理不尽で苦しい非モテ人生だけど悟り系男子になろうぜ
生きとし生ける僕たちは、人生における数々の理不尽の相手をしなければならない。そんな人生は辛く苦しいが、仏教の教理が1つの指針になるかもしれない。
僕が目指している悟り系男子というのは、女性誌で人気の「イケメンなのに恋愛に興味がなくてそれでいて何故かモテる、草食系男子の進化版」のようなことではない。そもそも僕はイケメンでないので、そういう定義の悟り系男子になりようがない。
そうではなくて、非モテなりに人生を安らかに生き抜くために、文字通り悟りを開こうというのがこのエントリの趣旨である。
僕はこのエントリで、仏教教理の中に非モテが安らかに生きていくヒントが隠されていると伝えたい。しかしそのためには、僕が理解した仏教の教理について、少し語る必要がある。そのため前段が少々長くなるがご容赦いただきたい。
僕が天啓を受けた「ブッダのことば」
僕は大学の講義で「宗教学」という講座を受講したことがある。その時紹介された本が、中村元著「ブッダのことば スッタニパータ」(岩波書店)である。
仏教はもともと口伝でその教義を弟子たちに伝えてきており、それらを寄り集めたのが「経典」とか「仏典」とかいわれるものである。これらを集めて記録し教義の統一を図る活動(仏典結集)がなされたが、古代インドには紙に記録を残すという習慣がなかった。つまるところ、口伝である以上は、ブッダの語った内容に対して修行者の解釈が加わることが当然に想定され、ブッダの本来意図した内容ではないものが経典として編纂されることも少なからずあったようだ。
「ブッダのことば」はその仏典のうち、ブッダの発言をまとめたものとしては最も古いものの1つ「スッタニパータ」というパーリ語経典を日本語訳したものである。そのためこれはブッダの説教を最もよく反映しているとされる。「ブッダのことば」は叙情詩をもってまとめられているものが多く、繰り返し表現が多用されていて構成として読みやすいとはいえないが、内容的には十分に理解可能である。
犀の角のように(自分自身をしっかりと保って)ただ1人歩めとブッダは語った。それは自分の存在や評価軸、あるいは自己肯定感の根拠を他者においてはならないということだ。
自分のものではないものをとってはならないとブッダは語った。恋愛や結婚は僕のものではなかったからもう欲しがらなくてよくなった。
執着してはならないとブッダは語った。執着しそれに心がとらわれることによって、精神の安定を損なってはならない。必要な分だけで満足しなければならない。必要以上なものに対する不足の不満は自分を苦しめ、破滅を招く。僕が必要なのは弟と猫、そして少しのお金である。それ以上に所有物を増やそうとは思わない。
僕は「ブッダのことば」を読んでこのように思っていたのであるが、それをもって、非モテで苦しむ人たちや、そうでなくとも生きていくのに苦しみを覚える人たちに、同じように苦しむ僕の思索を表現してみようと思う。
人生という最低最悪の理不尽ゲーム
ところで、人生というのは理不尽の集合体である。誰一人、合理的な理由や背景をもってこの世に生まれてきたとは想定し得ず、いわれのない叱責や中傷を受けながら生き、ある日突然怪我や事故や病気や災害で死ぬことがある。それは全く僕たち人間が感知しえず、理解が及ばず、その責任のない領域である。これらは「運」と片付けられることさえある。
いっぽうで僕たちは、社会的な様々な人間関係の中で、好き嫌いであったり上下関係であったり、あるいは尊蔑の区別をつけて生きているが、あずかり知らぬことで責められたり、何もしていないのに嫌われたり、単純に生まれたタイミングによって上下関係が押し付けられ苦しむということもある。
ここでいう理不尽というのは、理が尽くされていない、つまり理由づけが十分でないか、あるいは偶然の要素を多く含むことを意味する。だからこの解釈では、幸せであることすら理不尽である。それは偶然であり、運が良くて恵まれたという結果のみに焦点を当てるからである。僕たちは理不尽に幸せになり、偶然に不幸になるのだ。
輪廻による生まれ変わりは不幸の象徴である
こうして人生が、幸も不幸も理不尽の集合体であると定義できるならば、宗教が発生し広まった理由を説明できるだろう。
