とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

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「あなたを選んで生まれてきた」←選んでないし生んでくれとは頼んでいない件

子供が生まれてくるというのは、純度100%で親の都合によるものである。子供が生んでほしいと頼んできて、その要求を飲んで生んだのではない。
「生む」が他動詞であるのはともかく、「生まれる」という動詞が自動詞として扱われるのは、あたかも子供がこの世に誕生しようという意思を持って自発的に「発生」したように聞こえて本当に気分が悪い。何度考えてもそれは真実ではない。

「生まれる」という不思議な動詞

僕の考えでは、「生まれる」は受動表現である(が、受動態ではない。にもかかわらず受動態が存在しない不思議な動詞である)。あくまで子供は「生み出される」のであり、親によって意図的に形成されたのであり、その形成されたものは「生む」という行為の目的語にしかなりえないのに!
自分たちが生んだという責任を子供に負担させてはならない。そうかといって、「生まれる」に代わる語彙が日本語には存在しないため、非常にモヤモヤするところである。
「生を受ける」あたりが近しいだろうか。
「子供が生まれたんだ!」と報告するのと、「子供が生を受けたんだ!」と報告するのでは、やはり意味合いがまるで違う。あぁ、日本語は難しい。

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ちなみに英語における「生まれる」の表現は必ず受動態である。I was bornという表現が一般的だが、このbornはbearという「(意図的な何かしらの苦労の結果)生み出す・産出する」という意味をもつ動詞の過去分詞である。
このbe動詞+過去分詞の組み合わせは、中学校レベルの英語表現だ。実際にこの例文が現れるのも受動態表現の学習の中においてである。
僕たち日本人とは異なり、アングロサクソンの人々にとっては、子供は意図的に生み出されるものであるというのが僕の推察である。

どう考えても子供は親を選ばない

さて、僕は親を選んで生まれてくる子供という存在に、合理的な説明を与えようと試みた。しかし、何をどう考えても、生まれていない子供が親を選ぶはずがないという結論になってしまう。
なぜなら「選ぶ」という行為には、認知と、意思決定プロセスと、判断基準が存在していることが前提となるが、そうすると胎児に認知能力、意思、判断基準系があることを何らかの形で証明する必要がある。そしてそのどれもが、胎児に存在しているとは考えられないのである。
特に認知と判断基準系については、生を受けてからの成長に伴う様々な情報のインプットがなされて初めて成立するものである。そもそも生を受けていない、いわば細胞の複合的な集合体に過ぎない胎児にそれがあるとは考えられない。
そもそも、もし胎児の僕に判断基準系と意思決定プロセスが存在し、そんな僕が親を選ぶのなら、割と金に困っていた一般庶民よりも、大物政治家や石油王の息子にでもなろうとするだろう。
金に困っていた一般庶民のもとに生まれることは、その後の人生の難易度的に考えて明らかにハードモード寄りであり、そんな環境に生まれることは非合理的である。もし胎児時代の僕に意思があるのであれば、そんな環境のもとに生んでくれとは頼まなかったはずだ。
僕は親になったことがわからないが、親になると感覚が違ってくるのかもしれない。自分のもとにやってきた新たな生命を「授かりもの」とするのはわからないでもない。何ならヤるべきことをヤッた結果たまたまその生命は親のところに宿ったのであり、それは運命であるかもしれないが、何らかの意思決定プロセスが介在したものではない
というわけで僕は、親を選んで生まれてきた子供説を全力で否定する。

「子供は親を選ぶ」に傷つく人がいる

それは宗教と似たようなもので、マグダラのマリア処女懐胎並に非科学的であるが、すでに親となった人たちがそれを信仰するのは自由だと思っている。
しかし、親を選んで生まれてきた子供説を提唱していいのは、暴力や性的虐待や流産、自殺などの一切の不幸がない、親子ともに幸せな連中だけである。
そうでない場合は、他人に語ってはならない
今まさに親子関係の悪い子供の側を自責の念に縛りつけ、人格や精神を破壊するだけの力を、それはもっている。そして流産などで子供を失った親をも、「私は結局子供に選ばれなかった」として絶望に至らしめることだろう。
幸せでないすべての人達へ、追い打ちや圧力をかけてはいけない。なぜそのようなことを語るのか。打ちひしがれた人を追い詰めていい理由はどこにもない!

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ところで、かつて母親も僕に、僕は母を選んで生まれてきたのだと語ってきたことがある。子供の頃の僕はそれを信じたが、母親に暴力を振るわれ、好きな玩具を破壊され、クリスマスケーキを踏みつけられた経験から、僕は自責的になった。
あなたを選んで生まれたのに、怒られてばかりで、玩具を破壊され、クリスマスケーキを踏みつけられるような子供に育って申し訳ないと思うようになった。
それを嘘だと考えるようになったのは、高等教育が終了したくらいのことである。なぜなら、多少なりともの聡明さと合理主義的判断基準をもつこの僕が、こんなゴミカスのような母親を選ぶはずがないからだ。
ずいぶん時間がかかってしまったが、10代の重要な期間に、低い自尊心のまま生きざるをえなかった影響は今でも残っている。それから20年ほど経過したにもかかわらず、僕は未だに僕自身を普遍的に肯定することができていない
結果僕は、常に生きづらさをかかえている。子供が親を選ぶという考え方は、子供にとっても危険なのだ。かつて子供であった僕のような大人にも、その毒は効き続けている。
それでも僕は生きている限りは生きていこうとしているのであるが、それはまた別の話である。
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