【軍オタ兼平和主義者】パラオのペリリュー島で戦跡巡りしようぜ
ミリタリーオタクだからこそ、戦跡巡りをする
僕はミリタリーオタクである。専門分野は第二次世界大戦期の軍用機と軍艦。銃器や戦車には疎い。そして僕はミリタリーオタクである以上、僕が愛でている兵器それ自体について、正しく理解をしなければならない。
零式艦上戦闘機や、一式戦闘機「隼」、一式陸上攻撃機……かつて太平洋やアジアの空を所狭しと翔けた荒鷲があった。木の葉や蝶のように舞い、蜂のように破壊的な一撃を加えるのだ。流線型をまとったその姿はとても美しかった
YouTubeで時たま過去の映像や航空ショーの動画を見て、それが発する重厚な空冷エンジンとプロペラの爆音にロマンを感じた。それが敵国の重爆撃機ボーイングB17やB29であっても。
ところで、兵器に本来期待されるのは、敵国の軍隊の人員や物資破壊力や殺傷能力である。そうだ、破壊こそが兵器の存在意義である。それにもかかわらず、戦争が終わってから40年も経ち、平和な時代に生まれた僕は、それを実感できていない。これはたいへん大きな問題である。
兵器に課せられたのは血なまぐさい肉片と原型を留めない人体、そしてそれが発生させ連鎖する悲哀と憎悪……。僕はそんな醜悪なものに相対しているはずなのに、それほどの不快感を覚えていないのだ。
僕が思うに、ミリタリーオタクであるこの僕が機能美や造形美、勇壮さ、もっと有り体に言えば「かっこよさ」をそれらの兵器に見出すのは、僕が明らかにそれらの兵器を兵器としてみなすことができていないからだと思われる。そして、それは明らかに兵器としての本質を見誤った態度である。
全てのミリタリーオタクは、今愛でている物体によって何が起こったのかを知るべきだ。パラオを訪れたのは、僕が抱えているその問題に取り組むためでもあった。
パラオ・ペリリュー島の戦跡巡り
パラオ共和国・ペリリュー島。本島であるバベルダオブ島からスピードボートで1時間ほどの小さな島で、日本軍とアメリカ軍による激戦が繰り広げられた。
グアムやサイパンなどのマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、フィリピン方面へ進攻する拠点としてパラオ攻略を推進した。日本軍は、フィリピン方面への進攻を阻止するためにパラオに立ちはだかり、特に飛行場などがあったペリリュー島では激しい戦闘が続いた。
アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し、次の戦略目標をフィリピンに設定した。フィリピンとマリアナ諸島諸島の兵站線の中間に位置するパラオは、日本軍の反撃拠点としては絶好の位置にあったため、アメリカ軍としてはパラオを攻略する必要があったのだ。
コロールにある港からスピードボートに乗りペリリュー島に向かう。
海面部分が削り取られている、不思議な形をした石灰岩の岩塊のそばを通り過ぎていく。これらがより多く集まったのが、風光明媚な景勝で知られるロックアイランドと呼ばれる海域である。
深いところではオーシャンブルー、浅いところではエメラルドグリーンに変化する海がとても美しい。
ペリリュー島で行動するには、このような許可証が必要になる。なくさないように注意しておくこと。
ペリリュー島の小さな港に到着する。釣りは禁止らしい。
ペリリュー島のメインストリート。小さな住宅以外は何もない。
民家の軒先に、航空機のプロペラらしきものが飾られている。直径的に考えて大型機のものではなさそうだ。零戦などに使われていたハミルトン・住友の可変ピッチプロペラだろうか。
ここからはガイドが戦跡を案内してくれる。順不同だがいくつか紹介していこう。
日本軍の兵器貯蔵庫跡。コンクリート製の頑丈な建物だが、ところどころ鉄筋がむき出しになり、また破壊された跡には窓が埋め込まれている。機関銃の弾痕などが生々しく残る。写っている人物は管理人。
さきほどの許可証があれば、内部に入ることができる。
25mm対空機関砲。
日本陸軍の軍服。頭の小さい欧米人モデルのマネキンに着せられた小奇麗な様はなんとも言えず不格好に見える。
アメリカ軍が投下した降伏勧告文書。「すでに勝敗は決し米軍の勝利が明らかになった。戦いぶりには感心した。捕虜として尊敬を持って丁重に扱う、病気や負傷した者は治療するし飲食も供給するから投降せよ」という意味のことが書いてある。
250kg爆弾と、小型爆弾の残骸が放置されている。
800kg航空爆弾。不活性化されている。多分。
800kg航空魚雷。
破壊され放棄されたアメリカ軍のM4シャーマン中戦車。人の背ほどもある巨大さもさることながら、溶接によって組み立てられた高い工作技術も注目するポイントだ。
日本軍が構築した洞窟陣地の入り口。
洞窟陣地を進んでいく。小柄な僕でも身をかがめないと通れない。
九七式中迫撃砲を後ろから。砲架も現地で組み立てられたであろうもので、旋回式になっている。
さきほどのM4シャーマン中戦車を破壊した……かどうかは定かではないが、日本軍の九七式中迫撃砲がこちらを向いている。
さて、僕はここであることに気づく。それはとても暑いということだ。緯度が低いのだから当たり前だと、そういう話ではない。この暑さの中で、精神的にも極限状態で生死を懸けた戦いが繰り広げられていたのだ。この事実に僕は戦慄した。そして改めて英霊への敬意を新たにする。
戦ってすらおらず、身の安全を保証されているこの僕が、この暑さで弱音を吐こうとしている。銃も物資も何も持っていないのに!この軟弱者がと怒られそうだ。日本軍もアメリカ軍も、何と過酷な戦いをこの地で行っていたのだろう!
