非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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モテない下戸だけど酒が飲めないのは損だと思う件

コロナ禍で、飲酒の習慣が消え去ってしまうことは、少なくとも酒を一切飲めない僕にとってはいいことだ。今でこそ周囲が「酒が飲めない僕」を理解してくれているので、僕がアルコールを強要されることは一切ないので気楽ではある。

しかしながら不思議にも、やはり酒は飲めないことは、人生を損しているように思うのだ。このエントリは、酒が飲めないコミュ障中年男性が、酒飲みについて考察したものである。

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僕はお酒がマジで飲めない

まずは少し僕の話をしよう。

僕が初めて酒を飲んだのは、19歳の時である。その時は友人を交えてしゃぶしゃぶを囲んでいて、少々大人アピールをしたくなる年頃でもあったから、何も考えずに、目の前の日本酒のお猪口を一杯、クイっと飲ったのだった。そしてその30分後には、食べたものをトイレで全て戻していた。

その次は、大学に入って最初の新入生歓迎パーティである。今から振り返るとどうかと思うのだが、なぜかその場にはビールや酎ハイなどの酒が提供されていた。僕たちはだいたい18歳か19歳なのにも関わらず、だ。まぁその点は置いておくが、僕は酎ハイの350ml缶を飲み、帰りのバスで吐き気に耐えられなくなり、途中で降りて、道路脇に胃の中に入れた全てのものを吐き出した。

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そして20歳になると、僕たちはアルコールのパッチテストを受けさせられた。僕はこれまでの経験から、僕は自身が酒に弱い体質であることを既に理解していたし、訓練すれば飲めるようになるという微かな希望ももっていた。

パッチテストは、アルコールを含んだ脱脂綿を10分ほど皮膚に貼り付けて様子を見るというものだ。僕は5分も経たないうちに、脱脂綿を貼り付けた箇所の痒みと、全身的な不快感に襲われた。その場にいた医者にこのことを伝えると、僕のパッチテストはその場で終了し、「君は絶対に酒を飲んではいけない」と告げられたのである。

僕の体質は、アルコールを肝臓で正常に分解できない。なのでアルコールは毒物と変わらず、代謝が正常に行われないため排出反応が起き、全身の嫌悪感や吐き気を発生するというのだ。そういうわけで僕がお酒を飲まないのは、いわばドクターストップによるものである。

酒が飲めないことを理解できない社会人

僕は酒が飲めない体質であることを周囲の人間に話した上で、概ね理解を得られた。僕に無理して飲ませようとする者は友人知人の中にはいなくなったが、社会人ともなるとそうはいかなかった。今でこそアルハラなんて言葉もあって、上席からの酒の強要は憚られるが、僕が就職した10年ほど前は、まだまだそんな意識は薄かった。

僕は当時の部長や役員どもに酒の席に連れて行かれて、役員どもの水割を作らされたり、ビールを注がさせられたり、あるいは「少しくらいならいける」「酒は練習して強くなるものだ」などと言われながら、数cmしか進まない僕のビールを飲むように強要されたのだ。

あの時間はマジで苦痛だった。料理は楽しめないし、偉い人たちのありがたい思い出話や説教に相槌を打ったり、あるいはそれを部長どもが持ち上げたり褒めそやしたりしている様を眺めて、権威を振りかざす人間と、それに心にもなく従う家畜のような人間の醜さを実感した。この時間こそ無駄そのものだった。当時は若手だったから給料も安かったのに、僕の支払いはゼロではなかったことも徒労感を増幅させた。

この徒労感は、次のように説明される。「練習すれば飲めるようになる」という酒飲みの論理はゴミカスなのだが、それ以上にゴミカスなのは、酒飲みどもが大声で騒いでクダを巻いて自分にも他人にもウザ絡みをするのに対して、当の酒飲みどもがそのことを翌日全く覚えていないことだ。僕自身はシラフだし、そういうことをされる側だったのでよく覚えていて「面倒くせぇやつだ」と引いているのだが、当の本人は「楽しかった」記憶しか残っていない。

