日本の将来なんかどうでもいいけど安楽死制度だけは整備しようぜ
自分の行く末がわかってしまった。将来への希望を失った
僕が20代の頃は、もう少し自分の人生を社会に貢献するために使おうと考えていた。もちろんその時から自分は結婚相手を得ることなく末代であることはわかっていた。それでも後に続く世代のために、少しでも「良い日本」を残そうと考えていた。
しかし僕は今、心変わりをしている。結婚してみたかったし、子供はまぁあまり望んでいなかったが、いるに越したことはないとも思っていた。しかしそれは無理であることを、30代半ばにしていよいよ悟った。
そして僕はこのように考えた。一体僕が社会に貢献したところで、それによって利益を得るのは僕ではなく家庭持ちの勝ち組どもである。弱者男性にして恋愛敗者たるこの僕が、このような恋愛の勝ち組どもを利するために、何をどうして社会に貢献できるように働かなければならないだろうか。しかもこの勝ち組どもは、僕の献身など一顧だにしないに違いないのに。
少しばかりは勝ち組どもへの嫉妬もあるだろう。それよりも僕は、僕自身という存在が社会に継承されないという点を重視したのだ。
そもそも継承とは遺伝子的な概念であり、何か自分の生きてきた痕跡を世界に残そうという意思である。通常は子孫というかたちで残されていくが、僕のような恋愛弱者は子孫など持てない上に自分が末代なので、僕自身が消え去ってしまったならば、僕が存在していた事実など、誰にも残らないのだ。
僕こそが末代だ。末代まで呪われても生憎僕しか呪われることはない。太古の昔から連綿と受け継がれてきた遺伝情報の継承が、僕を最後に途絶えることには、少しのロマンを感じる。
まぁそれはともかく、若い頃の僕はおそらく、まだ僕の存在の痕跡を社会に残せると信じていたのだ。僕にはまだ不確定な未来があったからだ。しかし今の僕は、人生の着地点がおおよそ見えている。不確定なことはほぼなくなった。このまま平穏無事に人生をやり過ごせば、平穏無事に人生を終えることができる。この安心感は何物にも代えがたい。
これが老いなのだろう。僕は老いたのだ。
不思議なものだ。僕の影響が残らないことが確定した世界に対して、僕は一切の関心がなくなってしまった。それと同時に、日本の将来についての関心が一気に薄れてしまった。
それでもたった一つだけ。未来の社会のために安楽死制度を導入したい
僕は今、日本の将来などどうでもいい。破滅的な未来が訪れることは確定しているが、僕がどれだけ何かを頑張ったところで、それに抵抗できるものではない。そんな中で僕が望むのは、僕が死ぬその時までに日本が持つことだ。それまで僕は粛々と生き、死ぬべきときに心置きなく死ぬことにしよう。
その文脈において、僕は1つだけ、今からでもこの社会をより良くするのに貢献できるアイデアがある。それは安楽死制度の導入だ。僕は自分の名誉ある安らかな死のために、そして僕より後の世代の人々が、絶望の中でも尊厳ある死を選択できるように。あるいは、いざとなれば死ねばいいと割り切る人が、安心して困難な事業に挑戦できるように。安楽死制度は、僕の残りの人生を賭けるにふさわしいテーマだと思っている。
なぜ安楽死制度に僕はこだわるのか。それは将来の日本において、老人の殺処分が社会的なニーズになることを、この時点で予見しているからだ。
これから日本の将来はどうなるのか。僕たちが65歳を迎える2050年頃を想定してみよう。
2022年、2023年の出生数は60万人台とも言われています。今の高3の半分くらいになってしまうのです。20年後には大学も高校も下半分は生き残れないのでは。https://t.co/J5gTEH1ibq
— 山内太地 (@yamauchitaiji) November 22, 2021
この頃になると、少子化が進行し、あっという間に年間出生数は60万人台、あるいはそれ以下まで減少するだろう。少子化と高齢化が同時に進行し、いずれ社会保障費が財政負担の重しとなり、それを賄う国債を発行しても引き受け手がなくなってくるだろう。社会保障は何一つ新たな付加価値を生み出さず、ただただ老人どもの、そして将来の僕たちの排泄物処理に消えていくだけだからだ。
社会保障費の財政支出は、社会保険料の税率上昇で賄われる。いよいよ少数派になった労働人口から、増えていく一方の高齢者の社会保障をまかなえるだけの費用を徴収するには、相当の保険料上昇が見込まれる。当然現役世代の可処分所得は低下し、次世代の「生産」どころか、自分の生活防衛のみが目的となっていく。個人消費は減退し、不況が訪れるだろう。しかもそれは好転することはない。
