非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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シンガポールで太平洋戦争の戦跡巡りしようぜ

現在はアジア随一の経済成長率を誇り、先進的なIT企業やハイテク企業が集積するシンガポールシンガポールと日本は、現在こそ経済的にも政治的も協力体制にある。

しかし両国が歩んできた負の歴史という側面を、忘却の彼方へ置き去るわけにはいかない。

日本はかつて、このシンガポールに進攻し、支配下においたことがある。それは太平洋戦争の緒戦に進行されたマレー作戦によるものであり、当時イギリスの支配下にあってマラヤと称されていたマレー半島を南進、シンガポールを含む半島全域を戦禍に巻き込みつつ、イギリス軍を打ち破ったのである。

1942年2月15日、イギリス軍は降伏し、シンガポールは正式に占領され日本の支配下となった。

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日本側から見れば緒戦期の連戦連勝の時期であり、栄光ある旧日本軍の勝利を飾る一幕である。

その栄光の裏には、数多くのシンガポール人(特に中国系市民への被害は、その後の占領期においての現地政府からの迫害も含め相当なものだった)、マレー人、イギリス人、そして日本人の犠牲があったことを、僕たちは見逃すわけにいかないし、忘れるわけにもいかない。

シンガポールに残る戦跡を巡る

ところで、戦跡というのはいくつかに分けられる。1つはかつて戦場であった場所がほぼそのままの状態で残されているもの。フォート・カンニング公園にある戦争博物館がそれである。

2つは、博物館などに収蔵されているもの。シンガポール国立博物館がそれである。

3つ目は、慰霊碑や記念碑などによって記録が残されているもの。戦争記念公園や日本人墓地公園などがそれである。

シンガポールの戦跡というのはそんなに多くはないので、半日もあれば、少々駆け足にはなるが見て回ることができるだろう。

フォート・カンニング公園に残るイギリス軍要塞跡

フォート・カンニング公園は、ダウンタウンの近く、シンガポール国立博物館の裏手に位置する小高い丘である。かつてはシンガポールを防衛するイギリス軍の地下陣地が設置されていた。

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近隣に位置する高級ホテル「ホテル・フォート・カンニング」。かつてはイギリス軍の司令部がおかれていたが、日本のシンガポール占領後は日本軍に接収され、やはり軍司令部として使用された。

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アーサー・パーシバル中将率いるイギリスのシンガポール防衛軍は、この地下に洞窟陣地を設営し、そこに司令部をおいて進攻する日本軍に抵抗した。

現在はバトルボックス(Battle Box)と呼ばれ、戦争博物館として公開されている。ただし、内部に入るにはツアーに参加しなければならない。

ツアーは1日5回催行で、出発時間が決まっているため、定員になる前に受付の窓口で事前に申し込んでおく必要がある。

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周辺と比べて小高い丘となっていることから、かつては要塞と見張り台を兼ねた陣地が構築されていた。フォート・カンニング公園に残るこの門は、かつての要塞の名残である。

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9インチキャノン砲が設置され、侵略者に睨みを効かせている。しかしながら説明書きによると、この砲自体は儀礼用にしか発砲したことがないらしい。

シンガポール国立博物館の収蔵物

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国家の歴史を知るなら、その国の博物館に行ってみるのが一番だ。かつて戦場になり、また占領下におかれただけあって、シンガポール国立博物館の戦争関連の展示は充実している。

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三八式歩兵銃と銃剣、そして「勝って兜の緒を締めよ」と謳う宣伝ポスター。こういう展示は反戦的ではないためか、意外と日本国内では見られないものだ。

過去を反省するならば、過去の僕たち日本人の文化や思考を示したこのような表現物は、むしろ積極的に展示されるべきだろう。僕たちは過去を反省するといいながら、反戦平和ばかりを盲目的に唱えるだけで、その過去に目を背けたり、あるいはなかったことにしていないだろうか。

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九五式軽戦車(チハ)の精巧なレプリカ。マレー半島進攻作戦の主力となり、シンガポールの戦いにも投入された。

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日本軍パイロットの飛行帽。

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日本軍の自転車部隊である「銀輪部隊」が使用した自転車。自転車の構造は現代と全く変わらない。

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日本陸軍の軍服、鉄兜、そして水筒。

戦争記念公園

戦争記念公園は、マーライオン公園などのランドマークからもほど近いところにある。

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日本占領時期死難人民記念碑。1942~1945と刻まれており、マレー語と中国語で書かれている。戦争記念公園の中心部から空に伸びる65mもの4本の白柱は、太平洋戦争時の日本による占領下で命を落とした中国人、マレー人、インド人、そしてユーラシアン(イギリス人)を追悼する墓標であり、その地下には多くの遺骨が納められている。

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戦争記念公園からスタンフォード・ロードを挟んで反対側にあるエスプラネード公園には、国家や民族のために命を落とした全ての人々のための慰霊碑がある。

巨大な慰霊碑には「OUR GLORIOUS DEAD=我々の名誉なる死」と刻まれ、その土台部には中国語で「公為己捨」、英語で「THEY DIED THAT WE MIGHT LIVE=彼らは死んだ、我々が生きていくために」と書かれた金属製のプレートがある。それらはマレー語やヒンディー語でも書かれている。

祖国を守るために戦って死んだ人々を偲び、感謝を伝え残すのは各国共通だ。日本にも陸軍や海軍墓地があったり、あるいは各地の護国神社や、靖国神社などで英霊が祀られている。

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日本人墓地公園

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シンガポール日本人墓地公園には、太平洋戦争中、シンガポールマレー半島での一連の戦いで命を落とした日本軍の兵士の慰霊碑がある。

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太平洋戦争戦没者慰霊碑。東南アジアの要衝でもあったシンガポールでは、激しい戦闘が繰り広げられた。

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従軍南洋会員戦死者の墓。東南アジア方面の軍は南洋軍と呼ばれていたが、その名の通り、太平洋戦争において南洋軍に属し戦死された日本軍人の墓碑である。

ところで、僕たちの祖先が為したことに対して、それから70年も未来を生きている僕たちが何かしら責任を感じる必要はないと僕は思っている。僕たち自身が手を下していないものに対して責任はない。

国家単位で日本は各国に経済援助やら賠償金支払いやら履行し、あるいは平和条約や友好宣言などしているわけで、僕たちの国はするべき事を為しているのだ。

僕は、僕の国の歴史として、この地で何が起こり、誰が何をしたのか、過去の事実を知っておきたいのだ。日本国内で歴史を学ぶのはいくらでもできるが、たとえ居心地が悪くとも、現地視点での歴史というのを学ぶことで、さらに理解度が増すと思っている

歴史というのは相対的な評価でしか語られない。今記録に残っている世界の歴史は戦争の歴史の集合体であり、そして戦争の記録の全ては勝った側の視点から語られ、負けた側の歴史的主張は抑圧されるからである。

戦跡巡りは大体負の歴史を掘り返すものだが、そういう負の歴史から目をそらしてはいけない。事実を受け止め受け入れることが、僕たちが未来へと歩む原動力となるだろう。

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