キレる老人にならないために謙虚になろう。承認欲求を克服しよう
キレる若者よりもキレる老人の方がクソゴミだよな
僕が思うに、何十年か前に度々ニュースになった「キレる若者」なんてものはもういない。それよりも今圧倒的に多いのは、「キレる老人」だろう。
キレる老人については、以前ヤフーニュースでも少しバズっていた。老人はなぜキレるのか?という問題提起に対して、社会から相手にされず寂しくて、人と関わって承認されたいという不満を抱えている老人が増えている、というような内容だった。
ふざけたこと抜かすな。キレるお前が悪いんだろう。理由があればキレてもいいと思っているのか。
実際のところ、老人になると理性を司る脳の前頭前野の働きが衰えて、感情を抑制できなくなるという。だから仕方ない、と終わらせる話ではない。なぜなら「キレない」老人も相当数存在するからだ。だからこそキレる老人というのは可視化されやすい。
老人=キレやすいという図式が成立することで不利になるのは、それこそキレる老人の側である。老人というのは極めて迷惑な存在であると自白しているようなものだ。社会から相手にされず寂しい?承認されたいだと?
そんな生き物はコミュニケーションコストが高すぎて、接触したら疲れてしまう。なら無視するに限る。あまつさえ承認などしてやるものか。
自分が「キレる老人」とかいうゴミカスにならないために
と、そこまで考慮すると、自分がキレないためにどうするか、今の30代後半のうちに考えておくことが重要になると思われる。老人になってからキレないように心がけを始めることと、今から心がけてキレない心理状態に慣熟することとは、大きな違いがあるからだ。
老害の三大要素に、説教、自慢、昔話というのがあるが、これらは畢竟、承認されたい、価値があるものと他者に思われたいという心理が働くことによるものだ。サラリーマンとして諸君が働いているなら分かるだろうが、年長者のそういう話は、誰もが目を輝かせてウンウンと頷きながら聞くものだ。それが役職者なら尚更である。話している側もさぞかし気分が良かろうな。
しかしそうやって話を聞いてもらえるのは、それが年長者であり機嫌を損ねると扱いが面倒だからであり、あるいはそれが役職についているからだ。そこを自覚している人間がどれだけいるだろう?自分が重要人物で承認されているから、自分の話を聞いてくれている、などと情けない勘違いをしていないか?
例えば若者や目下の者にとってこういう上席との飲みというのは、接待みたいなものだ。目下の人間が目上の人間のご機嫌を取り、気持ちよく帰ってもらうための奴隷労働なのだ。
重要なことは、聞き手は話し手の話を聞いているのではない。話し手が年長であるか、あるいは役職に就いているから聞いているということである。つまり話し手が年長ではなく、あるいは役職に就いてもいないならば、その話し手に聞く価値は全くない。
役職や年齢に溺れず、謙虚になろう
僕たちはしばしば、役職や年齢、あるいは売り手と買い手のような強弱のある人間関係と、自分自身の存在価値そのものを混同する。それは役職や年齢が上がれば上がるほど、混同しやすくなるものである。
だから僕たちは、謙虚にならなければならない。自分自身はまるで大したことはなく、そして他人も社会も全く自分の話を聞くことはなく、あまつさえ何を言ったところで思い通りになりもしない。そういう自他の分離と、自分にも他者に対しても何も期待しないことが重要だ。これを心がけることで、適度に自己評価が低下し、控えめで穏和な老人に進化することができる。
例えば、僕の人生はどうせ大したことはない。そして同じように、僕の仕事は大したことがない。何か社会の役に立つソフトウェアを開発するわけでもなければ、橋やトンネルを造って人の移動に役に立つわけでもない。
今ここでこのように仕事をしている人間は、別に僕でなくてもいいのだが、運よく僕の席がそこにあるので、僕はその仕事をして金をもらう。どうせ僕はあと30年か40年しか生きないし、僕が大した仕事をしていないことを自覚さえしておけば、僕はいずれ老人になった時に、少なくともプライドだけは高くてクレーマー気質の老人に成り下がらずに済むだろう。
自己承認を最小化する
これはつまり、自分も他人も承認しないことだ。これこそ承認欲求を抑制し、将来キレる老人にならないための、恐らく唯一の方法だ。
特に男性、独身男性は尚更だが、自分に家族や子供がいない分、仕事を通じてしか自分自身の価値を表現する手段がないこともある。そういった場合、彼らはキレる老人の予備軍である。仕事の出来や仕事における優秀さ、役職や成果などで、自分の価値を無限大に承認してしまうからだ。しかも年長になれば、それは違うと叩き直されることもなくなる。そうやって修正が図られない図式も、自己承認が高まる一因である。
役職に就いていようが、年長だろうが、その世界を離れたならばただの老人である。その価値ギャップが、キレる老人を生み出す。しかしそれは、自身で謙虚さを自覚すれば、解決される問題でもある。特に役職者諸君が尊重されるのは、役職に就いている世界の中だけであり、繰り返すが、そうでない世界ではただの老人である。
こんな簡単なことさえ自覚できない無能な老人が、今役職に就いていることもあるという、悲しい現実もあるのだが。
「キレる」という不毛さ。誰も何も得しない
また、当たり前のことだが、キレる老人というのは、結果的に人が離れていく。キレる傾向のある人間に対して、そいつがキレないように、地雷を踏まないように気を遣いながらコミュニケーションを交わすのは、極めてコストパフォーマンスが悪いからだ。「話してて疲れる」というやつだが、そいつがいかに優秀だろうと、話してて疲れるやつと好き好んで話そうとするやつはいない。
老人になったら対人交流は控えめになるものだが、そうなったら自分が欲しかった承認すらされなくなる。その不満が歪んだ形で他人に対して放たれるのが「キレる」という行為である。これは誰も幸せにならない。キレた側は見下され交流を絶たれ、キレられた側はストレスを抱える。そういう不毛なことはやめよう。
「キレる老人」って無様でダセェよな
僕も僕とて、老害クレーマーが大嫌いだ。主張すること自体を否定はしないが、客という反撃できない圧倒的優位の立場を利用して、他人を思い通りに操ろうとする卑怯者っぷりが気に入らない。安全なところから石を投げるのは、さぞかし気持ちがよかろうな。しかし、撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ。
キレる老人は、反撃できなさそうな若い女にしかキレない。殴りかかられたら勝てないようなヤンキーDQNにはキレないものだ。この相手を見てキレるキレないを決めるのは、全く無様である。
何度も言うが、人間が他人の言うことを聞くのは、多くの場合、それを言う側の言葉が響いているのではなく、言う側の権威に平伏しているだけだ。だから権威という後ろ盾を失った瞬間に、その人間の言葉は誰にも響かなくなる。老害とはこのことを忘れた人間のことで、この連中は未だに自分に何かの権威があると錯覚している。
僕たちは少しづつ、人生を降りていかなければならない。自分の人生が大したものではなかったと自覚し、自分自身からプライドを引き剥がし、自分自身が積み上げてきたものを破壊しなければいけない。
僕たちは謙虚になろう。自分にも他者にも期待せずに生きよう。そして他人を傷つけることや他人に気を遣わせることに自覚的になり、可能な限り他人とコミュニケーションを控えるような、穏和な老人へと進化しよう。そしてキレる老人を見下そう。