ペリリュー神社。南洋諸島の繁栄を祈って建立された南興神社を再建したものである。域内には、アメリカ海軍太平洋艦隊司令官・チェスター・ニミッツ元帥のあの有名な詩文が残されている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
強襲揚陸艦ペリリュー(USS Peleliu LHA-5)の乗組員による記念碑。ペリリューの戦いにちなんで命名されたこの強襲揚陸艦の乗組員によるもので、この地で戦った先人の勇気を忘れない、と刻まれている。ちなみにペリリューは2015年に退役した。
ペリリュー島で最も高台にあたるノース・リッジ。かつては日米両軍の激戦地となり、血に染まったことからブラッディ・ノース・リッジと呼ばれた。
見渡す限りにジャングルと、青く美しい海が広がる。爽やかな風が吹き抜ける。戦争の面影はどこにもない。
ノース・リッジに建てられた、「アメリカ陸軍323連隊の死を忘れないように」と刻まれた石碑。323連隊はペリリュー島への一連の上陸作戦とノース・リッジ攻略戦で、壊滅的な被害を被った。
アメリカ軍戦死者の墓地。この地で2000人以上のアメリカ軍兵士が戦死した。
鉄兜と星条旗を手向けられた墓碑が今でも残っている。
僕たちが英霊に感謝を込めて祈りを捧げるように、アメリカ人も任務や作戦中に戦死した軍人を英雄として称える。それは国は違えど同じことだ。
ペリリュー島守備隊の司令官であった中川
中川大佐が自決を遂げた洞窟。今でも折り鶴や香を手向ける人がいる。中には名もなき兵士の遺骨とともに多くの遺品が眠っている。
いかにも南国っぽい、毒々しい色をしたトカゲ。
アメリカ軍の戦車。形式不明。先程のシャーマン中戦車に比べて砲身が太いようだ。
アメリカ軍の水陸両用車(LTV)。シャーマン中戦車よりは一回り小さい。
航空機用増槽(燃料タンク)と思われる部品。
航空機の尾輪と思われる部品。なお、これらの部品は持ち出し禁止であり、発見したらその場に放置しなければならない。
こちらは日本軍の発電所跡。重点攻撃目標だったようで、砲撃や銃撃の跡が生々しく残る。
内部はこんな感じ。左側の大穴は爆弾の直撃で空いたもの。鉄骨もむき出しになっている。
トイレや風呂場の跡も残る。何となく生活感があって趣深いものがある。
防空壕の入り口。上空からは見つけづらいだろう。
戦車用の掩体壕。内部には戦車の部品が未だに散乱している。エンジンに使われた直列6気筒のシリンダ部も確認できた。
司令部跡。2000ポンド(1トン)爆弾の直撃で破壊された。右側に座っているのは管理人。
九五式軽戦車「チハ」の残骸。日本軍の代表的な軽戦車で、太平洋戦争を通して活躍したが、さきほどのシャーマン中戦車と比較すると明らかに小さい。中戦車と軽戦車なので規格が違うのだから当たり前だけど。
飛行場跡。かつては日本軍航空隊の一大拠点であった。
西太平洋戦没者の碑。日本軍の慰霊碑である。天皇皇后両陛下はパラオご訪問の際、菊を手向けられた。
墜落した零式艦上戦闘機の残骸。足を出している状態であることから、離陸直後か着陸前に攻撃を受けたのだろう。エンジンは脱落している。
ジュラルミン製の機体は退色しているが、主翼にはわずかに日の丸の赤が確認できる。朽ち始めているとはいえ、内部構造もまだ確認できる。
コックピット部。操縦桿は折れてしまっているが、ラダーペダルが残っている。
ペリリュー島から平和への祈りを込めて
ペリリュー島は、観光客は手軽に行くことはできない。VELTRAやベラウツアーなどの旅行代理店でツアーを申し込むのが一般的である。出発の3日前までに申し込む必要がある。最低催行人数は2人であるため、1人旅の場合は2倍の料金を払う必要がある。僕はVELTRAで330ドルも払った。
ダイビングが有名なペリリュー島だが、是非この戦跡巡りツアーにも参加してほしい。今の日本の平和を考える切っ掛けにもなるだろう。そして、それがそのまま忘れ去られていくのもおそらく悪くない。戦争があったという事実が忘却の彼方に去るまで、平和が永劫続きますように。