非モテ系のままで生きていくブログ

管理人は、寺社仏閣と鉄道と飛行機と猫を愛する非モテ系。モテないままで、流されることなく、流れるように、頑張らないで生きていく。旅行したり仕事とか人生とか考察したり。

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介護の崩壊に備えて安楽死保険を作ろうぜ

保険は生存リスクに対応する

生命保険の所得保障保険の約款を眺めていて、ふと思いついたことである。僕たちはなぜこうした保険に加入するのか?

例えば今、脳卒中心筋梗塞を起こした者がいるとする。本来ならその発症によって死んでいた者が、医療の進歩によって生かされてしまうわけだ。医療関係者どもは近視眼的なので、命が助かりさえすればいいと思っている。その助かった命がどのような障害を持ち、一般的な生活に支障をきたそうが、あるいは働けなくなって路頭に迷おうが、それは彼らの責任ではないから知ったことではない。

そういうわけで、本来死ぬべきだった僕たちは、医療によって不自然的に生かされてしまう。そしてその医療費を債務として支払う義務が生じる。僕たちは一切それを頼んでいないというのに。

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本来脳卒中心筋梗塞を起こした人間がそのまま死んでしまってさえいれば、その高額な医療費用など支払わずに済んだのだ。死んでしまったなら、せいぜい数百万円の葬式代がかかるか、あるいは直葬なら30万円で遺体を処分できる時代である。それなのに生きてしまうと、その後何年にも渡って生活費用を調達する必要があり、それは数百万円で足りることはない。

死ぬべきものを死なせるという自然的事象に逆らうから、高額な医療費用がその代償としてのしかかってくるのだ。だからこういう保険が成立している。僕たちは生きることに無限の価値を感じていて、死を可能な限り遠ざけようとしている。今一度問うが、果たしてそれは正しいのだろうか?

生きることはリスクであるというのは誤っている。正しくは、生きてしまうことがリスクなのである。そして、きれいさっぱり障害もなく生還するか、そのまま死に至ればいいのだが、障害を背負ってしまうこともある。その場合、障害を背負ってまで生きる意味を感じていない人々の受け皿は、今の社会には存在していない。これが大きな問題だ。

障害を負い要介護状態になったなら、食事や排泄に人の手を借りないと生きられない。僕は、自力で移動、食事、排泄ができなくなったならば、速やかに死にたいと思っている。それは動物として死を意味する状態であり、その状態で生存することは動物の一個体として不自然だからだ。しかしこのニーズに応えてくれるサービスは、身近には存在しない。スイスには外国人向けの安楽死団体があるらしいが、言語や渡航のハードルを考えると、気軽に選択できる手段とは考えられない。

苦しむことなく人生を終えられる権利

僕は常々、人が意のままに、苦しむことなく人生を終えられる権利を主張している。とくに僕たちのような独身世代は、子供がいたりするわけではない分、特に長生きする理由も必要もないわけだ。そういう人々が年老いて要介護状態になったら、果たしてその人はその状態になってまで、さらなる人生を要求するのだろうか?

人それぞれの価値観はあるにせよ、僕はそうじゃないと思う。独身世代は、行き続けなければいけない理由もない中で、食事や入浴や排泄に誰かの手を借りながら生きていくことに、何も価値を感じていないはずだ。今このエントリを読んでくださっているあなたがそうじゃなくても、僕はそう思う。

だからこそ、自分の任意のタイミングで自分の人生を苦痛なく終わらせる権利を行使するサービスが必要なのだ。僕はそれができるのは、保険業界だと思う。

僕が目指しているのは、幸せに生き、苦痛なく死ぬことだ。幸せに生きることは誰にでもできることではないが、苦痛なく死ぬことは誰かの助けがあれば確実に実現できる。問題になるのは倫理観だけだ。僕はその点についてあまり心配していない。

介護の崩壊が安楽死制度を促進する

人間というのは理想を追い、要介護状態になっても幸せに生きる方法を提案しようとする。しかし実際のところ、そういう提案をしてくるのは介護の従事者ではない。このように、幸せに生きるだの何だのと言っている人間が、その幸せコストを介護職に押し付けて、自分は何もしないでいるのを見ることに、僕は反吐が出そうになる。

実際、介護業界というのは人員不足で現場は疲弊しているし、30年後、要介護状態になるリスクが極めて高くなったときに、介護人が不足して、介護を受けられない事態に陥ることは十分に考えられる。

そうした場合、未来の僕たちを介護することによってどのような価値が生まれるか、つまり命の価値判断がなされることだろう。例えば僕なんかは、税金はまぁ納めてきたのかもしれないが、子供を作らなかったため社会の継続性には一切貢献していないし、何なら今後はただ介護保険と年金で生きていくだけの、ただのランニングコストのかかるウンコ製造機となるわけである。少子高齢社会となり、高齢者に対してかけられる社会保障費も限られる中で、そんな人間に介護を提供し長生きさせることを、社会が許容するだろうか?

否、断じて否!人間は冷静にして冷酷なので、社会の限りあるリソースを食いつぶし、そして一切の生産活動にも寄与できない、未来の僕のような人間が生存することを許さない。判定結果は、「生存の価値なし」である。

僕が誰かの親であれば、少なくとも子供からは生存してほしいと思われるのかもしれない。しかし僕一生独身である。独身たる以上、社会の誰からも生存することを求められず、許容すらされない。そんな世界で生きるのは、苦痛極まりないだろう。自発的にも、社会からの圧力によっても、速やかに人生を退場することが社会から求められるようになる。

高齢人間の殺処分ニーズが高まる

いわば、生産性や価値のない高齢人間の殺処分だ。これが将来の社会的なニーズになる。

安楽死ビジネスはそういう社会ニーズに応えるものだ。僕は保険会社こそが、このニーズに対応できる商品サービスを提供できると信じている。保険料を支払えば、自分が死ぬべき時がきたとき、苦痛なく人生を終了することができる。この安楽死保険は、自分の尊厳を守り抜くことと、社会の持続性の維持にそれぞれ貢献できる、画期的な保険商品だ。

そしてこの安楽死保険が導入された時、他の保険、特に所得補償保険は姿を消すだろう。安楽死保険は、必要以上に長生きするリスクを回避するものである。長生きを自らの手で回避できる=制御できるとしたら、わざわざ想定以上の長生きに対応して所得を確保する保険など、加入する意味がなくなる。実際所得補償保険というのは割高だし、回避できるなら回避したいものである。

生産性や価値のない高齢人間の殺処分がなされる社会というのは、端的に地獄である。だからこそ僕は、そういう社会になる前に死にたいし、そういう社会になってしまったなら、率先して社会から退場したいと思うのである。そんな社会で生きるなんて、人生の無駄だ。

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