今こそ戦争の反省を思い出せ
そんな中でたった1つ、僕が社会のためにできることがあるとすれば、安楽死制度の整備に賛成することだろう。僕自身はエンジニアではないから手元で何かできることがあるわけではないが、将来的には、独身老人の殺処分が、社会の正当な要求として立ち現れる時が来るだろう。
社会保障費を食い尽くすだけの「誰の親でもない老人」を生かしておく道理が、どこにあるというのだろう?そのようにして、僕たちは排斥される側となるだろう。
それらは必要以上に長生きしたために起こった歪みの是正である。人間は80歳以降はとっくに健康寿命を終えており、医療費を貪らないと生きていけないゾンビとなる。生者を貪る生きる死者。それが高齢者である。
つまり、健康寿命以上に生きる必要などないのだ。自分の足で歩けなくなったり、自分で排泄や食事をこなせなくなったならば、それは動物としての耐用年数が過ぎたことを意味するのであり、その状態の人間を生かすために医療費や社会保障費が使われるのだとしたら、これほど非合理的かつ無駄な出費はない。
金を使うには見返りが必要だが、死にかけの老人に金を使っても、そいつが1年か2年寿命が伸びること以外の見返りはない。同じだけの金を、エネルギー問題の解決策として核融合発電の実用化研究にでも使ったほうが、はるかに生産的だ。
僕は上のエントリで、戦争の本当の反省とは、社会制度の維持のために将来を担う若者を犠牲に追いやったことだと説明した。今の社会制度は、老人どもが最後の5年や10年を生き延びさせるために、高額な社会保険料を現役世代に負担させている。こうして現役世代は、すでに少子化や非婚化が進み、社会の持続性すら危機的な状況にある。
高齢者医療費を削減してその分を子育て支援に回し、高齢者は然るべき寿命をもって現世から退場してもらうって方向に行かないと、日本死にますよ。それを要求するのは独身老人予備軍の僕じゃなくて子育て世代です。諸君が高齢者を抹殺する決断をしないと、諸君の大切な子供たちが死ぬほど苦労します。
— INTJ型の非モテ (@himote_sattva) December 6, 2021
誰もこれを止めなかった。いいやいいやで安易に放置してきた。決断を先送りにしてきた。その愚かさを今、国民全てが償うべきだ。具体的には、安楽死制度の導入によって。若者世代はその決断にかかる精神的負担のコストを負担し、老人世代は文字通りその生命をその制度に捧げるべきだ。
しかしそれを決断するのは独身老人予備軍の僕ではない。今まさに子育て中の僕以外の全ての同年代の連中だ。諸君が自分の愛すべき子供に、艱難辛苦の令和時代後半を過ごさせたくないと思うなら、僕と一緒に安楽死の世話になろう。それができなければ、諸君は自分の子供よりも自分自身を大事に思う、ただの自己中クソ野郎だ。
子供を持たない僕のほうが、子供を持つ連中よりも遥かに子供たちの将来を的確かつ真剣に考えているのは、全く不思議なことだ。全ての人々は、僕の利発さと自己犠牲の精神を見習うべきだ。
どうか僕たちの子供世代が、僕たち将来の独身老人を、冷徹に処分するだけの合理性と、それを執行できる決断力を持つように育ってほしい。そんな中で、多少なりとも死の際に人間的尊厳を保てるだけの安楽死システムと社会制度の整備を、僕は切に望む。それができなければ致し方あるまい。潔く野垂れ死ぬ覚悟を決めよう。
安楽死制度の導入により、自分たちより上の年代を殺処分するという意思決定をするのは、社会的にも道徳的にも極めて困難なことだ。けれど誰かがやらないといけない。それは社会の持続性への最上級の貢献なので、やれば英雄になれる。もし僕が安楽死処分の対象になるのなら、喜んで賛成しよう。
— INTJ型の非モテ (@himote_sattva) December 3, 2021
そうだ。いずれ僕たちは、自分より上の世代を自らの手で殺すことになる。その決断をしなければいけない。現実と向き合え。決断から逃げるな。その血塗られた手で生きていくがいい。それは諸君が英雄的になることだ。死ぬべき者と死にたき者を死なせて、社会の持続性を勝ち取るという偉業を成し遂げた証だ。諸君はそのようにして、その手で将来世代の未来を切り開くのだ。僕たち独身老人は喜んでその犠牲となるだろう。
せめて痛みと苦しみのない死を、僕は要求する。僕が死んだ後の日本国などどうでもいい。だがたった一つだけ、日本国が僕にとって価値ある瞬間があるとしたら、僕自身が名誉と尊厳に溢れる安楽死を賜ったその時のことだろう。