アルコールで記憶が壊れているのだ。この記憶の非対称性も、僕を疲弊させる原因の1つである。

これを防止するには、同じ記憶を持つしかない。僕は酒を飲んで快感を得ることはできないが、代わりに不快感を共通の記憶として持たせることができる。例えば僕が無理矢理に酒を飲んでテーブルの上に嘔吐するとか、あるいは少々暴れてテーブルの上の料理をひっくり返したり、または暴言を吐いてその場を盛り下げることも一案である。

僕を酒席に呼ぶと何かよくないことが起こるかもしれない可能性は、誘う側にとっては抑止力になるかもしれない。酒飲みは酒飲み同士で勝手にやっていればよろしい。僕がそれに巻き込まれないようになるのは、僕にとっても歓迎するべきことではある。

まぁ現実的には、営業職だから、そういう席もなくもないだろう。僕は転職のたびに、面接で「酒は飲めない。必要であれば致し方なく行くけど積極的には行かない」と伝えている。まぁそれでも採用されているし、特にコロナ禍の今となっては、それは短所とはならないのかもしれない。

実際とのころ、仮に顧客の担当者が酒を飲める場合は、酒の飲めない僕のような担当者などつまらぬだろう。けれども僕にはどうしようもない。僕はそういう意味ではハズレの担当者だ。今では酒の飲める上司とサービス責任者が、そういう担当者の相手をうまくやってくれているので、僕としてはとても助かっている。

「努力したら飲めるようになった」やつが一番厄介だ

僕の偏見によれば、おそらくこの世に存在する全ての酒飲みは、この世界に酒が飲めない人間が存在していることを理解していない。僕たちが酒を飲まず嫌いしているとでも思ったか。あるいは酒を飲もうと涙ぐましい努力をしなかったとでも思うのか。

僕たち酒が飲めない人間は、その場で酒を飲むことが正解であり、それを求める周囲の期待に応えて飲みたいのだ。それなのに飲めないことで、周囲の期待を裏切る心苦しさを抱えていることを、僕は表明したい。

厄介なのは、「練習したら飲めるようになった」という人間も一定数存在することだ。この連中は、酒を最初から飲める連中よりもより強く、「自分にできたのだから君にもできる」と酒を飲むことを押し付けてくるのだ。何しろ「飲めるようになった」のだからタチが悪い。おそらく僕たちの真の敵はこの連中かもしれない。

はっきり言おう。お前が飲めた酒を僕が飲めるわけではない。

旅行先でも酒が飲めないと楽しみが減る

僕はたびたび旅行に出かけるが、旅行先で何か現地の名物でも食べにいこうと探すと、多くの場合は「美味しい地酒」や「マスター厳選の、料理に合うワイン」だとかを売り文句にする地元の名店がヒットする。大人旅の場合は、おそらく酒を飲むことが前提となっているようだ。僕はその前提を持ち合わせていないので、僕のような人間は客として相応しくないのではないかと思ってしまう。

ホテルのバーとかもよくわからない。美しい夜景が見える上層階のバーというのは、シティホテルの訴求ポイントの1つだが、そこへ僕がペリエでも飲りながら夜景を眺めたとて、10分もすれば飽きてしまうだろう。酔いもしないくせに、なぜ僕はコンビニで売っているそれよりも3倍もの料金を払って、ただの炭酸水を飲んでいるのか。それは合理性に欠ける。だからそういう場所には行ったことがない。

で、そういう場所に行ったことがないというのは、人生経験の薄さというかたちで中年以降に効いてきてしまう。酒の旨さを分からない、あるいは雰囲気の良し悪しがわからない……このあたりは次の段で語るが、恋愛する上でもデメリットになりうる。

恋愛でも酒が飲めないって苦労するよな

上述のホテルのバーの話にも関連するのだが、恋愛の場でも酒は有効だと思われる。しかし僕は酒が飲めないので、いわゆる「いい雰囲気の店」にいくことができない。もちろん僕と一緒にそういう店に行ってくれるような奇特な女が周囲にいないのはその通りだ。しかし論点はそうではなくて、男女の親交に必要な「酒によってリミッタを少し外し、コミュニケーションを促進し、双方の共通理解を図る」という共同作業に僕の側から協力できないこと。これが最も重要な問題なのだ。

