軍オタじゃなくてもウィーンの軍事史博物館に行こうぜ
ベルヴェデーレ宮殿から南東へ10分ほど歩くと、赤いレンガ造りのがっしりした建物がある。これこそがウィーン軍事史博物館である。
もともとは、1848年にヨーロッパに吹き荒れた革命(諸国民の春)を目の当たりにしたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、市民による反乱に備えて建設した武器庫である。
その名の通りオーストリアの軍事資料を収蔵した博物館で、軍オタは必見である。またそうでなくとも、ハプスブルク家の軌跡を追ったり、単純に歴史が趣味な人でも楽しめるだろう。世界を大きく動かした場面に居合わせた人の名残を間近で見られるのは、ロマンに溢れる。
このウィーン軍事史博物館の有名な収蔵物は、オーストリア大公にしてオーストリア=ハンガリー帝国皇帝位継承者フランツ・フェルディナントに関するものと、名君と慕われた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に関するものである。
またその他にも、オーストリア帝国時代~ナチス・ドイツ時代の、軍服や兵器、関連品を展示している。当時の軍国主義的要素の強い雑貨等が、陸海空軍全般にわたってまとめられている。
外部には16世紀頃に鋳造された大砲の砲身が青空展示されている。
オーストリア空軍の航空機も展示されている。
館内はこんな感じ。彫刻が美しい。ただ、武器庫に彫刻の必要性があったかどうかは不明。もしかしたら博物館としてオープンしてから持ち込まれたのかもしれない。
フランツ・フェルディナント大公に関する展示
1914年6月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領であったサラエボに2発の銃声が響いた。サラエボ事件である。この事件によってフランツ・フェルディナント大公と公妃ゾフィーが暗殺されてしまうのであるが、この一件は世界を第一次世界大戦へと突き動かした。この博物館には、サラエボ事件当時にフランツ・フェルディナント大公が着用していた軍服と、その傍らに停めてあった自動車が展示されているのだ。
暗殺事件直前のフランツ・フェルディナント大公と公妃ゾフィー。歴史の教科書には必ず登場する有名な一葉。
サラエボ事件当時、フランツ・フェルディナント大公夫妻が乗っていた自動車。大公夫妻はこの自動車の後部座席で凶弾に倒れた。写真では見づらいが、右側の後輪に縦断の貫通した跡が残る。
暗殺犯ガヴリロ・プリンツィプが暗殺に使用した拳銃。プリンツィプはボスニア出身のセルビア人の民族主義者で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したオーストリア=ハンガリー帝国を快く思っておらず、青年セルビアという活動組織に参加していた。
フランツ・フェルディナント大公の肖像と、大公が暗殺時に着用していた衣装。
教科書に乗っているような白黒写真ではわからないことも、博物館で現物を見ればその色合いがわかる。大公は鮮やかな水色の上着に、黒に赤のラインが入ったズボンを軍服様式で着ていた。プリンツィプの放った凶弾は大公の首に命中したが、その血痕が上着の胸の部分に残っていて、大変生々しい。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に関する展示
フランツ・ヨーゼフ1世は、1848年12月に即位してから1916年11月に崩御するまで、68年間に渡りオーストリア帝国の君主として治めた。その治世においては1848年の革命、イタリア支配権の喪失、普墺戦争の敗北(とそれに続くプロイセン独立)、メキシコ革命による弟マクシミリアンの処刑、帝国領内の民族問題、第一次世界大戦などの数々の国難にあたり、困難な時代の舵取りを全うした名君として記憶され、オーストリア国内のみならずハンガリーなどの旧帝国領においても絶大な人気を誇っている。
