と感染者がテレビのインタビューで答える様も見慣れたものだ。
まぁこの連中は、暴露と感染と発症の区別もついていないから、PCR検査で見つかった陽性判定者の数に一喜一憂し右往左往する。もうどうしようもないのだ。
いつになったらコロナは収束するのかと、眉間にシワを寄せながら心配げに語る人がある。彼らが理解していないのは、コロナウイルスが絶滅することはないが、コロナ禍は僕たちの気持ち次第で収束できるということだ。
すなわちワクチンの接種をきっかけにして、2019年以前の生活様式に戻すという覚悟と、思い切りの良さと、その生活様式に戻すのだという強い意志があるかどうかが問題なのだ。
アメリカやイギリスはその意思を示した。彼らが戦勝国であり続ける理由が少し分かる気がする。
欧米のように、withコロナとして生きていく。結局日本国民は、そういう覚悟ができないほど弱く、臆病者であるのだ。なんと情けなく、悔しいことだろう。僕はコロナに負けていないのに、僕たちはコロナに負けたのだ。この臆病者どもに対して、僕だけは軽蔑と嘲笑を向けても許されるはずだ。
自由を簡単に差し出す日本人
マスクをしない自由も本当は存在していたのだ。しかし日本人は、その自由をいとも簡単に手放し、それを生贄に捧げた。日本人は奴隷根性の集まりなのだ。だからお上の意向に従って、平気で自分の自由を差し出すことができる。この連中は自由のありがたみを意識すらしていないのだ。
フランスをはじめとしたヨーロッパの国々が、国王や皇帝、貴族や地方領主と民衆の間で、血で血を洗う闘争の末に勝ち取った自由とは、重みが違う。日本人は与えられた自由しか知らないから、その自由は、すぐさま他者へ差し出せる程度に軽い。
マスク教を信仰しろとお上が宣っているので、それに従うことで彼らは自らの社会適応度をアピールすることができる。だから平気で異端者たるマスクしない派の人を、弾圧したり迫害したり晒し上げたりできるのである。それは、自らが多数派で強者の側にあるという安心感が発生させる人間特有の邪悪さであり、正義である。
多数派はいつでも暴力的だ。強者であり、多数派であることは、反撃されることがないことを意味し、そういう相手には暴力性が発揮されるのだ。80年前の戦争のときもそうだったように。
マスク教徒たる彼らはマスクの正義のもとに戦っており、マスク異端派たる僕は、合理性とマスクをしない自由という、別の正義のもとに戦っているのだ。この戦いはしばらく終わることはないだろう。しかし、もし大衆諸君に、これ以上マスクの着用を厭わしく思う人があるなら、それはとても嬉しいことだ。可能な限りマスクを外し、今までのノーマスクで快適に過ごしていた生活を取り戻そう。ニューノーマルとかいう奴隷生活など蹴っ飛ばしてしまおう。