非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【感情豊かで共感性が高いコミュ障】毒親育ちのASD【アスペルガー】

僕は最近思っているのだが、僕はASD自閉症スペクトラム)なのかもしれない。何しろ僕は他人の感情に共感することができない。人は人。自分は自分。人の喜怒哀楽に一切影響されることなく、自分自身の感情にしか向き合うことができない。

まぁそれでは社会適応度が下がって生きづらくなってくるので、ここ最近は他者の感情をある程度推測し、その推測値に対して最適な態度を取ることで、健常者に擬態するという処世術を身に着けつつある。

テレビや小説を楽しめない

僕は子供の頃、テレビっ子だった。ニュースやらバラエティやらアニメやらスポーツやら、いろいろな種類の番組を見ていた記憶がある。中でも「世界まる見え」や「特命リサーチ200X」「たけしの万物創世紀」のような、自分の知らない世界のことを知れる番組は、僕の知的好奇心をとても満足させた。

僕が小学校高学年くらいのときである。僕は片親毒親の機能不全家庭で育っていて、母親に虐待されていた時期だった。何か母親の癇に障ることがあったのだと思われるが、僕は理由はわからぬまま殴られ続け、悪口雑言を投げつけられて泣いていた。

そんな中テレビからは、バラエティ番組の笑い声が流れてきていた。僕は周囲の大人に助けてほしかった。そして次の瞬間、テレビの向こうの連中と僕個人の存在は隔てられていて、お互いがお互いに対して何も関係ないのだと、小学生の僕は理解した。

僕はこんなにも辛い思いをしているのに、テレビの向こうの連中は何を笑っているのだろう。このクソどもが。と、こんな具合で僕はテレビにやたらと憎しみを感じたのを覚えている。

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母親に感情表現を否定された話

母親は、高額な出演料をもらって楽しんでいるさまを見て楽しむとはなんと情けないことか!と僕を罵った。こうして僕はテレビを見なくなった。

今から思えば、定型発達者や健全な家庭であれば、その番組の世界は作りものかもしれないけれど、それはそれとしてコンテンツを素直に楽しむという受容の方法を身につけられたはずだった。しかし僕は、高額のギャラをもらいつつ自分とは関係ない人間の行動を見て楽しむこと自体を否定された。僕の家庭では、テレビを見て楽しむことは忌むべきことであったのだ。

まぁそんな感じで育った僕は、芸能人やお笑い芸人、俳優の名前を知ることなく人生を歩んできた。周囲の人は、僕が単に芸能界に興味のない人だと思っているだろうが、僕は今でも、テレビ(特にバラエティ番組)に没頭することに恐怖を覚えるし、あるいはCMとかが挟まったらすぐにテレビを消す。CMのあとまで待っていられない。いいから結果を早く教えろ、そうでないのならCM明けまでの僕の数分の時間を奪う点において、この番組は無価値であると考えてしまう。

またお笑い芸人が出ているバラエティなんかは、僕はやたらと笑いの沸点が高い。どうしてもテレビの向こうの世界は僕の関係ない世界であるという認知があり、それは確かに面白いのだけれど、それを笑うことにやはり抵抗がある。

笑うことで殴られたトラウマがあるように思える。だからたまに友人と「笑ってはいけない」を見たりしても、友人はゲラゲラ笑っているところで、僕は真顔だったりする。面白いとは思っている。SEが入るとはいえ、ここが笑いどころであると番組が誘導していることも理解している。けれどもそれを表情に出すことに恐怖がある

スポーツの試合くらいしか見る番組がない

僕が最初から最後まで見るのは、今ではスポーツの試合の中継くらいだ。あれはまぁ実況とか解説がいろいろ感情を煽ってくることもあるが、試合の流れやプレーの分析、選手やチームの戦術や戦略などを分析していれば、別に対して気にはならない。

そして、別に贔屓のチームがないわけでもないのだが、どちらが勝ってどちらが負けたところで僕にとっては毛ほどの影響もないわけで、その距離感がむしろ心地よかったりもする。

映画やドラマなんて所詮作りものだ

僕は本格的にテレビを見なくなったのは、大学生くらいのときからだった。僕は学費を稼ぐために、暇があればアルバイトをしていたから、テレビなど見ている暇がなかったという事情があるが、その頃から僕は、特に映画やドラマについて、創作は創作として壁を作ってしまうようであることが分かっていた。僕はそれらの登場人物への共感とか感情移入ができないのだ。