そもそも宗教とは、僕の考えによれば、目の前に横たわる理不尽を説明しようとして、人間が作り出した一時の現実逃避か、あるいは心理適応の一形態でしかない。苦しんでも信仰を貫いたら天国にいけるというのは、古今東西問わず様々な宗教で教義として確立している。逆説的に、そこにあった人生というのは、そうして死後の天国行きというインセンティブによって適応することが必要とされた程度に、過酷なものであったに違いない。
しかし仏教は、(ものすごく平易に表現すると)ただ一人修行し、良いものと悪いものを見極め、悪いものと接触することがなければ、輪廻において生まれ変わることなく解脱し救われるのだと説く。これは生きることそのものに幸せは存在せず、しかもそうしている間は救われず、輪廻によって生きるという不幸を何度も繰り返すという絶望を与えているのである。
人生における理不尽の際たるものが死である。ブッダは出家前に生老病死の四苦の存在を認識したが、そもそも全く望んでいないのにもかかわらずこの世に生を受け、死に向かって人生を歩む中で与えられる理不尽に苦しみ、全く自分の預かり知らぬ運命において死に、自分自身の存在が消え去ってしまう。これは究極の理不尽であり、絶対的な不幸である。生死が分けられないのなら、生きているもの全ては誰も彼もみんな不幸であるのだ。
どのように死に立ち向かっていくべきか。生まれてしまったならば死を避けることができない。だから僕たちは死を克服することが要求されるのである。
このように、少なくとも僕の解釈では、仏教というのは人生において幸せになるための教えではなく、理不尽と不幸に溢れる人生を、修行の身において正しく誠実に生きるならば、死んだならもう生まれ変わることもなく、再び人生を歩んで苦しみと対峙する必要がなくなることを説いた宗教である。
※だから、幸せになれるという名目で仏教系の宗教に勧誘する連中は、根本的に人生を「幸せであるべきもの」として取り違えている。
非モテであるからこそ悟り系男子になろう
さて、視点を僕自身の非モテという事実に戻してみよう。僕たち非モテは、この恋愛結婚主義の社会にある限りその参加者となりえず、迫害され差別され追放された層である(国民社会の構成員として追放されてはいない、念のため)。
それを自認するのは、自らが恋愛において落ちこぼれであり出来損ないであることを認めることになるため、大変な苦しみを伴う。いっぽうで恋愛や結婚を一定程度望んでもいる。どれだけ結婚とかを否定しても、それに憧れる気持ちはわずかに残る。それは消せない。
しかしそれを実現することは叶わない。叶わないのならば、それは自分のものではないのだ。冒頭のブッダのことば通り、自分のものでないものをとろうとしてはならない。
実際のところ人生において、将来死ぬという確定的な事実、そして絶対的な不幸に対して、モテない、結婚できないという事実は、大して重要ではない。結婚願望が1%ほど残っていたとして、それはそれとして否定せずにおいておき、並行で自分の将来の死を関心ごととする。消えない結婚願望とその苦しみは、僕を僕たらしめるものだ。だから捨て去ってはならず、その苦しみを大事に抱えて生きていく必要がある。それは僕を僕たらしめる貴重な証となり、そうして抱えてきた苦しみの数々こそ、人生の豊かさである。
しかし僕はそう認めるまで人生の30年以上をかけてしまった。社会構造や、あるいは僕が育ってきた環境(小中高大と全て共学の学校だったため、モテ非モテの格差が激しかった)は、僕がこの小さな悟りに至るまでに、どれだけ僕を廻り道させたのだろう。
理不尽を理不尽として受容し、それが在るべきもの、幸も不幸もあるがままのものであることを認めることができたなら、人生の捉え方が大きく変わり、人生をもっと素晴らしいものにすることができるだろう。それは足るを知るということであり、必要か不要かの分別がつくことであり、静かで穏やかで安らかな人生を歩めるということである。こうして僕自身は幸いにして、少しだけ人生と自分自身を許容することができるようになった。
僕のように非モテで苦しんできた人たちは、他にも多くあるはずだ。その人達も、僕の預かり知らぬところで、どうか心安らかに生きてほしい。仏教はおそらくその助けになるだろう。非モテを貫きつつも、心安らかな人生を送ろう。