とある喪男の雑記ブログ

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【呉鎮守府の夢の跡】大和ミュージアムに行こうぜ【呉海事歴史科学館】

大和ミュージアムに行こうぜ

男たちの大和/YAMATO」という映画をご存知だろうか。太平洋戦争末期、敗色濃厚となった旧日本海軍において、米軍の猛攻にさらされた沖縄を救援するべく立ち向かい、海に散っていった戦艦「大和」の乗組員の激闘を描いた映画である。

そんな大和をテーマに、大和、そして太平洋戦争関連の展示物を見ることができるのが、広島県呉市にある大和ミュージアムである。

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戦艦「大和」は、戦艦としては世界最大級の船体と、46cm砲9門による圧倒的な攻撃力を持つ。さらに500kg爆弾をも跳ね返す甲板23cmの装甲による強大な防御力を誇る、大和型戦艦の一番艦である。同型艦に「武蔵」、「信濃」があったが、「信濃」は航空母艦に改装されている。

ミュージアムの外には、爆発事故で沈没した戦艦「陸奥」の部品が展示されている。

戦艦「陸奥」の3枚スクリュー

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戦艦「陸奥」の錨

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戦艦「陸奥」の主砲(40cm砲)。

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内部に入るとすぐに、本ミュージアムの目玉である1/10の戦艦大和の模型が来場者を出迎える。甲板の木版も忠実に再現されているのが見事。艦首には菊の紋が誇らしげに輝く。

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大和を艦尾方向から撮影。4本のスクリューと軍艦旗、方向舵、カタパルトに設置された零式観測機の姿も確認できる。零式観測機は偵察機の一種で、一般的な偵察や哨戒のほか、主砲射撃の着弾観測に使用された。

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上方から撮影。

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上部構造物のアップ写真。左側に艦橋、中央部に煙突、その根本に探照灯と信号灯が並び、25mm連装対空機関銃が周囲の防護を固める。

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隣の部屋には零式艦上戦闘機六二型が展示されている。

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水没していた機体を復元したため強度が保たれておらず、エンジンは取り外され、その傍に展示されている。そのためスピナーとプロペラは後付である。

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零戦六二型は旧来の五二型の武装強化型で、7.7mm機関銃2門に代わって、より破壊力の高い13.2mm機関銃3門が装備されている。写真中央の銃が13.2mm機関銃で、その右側に写っているのがより大口径の20mm機関砲である。主翼下のスパッツには30kgロケット弾が装着できるようになっており、対地攻撃も考慮されている。

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零戦六二型の展示は日本ではここだけで、非常に貴重な機体である。

25番爆弾こと250kg爆弾。特攻機に使われた機体が胴体下にくくりつけたのがこの爆弾。両手で抱えられる程度の大きさだが、太平洋戦争を通じて広く使われ、敵味方問わず多くの兵士の命を奪った。

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特殊潜航艇「海龍」。魚雷2本を装備し、最後は体当たりするという悪名高き水中特攻兵器の1つである。

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旧日本海軍で使用された砲弾。

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手前の3つが大和の46cm主砲に使われる砲弾で、それぞれ九一式徹甲弾、三式弾(三式焼霰弾)、九一式徹甲弾の弾体部。九一式徹甲弾は対艦攻撃用、三式弾は対空砲の一種で、空中で爆発し弾子を飛散させ飛行中の航空機を損傷させる。今でいうところのクラスター爆弾である。

自分の身長と比べてみるとよい。九一式徹甲弾は、だいたい人間の身長と変わらない。

呉は明治時代に全国5つの海軍区の1つとなり、1889年に鎮守府が置かれ、以降太平洋戦争の終戦時まで、旧日本海軍の重要拠点でありつづけた。1903年には呉海軍工廠が設立され、軍需工場や造船所が設置されたことで人口が増加し、呉の経済的・技術的発展はめざましいものがあった。そして培われた造船技術は、大和へと結集した。そうして造船・工作技術の粋を集めて建造された大和が、凡庸な艦船であるはずがない。だからこそ坊ノ岬沖海戦で大和を沈めるのに、アメリカ軍機動部隊は、400を超える作戦機、3波に渡る攻撃、爆弾38発と魚雷30発を要したのだ。(必要性が薄れたためとはいえ)今なお大和を超える戦艦が存在していないことは、呉の1つの誇りである。

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大和に対する僕たちの思い。なぜ僕たちは大和にこれほどまでの郷愁を感じ、哀愁を感じ、またはロマンを感じるのか。その多くはおそらく「建造当初からすでに時代は航空機に移っており、そのポテンシャルとは裏腹に活躍の機会に恵まれぬまま最後は特攻に使われた悲劇の艦」という理解によるものだろう。僕の理解では、結局使い方の問題である。太平洋戦争末期に那覇、室蘭、釜石などの軍需工業都市に対してアメリカ軍が戦艦による艦砲射撃を行い大きな戦果を上げたように、制空権を握った上で、沿岸の工場や飛行場を破壊し、継戦能力を削ぐという戦略は極めて有効である。大和が破壊するべきは敵の戦艦や巡洋艦ではなく、飛行場や工場であるべきであった。

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呉は現在、海上自衛隊の基地とジャパンマリンユナイテッド(JMU)のドックを抱える、「海の街」である。大和ミュージアムが教えてくれたのは、造船業戦艦大和海上自衛隊の誇りと技術は現在の呉にも脈々と受け継がれているという事実であった。

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それは今、自衛と海運に置き換わり、それらを通して日本を今なお支えている。海軍と、造船と、海上自衛隊と、それらとともに歩んでいく瀬戸内海沿いの小さなこの街が、僕はなんとなく好きになった。

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