少し話は逸れるが、例えば恋愛ドラマみたいなものを見ていると、この登場人物が美人とかイケメンとかの外見アドバンテージがなければこのストーリーは成立しない、なんて考える。「24」のようなサスペンスものであれば、「私は大丈夫、愛しているわ」のセリフのような家族愛みたいなものを見せつけられると、犯人に見つかる前に監禁場所の手がかりを早く言えよタコがって思う。

ファンタジーであれば、人間同士の関係性や舞台の世界観を理解しようとして、脳内で検証しているうちに、ストーリーが進んでしまってついていけない、なんてこともある。要するに僕の興味対象範囲に「人」がいなくて、それを構成する要素が合理的かどうかの検証が先にくるわけである。おそらくそれは本来の楽しみ方ではない。

感情に共感できないけど理解はできる

不思議なことに、実のところ僕は、感情を理解することはできているのだ。僕はその場面場面において、登場人物がどのような感情をもっているか、喜怒哀楽のどの状態にあるかを理解している。その根拠は僕の経験にあり、経験上この場合においてはこのような感情を持っているだろう、ということを推定している。

そしておそらくその推定の精度はそれなりに高い。それは僕が35年もコミュ障として生きてきて、様々な失敗を繰り返した結果によるものだ。そしてそれを僕は、自分ごととして捉えることがやはりできない。

感情豊かで共感性が高いコミュ障

コミュ障の特性なのか、またはASDの特性なのかはわからないが、僕は実は非常に感情豊かな人間である。そして同時に、恐ろしく共感性の高い人間でもある。だから僕の目の前の誰かが怒りを燃やしていれば、その怒りは僕は殺意のこもった憎しみまで増幅する。誰かが悲しんでいれば僕も希死念慮を催すほど悲しむことになる。

このように僕は、自称ASDなりに、僕自身が感情に非常に流されやすい性質をもっていることを理解している。僕には、怒りや悲しみに感情が流されれば、その解消のための行動において何をするかわからないという恐怖がある。あるいはそれを起因として、他者を心から憎み、あるいは死にたいほど悲しむことで精神を病むことを恐れている。

だから努めて自分の心が揺り動かされないように、怒りも悲しみも他人事のように取り扱う。共感はできないが、それでも理解を示すことはできる。

定型発達者に擬態して生きていく

僕はこれでもマシになったほうなのだ。定型発達者どもに擬態することに成功しているともいえる。僕は他人の感情を高精度に推定し、それに多少の共感を示すことで、社会性を備えた自分を他者に認知させることができる。このように感情が共感されていると周囲に思われるほうが、社会に対しては適応的である。僕はこの他者感情の推定能力を、自分の社会適応度をアピールする用途に活用したわけである。

それなのに喜びについては、僕にとって全く関係のない事柄であれば無関心になる。不思議なものだ。ちょうど今東京オリンピックをやっていて、日本の選手がメダルを獲得しているけど、どんなスポーツでも日本代表が勝ったら「やったぜ」とは思うものの、その次の瞬間にはその歓喜が冷めている。同時に負けた側の悔しさもテレビ越しに伝わってくるが、それもそれで次の瞬間にはその失望を忘れている。

けれどもそれでいいのだ。何か他人からコミュニケーションを求められたら、すごかった、残念だった、よくやった、感動したとでも適当に言っておけばよい。どうせあの定型発達者どもは、個人個人の認知の共有そのものが目的なのであって、実際に僕自身がどう思ったかについてはまるで関心を持っていない

だからそこで「まぁ負けちゃったけど別にオレに関係なくね?」みたいな返答をするのは、社会適応度が下がってしまうので不適切にして不正解である。「そうだな、まじすごかったわ/まじ残念だわ」とか言って相応にあしらってやれば良い。それもコミュ障ASDの1つの処世術だ。

僕たちのように(自称も含む)ASDやコミュ障の最も悪いところは、他人に対して、むき出しの感情同士のコミュニケーションができると期待しすぎであることだ。特に定型発達者には無理な要求だ。あの連中は、認知を共有することができても、悪意や失望を含めた負の感情をぶつけられることに慣れていない。そこは「空気を読み」合っているからだ。僕たちが最も不得手とするこういう欺瞞を、あの連中は平気でごまかすことができる。

他人とはそんな人間の集団であり、僕たちのそんな期待を込めるに値しないものだと、さっさと切り捨てるべきなのだ。あとは適当に必要最低限の共感ゲームをこなしているだけでよろしい。ルールは簡単だ。それっぽい共感を示せれば正解だ。このようなASDやコミュ障の処世術を身につけて、このしょうもない人生を少しでも楽に、安らかに、穏やかに、そして静かにやり過ごしていこう。

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