【負の世界遺産】原爆ドームと広島平和記念資料館を見に行こうぜ
8月6日という日付と、午前8時15分という時間を聞いて、ピンとこない日本人は稀だろう。太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、人間に対して人間が核兵器を使用した瞬間である。
広島は実際のところ、近隣の呉や岩国と並んで巨大な軍事都市であり、戦略上重要な攻撃目標になるのは、連合国軍からすると当然の判断である。その手段が核兵器であったという点が取り沙汰される。果たしてそれが従来の夜間無差別爆撃に置き換わったならば、おそらくこれほどまでメモリアルではなかっただろう。公式に核兵器による攻撃を受けたのは世界でも日本だけであり、その記憶は後世に語り継がれるべきである。
その日の広島は快晴だった。3機のB-29爆撃機が早朝に広島上空を飛行し、警戒警報が発令されたが、飛び去っていったため警報は解除された。人々は通勤や通学のためいつものとおり外出していた。
飛行するB-29爆撃機。74年前の広島市民も、おそらく同じように空を見上げ、この写真と同じものを見たはずだ。
彼らは、なんの変哲のない夏のある日が始まると信じていた。その頭上に投下された1発の原子爆弾は、その後の歴史を大きく変えることになった。
原爆ドームと平和記念公園
広島県広島市にある通称「原爆ドーム」は、かつては広島県産業奨励館とか物産陳列館と呼ばれており、広島県のみならず各地域の名産品や特産物が展示されている商館であった。
原子爆弾はこの建物の上空600mで炸裂し、その周囲半径2kmを完全に破壊した。破壊当時のまま残存しているこの建物は、かつての姿の名残からいつしか原爆ドームと呼ばれ、数少ない現存する被爆建造物となった。
原爆ドームの近影。写真では分かりづらいが、ところどころ鉄骨で補強されているのと、より近くで見ると非常用の螺旋階段が捻じ曲がってしまっているのが確認できる。
かつての惨禍を想起させるという理由から解体論もあったらしいが、1996年に世界遺産に認定された。原爆ドームは核兵器の悲惨さの象徴であり、また人類に対する核兵器そのものの警鐘といった意味も込め、「負の世界遺産」と認識されるようになった。
屋外で風雨にさらされているため、強度保全のため必要な部分のみ鉄骨等による補強が行われている。
周辺には慰霊碑が多く設置されている。
原爆の投下目標となった相生橋跡。太田川と元安川の分岐部に架かるこのT字型の橋梁は、上空からでもよく判別できた。アメリカ軍の投下精度は高く、高度9000mから投下されたにもかかわらず、爆心地は目標地点たる相生橋からわずか100mほどしか離れていなかった。ノルデン照準器すごい。
実際に爆心地となったのは現在の島病院上空だが、その傍らには爆心地の石碑が立つ。
原爆ドームは、爆心地から最も近い被曝建造物であり、爆心地そのものではないことを把握しておこう。
元安川と太田川の中洲にあたる一帯には、住宅地が密集していた。これらは原爆の直撃を受け破壊された。現在は平和記念公園として整備されている。
園内には、当時の町名や地域別の慰霊碑もある。
有名な「原爆の子」の像。全国の小中学校から、平和を祈る折り鶴が奉納される。
動員学徒の慰霊塔。防空や防災に備えて、多くの学生が勤労のため広島市にやってきていた。
公園内には「国立広島原爆死没者追悼平和会館」という建物がある。内部では追悼空間が設けられているほか、原爆の体験記を閲覧したり、犠牲者の遺影を拝することができる。半地下構造のこの建物は入館無料だ。
8時15分を指すモニュメントを実際の被爆瓦礫が囲う。その日を、その時を、忘れないために。
平和観音像。
誰かが平和を祈り鐘を衝く。誰かの平和の祈りが公園中に響き渡り、拡散していく。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文が有名な慰霊碑。奥には原爆ドームを望む。インドの弁護士であるラダビノード・パール判事は、著書「平和の宣言」の中で、この碑文について「誰に対しての何の過ちか?」と厳しく問うた。
核兵器を落とされた側からすれば、どう考えても「核兵器を落とす」という僕たち日本人に対しての人道的な過ちを犯したのはアメリカ政府だが、そもそも「戦争をする」という過ちを犯したのはかつての人類であるし、また現在進行系で犯しているのは、世界中の人類である。そもそも人類の歴史自体、戦争によって積み重ねられたものという考えもある。僕たちはどう考えるべきか。
原爆供養塔。原爆により命を落とした人々の直接的な墓碑であり納骨塚でもある。埋葬されている遺骨の数は7万を超えている。
供養塔の傍らには折り鶴が納められ、未だ見つかっていない原爆による被害者の名簿を張り出し、情報収集を図っている。今でも工事現場などで遺骨が発見されることもあるとか。
当時の広島には、植民地となっていた朝鮮半島からも多くの労働者が居住していた。彼らもまた原爆の被害者である。
広島平和記念資料館
この資料館には、原爆の被害の記憶を後世に残し、その惨禍を未来に伝え、核兵器と戦争なき世界を志向するための施設である。
8時15分で止まった時計。
原爆投下当日の広島市上空。真ん中上部が投下目標の相生橋、その右上にあるのは広島城である。
原爆が投下された瞬間
原爆が炸裂し、衝撃波と熱線、火球が街と人々を襲った。
投下された原子爆弾「リトルボーイ」。核分裂反応にウラン235を使用した方式で、筒状のウラン235と、その筒直径と同等の直径を持つウラン235の円柱が内蔵されており、一定高度に達すると円柱のウランに筒のウランが重なり、臨界状態を引き起こしたあとに爆発する。こうした核分裂生起方式をガンバレル方式という。
爆弾の長さは3.12m、直径0.75m、重量は5tにもなる大型の爆弾である。
熱線で変形したガラス瓶
オバマ大統領は広島を訪問し、非核化のメッセージとともに、平和を祈念する折り鶴を奉納した。
男子中学生が被爆時に着用していた国民服。熱でボロボロになってしまってる様があまりにも痛ましい。ちなみに3人分である。
熱で焼け付いてしまった子供用の三輪車。この三輪車に乗っていた子供はどうなってしまったのか。おそらく上記の国民服と並んで、胸を締め付けてくる展示品だろう。
僕も僕とて、子供が被害に遭う様を想起させられるのには辛いものがあるのだ。
熱で溶着してしまった薬瓶。
ちなみにこのエントリを書いた2019年1月の時点では、資料館の本館は耐震工事のため閉鎖されている。この本館には、原爆投下直後の地獄絵図がそのまま再現されており、指先から赤くただれた皮膚を幽霊のようにぶら下げてのろのろと歩く被災者や、半身が火傷で真っ赤になって助けを求める少年の人形などが展示されている。
僕はこの本館こそ、全ての国家指導者が一度訪問するべき場所だと信じている。核兵器を人類に対して使ったらどのようなことになるか。よくよくその目で確かめてみるがいい。そして僕たちは世界唯一の被爆国として、かつてこの地で何が起こったのか、その有様を世界中に発信し続けなければならない。
広島城と広島護国神社も被爆した
江戸時代からの城郭を保っていた広島城天守も原爆で破壊された。現在の天守や大手門を含む城郭は再建されたものである。
中国放送社の横に設置してあるこの鳥居は、被爆建造物の1つである。かつては広島護国神社の鳥居として使用されていたが、この地に移築された。
僕は全ての核兵器の対人利用に全力で反対する。核兵器を使うときは、用法用量を守って正しくお使いください。少なくとも人に向かって使ってはいけません。