さまざまなラブソングにあるとおり、酒は男と女の関係に、何らかの波紋を及ぼす。可愛らしい彼女が妖艶に見えたり、チャラい男がダンディになるかもしれない。酒を通じて男女双方からの魅力が増す効果を期待できるかもしれなかったのに、僕はそんな機会もアルコールの分解能力もないものだから、そういう経験を、人生においてすることはないのだ。

僕はダンディズムというのに憧れている。酸いも甘いも経験し、渋みと深みを増した男が、ウィスキーをロックで飲るのはとても様になっている。それがペリエでは台無しである。僕はダンディーにはなれない。それが悲しい。

苦しいときの酒頼み

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生きていくにも酒は必要だ。何か苦しいことがあったときに、逃避できるのは重要だ。

僕はいくつか古典を読んだことがあるが、14世紀アラビアの詩集「ルバイヤート(四行詩集)」には、いくつも「酒だけが悲しみを癒してくれる」「酒を飲もう、瓶に酒を注げ」という文句が登場する。まるで酒が飲めない人間がその世界には存在していないかのようだ。

僕がこの世界で最も不幸な人間だとは思わないが、酒に酔って逃げてしまいたくなることは多々ある。けれども酒を飲んでラリる前に、酒自体によって体調不良になってしまう。僕はどんなにストレスが溜まっても、酒を飲もうと欲しない。僕の体自身が制御をかけているからだ。

僕はタバコもギャンブルもやらないから、ストレスを誤魔化す手段を探すのに少々苦労する。この場合、僕は酒飲みどもを羨ましく思う。酒飲みどもは酒を飲んでストレスを忘れることができるが、僕はその手段を取れないからだ。もし僕に酒が飲めて、酒を飲むことでストレスが解消できるなら、アルコール中毒になってしまうのもやぶさかではないというのに。あの酒飲みどもは、自身がアルコール中毒にならないかどうかを気にしている。

それにしても、ルバイヤートの世界に限らないけれど、酒が飲めない人間は、どのように生きてきたのだろうか。人類進化の神秘だ。おそらく古代から酒は飲まれてきたし、飲酒が慣習化した時代を連綿と生き続けているにもかかわらず、なぜ少数派が、酒を飲めない体質の持ち主として生まれてくるのだろう。

アルコール飲めない遺伝子の存在価値とは?

飲酒の可否、つまりアルコール分解能力は、遺伝子によって決まるという。少し考えてみると、まぁこれが遺伝子の多様性であるというなら、それはそうだろう。しかし、その多様性が役に立ちそうな状況はまったく思いつかない。だとすればこの遺伝子形質は、何のために存在しているのか?

例えばアスペルガー症候群ASD)は、社会性に乏しい分、聴覚がより優れている。優れた聴覚は、原始時代、当時の人類が群れ社会において迫り来る危険を察知するのに、大変役に立っただろう。現代はその機能が社会的に要求されていないだけで、その遺伝子が与えた能力は、きちんと意味を持っている。しかしアルコールを分解できない遺伝子は、どこでどのように役に立ったというのか?

僕にはその形質の存在価値がわからない。しかも、現在の人間社会がある程度酒を飲むことを前提として運営されている分、この遺伝子の持ち主は損していると考えざるを得ない。

そして僕は今、その説明が欲しい。僕の遺伝子に多少の意味が、存在価値があるのだと思いたい。特にアルコール分解不能の遺伝子の存在理由を。そして僕は、自分の存在に納得したい。誰かこの要求に応えるものはないだろうか?

酒飲みどもは、酒が飲める体に生まれてきたことに感謝してもいいくらいだ。諸君は恵まれている。僕は諸君が羨ましく、妬ましい。なぜ諸君にできることが、僕にできないのか。それは努力によって解決できない。残念だし、腹立たしいし、憎い。そんなことを考えながら、僕は今日もノンアルコールビールで間に合わせる。

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