どうせモテなくても、それでも生きていこう
僕は30代前半のモテない男である。30代といえば、ある人の寿命が60であるとすれば、すでに人生折り返しを過ぎたことを意味する。またある人の寿命が80であるとすれば、あと半世紀弱の人生をこれから歩むことになる。正直、それは極めて絶望的な事実である。
30を過ぎ、そして40を過ぎ、50を過ぎてもまだ生きる。子供もいない。結婚もしていない。やっていることといえば、自分が生きていくための生活費を稼ぐための仕事だけ。
自分に何か非凡な才能があったかもしれないが、少なくともそれは、テレビや映画に出演したり、プロスポーツ選手として大成するような、自分に社会的承認や世間からの称賛をもたらすようなものではなかった。
社会との関わりを期待すると迫害される立場になる
承認欲求と妥協し、承認されないことを受容する
そうはいっても、僕たちが生きていくには、誰かにその存在を承認して貰う必要がある。これも社会的承認の一形態だと考えられる。先程の迷子の例からしても、僕たちは社会的な承認が得られなくて、当たり前であるのだ。
その理由が合理的か非合理的かはこの際問題にする必要はない。それは経験則から導き出される厳然たる事実としてどこにでも存在し、僕たち個人の努力で解決できる見込みはないからだ。
だからこそ、僕たちモテない男はこの事実から目を背けてはならないのだ。
僕たちは内省的世界に引きこもる必要がある。僕たちは自分自身がありのまま、生きていていいのだ。そして死んでいっていいのだ。
どうやって生きて、どうやって死ぬか、それこそが人生で最も大きな問題であり、他人や社会はその解決に毛ほどの役にも立たないだろう。
死のみがその問題を解消するか、哲学や宗教がその問題を解決の助けとなってくれる。内省的世界に引きこもるとはそういうことだ。
そうでなければ、僕たちは僕たちの存在価値を承認することができなくなるからだ。自分の存在価値を承認してもらえないばかりか、客観的に否定されてしまうことを受容することはあまりにも辛い。
抽象的な話をすると、それでも僕たちは生きていく以上、 他人から自分が承認されないのなら、僕たちは自分で自分を承認してやる必要がある。
社会にとってはそうでなくても、僕たちにとって、僕たち自身は無条件に存在価値がある。モテなくても、結婚していなくても、子供がいなくても、中年や壮年でも、僕たちはそこに生きているだけで、普遍的な存在として生きている価値がある。
僕たち30代のモテない独身男共は、文字通り一人で行きていく覚悟と実践が必要だ。それにあたって、他人から承認を得ようとする行為は全て中止するべきだ。存在のよりどころを他人や社会に求めれば、それらから拒絶されたとき、立ち直れなくなってしまうだろう。
だから、他人や社会を自分の存在価値の拠り所にしてはならない。
僕は、僕のようなモテない独身男の仲間が、社会や他人ごときに自らの存在価値を否定されて壊れていくのを、是としない。
僕は社会との接触を必要最小限にとどめ、自分自身の精神的な独立性を求め続ける。そしてそれは、自分で自分の存在価値を肯定することにつながっていくのである。