フランツ・ヨーゼフ1世の胸像。王権神授説を信奉するような保守的な専制君主であったが、多民族国家であるオーストリアを民族融和のもとにまとめ上げ、ドイツ帝国の成立後は体制維持のためハンガリーと妥協するなど、現実的な対応も見られた。
フランツ・ヨーゼフ1世が帯びていたサーベル。「生々しさ」が伝わってくるこういう展示は、僕にとってポイント高い。
フランツ・ヨーゼフ1世が着用した軍服。
乗馬する老皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。この乗馬像は金属で作られている。
世界大戦時のオーストリアに関する展示
オーストリアは、第一次世界大戦をオーストリア=ハンガリー帝国として参戦(というか発端はオーストリア=ハンガリー帝国のセルビアに対する最後通牒である)、同盟国側に立ったが敗北し、帝国解体の憂き目に遭った。
その後ナチス・ドイツによるオーストリア併合により、ドイツの一員として第二次世界大戦を戦い、やはり敗北した。この時は「オーストリア」という国家自体、地球上に存在しなかった。ウィーン軍事史博物館には、この時代のオーストリアにおけるナチス・ドイツ支配の名残も展示されている。
Heil Hitler!(ヒトラー万歳!)と、ハーケンクロイツ(鉤十字)が刺繍されたクッション。
第二次世界大戦期において使用された軍服。
ナチス・ドイツ時代の十字勲章。
ドイツ軍歩兵の迫撃砲。
第一次世界大戦時に、偵察機や連絡機として使われたドイツ空軍の航空機。複葉機であることが時代を感じさせるが、主翼にはドイツ軍を表す鉄十字が描かれている。
ダイムラー製の航空機用液冷V型12気筒レシプロエンジン。おそらく、ドイツ空軍の主力であったメッサーシュミットBf109戦闘機に使用されたもの。
「ドイツ国」とハーケンクロイツが描かれた地図。オーストリアの部分は白いため、オーストリア併合前のもの。右上のドイツ領は東プロイセンで、第一次世界大戦後にポーランドが独立したため、飛び地となってしまった。ドイツと東プロイセンを分断したポーランド領は「ポーランド回廊」と呼ばれ、この部分の奪回がナチス・ドイツの戦争目的の1つとなった。
ドイツ空軍の小型の偵察機。
ナチス・ドイツの軍服。
こちらはナチス・ドイツの親衛隊(SS)の軍服。スリムなシルエットとネイビー基調の均整の取れたデザインは、現在でも人気が高いという。あくまでもデザイン的に。彼らがやったことは別にして。
ドイツ軍の
潜水艦「Uボート(U-20)」の残骸。
屋外には、アメリカ軍のM4シャーマン中戦車や、ドイツ軍のティーガー戦車、ソ連軍のT-34戦車などが展示されている。
ところで、僕と同じタイミングで入館した壮年の男性がいた。背丈は僕より少し高いくらいだから、オーストリアの男性としては小柄な方だろう。彼はステッキを持ってシルクハットを着用し、カイゼル髭を生やしていた。カイゼル髭を見たのは初めてで、僕は少々感動した。おそらく年齢は60くらいと見えたが、背筋は伸びており、仕立ての良さそうなスーツがとても似合っていた。顔つきには優しさがあったが、その目には鋭さを感じた。彼は貴族か、貴族の血を受け継いだ名門の出だったに違いない。彼はずっと、フランツ・フェルディナント大公の肖像やサーベルを見ていたのだった。
近代から現代に至るまでの多くの武器や軍事資料が展示されているウィーン軍事史博物館は、シェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿、あるいはオペラ座などに比べて明らかにマイナーであるが、この手の収蔵品が趣味であれば是非行くべきだ。
軍事と歴史は不可分である。軍事は歴史を語るのだ。教科書や本や写真で見るフランツ・フェルディナント大公夫妻の白黒写真よりも、大公の血に染まった軍服や銃弾で穴が空いた自動車のほうが、その事実をより印象深く語ってくれる。この博物館は、歴史が好きな人、軍事が好きな人、戦車が好きな人、ハプスブルク家が好きな人、このような人たちの好奇心を満たしてくれるだろう。