非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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長生きしたくないし働きたくない。安楽死制度を整備しようぜ

90歳まで働くとかいう地獄

人生の大半は仕事であるといわれる。あたかも仕事は人生の大前提であるかのようだ。仕事のために生きる人間というのは減った感はあるが、仕事そのものは未だに人生の主要価値としてみなされている。その点に誰もが疑問を抱いていないのだろうか?

まぁ30代、40代なら、新しく趣味をやりたいとか見知らぬ土地へ旅行に行きたいとかのバイタリティや積極性が残っていて、それを実現するために仕事をするのだという人もいたりするだろう。おそらく労働なんかよりも、よほどそちらの方が人生の本質というべきものだ。

しかし、僕個人の経験なのでどこまで一般化できるか不明だが、僕は既に30代半ばにして、ひどく体力が落ちていることを感じている。新しい土地へ旅行しようという積極性も失われつつあり、性欲はもともと強くはないがそれすらさらに薄まっている。

しからば50代はどうだろう。さらに体力は落ち思い通りに体を動かすこともままならないはずだ。この年代になると無病息災とはいかず、血圧が高いだの足腰が痛いだの、大なり小なり何かしらの疾患を抱えることになる。僕に言わせれば人体の耐用年数超過なのだが、そうなれば何も為せないただの初老の男でしかなくなる。

junny-policies.hatenablog.com

結婚などしていれば、父親になったりいずれ祖父になったりという役割を果たす使命を帯びるが、それすらままならない独身初老男性はどのように自分の人生を処すべきなのか?
長生きすることは喜ばしいことだと誰もが考えている。しかし、諸君は人口ピラミッドを見たことがあるだろうか。おそらくそれを見たならば、長生きすることの価値を疑う必要性を認識するだろう。

それなのに世間では、どうも70歳以降も働くことが一般的であるかのように思われている。先日とある書店で「90歳まで働く」という本が並んでいたことに戦慄したが、どうもこの日本という国では、定年たる65歳以上になっても働くことが前提のようである。

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それにしても、90歳か。僕が90歳まで生きるとも思えないが、一方でありえなくもない未来でもある。果たしてその時僕は、生きるに値する、あるいは生きることを望まれている人間でありえるだろうか。

改めて「働きたくない」自分を承認する

junny-policies.hatenablog.com

僕は働きたくない人間である。そんな僕がなぜ働くのか?生きるためである。生きるには生活環境や食糧を得るための金が必要であり、それは僕の労働力と引き換えにされるものである。

僕はこのように、労働力と賃金の交換関係の枠組みの中に生きているため、致し方なく働いているに過ぎない。まずこのことを、僕は読者諸君との共通理解をもちたい。

僕は仕事に疲れた。

いや、もう生きるのに疲れた。

僕はもう35歳になった。これから結婚することはない。自分の立ち位置もそこそこ見え始めてきた。もう人生にイベントはない。だいたい僕がこうして働いているのは、働きたかったりいい生活がしたかったり、ましてや成長とか社会貢献とかするためであるわけではなく、ただひたすらに生存すること自体にコストがかかるからである。生存していなければコストが掛からないのであるから、働く必要はないのだ。

僕はさらに衰えていくばかりである。会社での働きもままならない。

それでも90歳まで働くという地獄!90歳まで生きなければ、90歳まで働かなくてもいいではないかと僕は真面目に考えている。最近では高齢者でも雇用意欲が高いという。本当にそうだろうか。今現役世代として働いている大半の連中は、本心では労働などしたいと思っていないことを僕は知っている。それは満員電車に乗り込む社畜共の目を見れば明らかである。そんな彼らが高齢者になっても働きたいと考えているのは、どう考えても働きたい人が働いているのではなく、働かざるを得ないから働いているに過ぎない。

junny-policies.hatenablog.com

労働は楽しいかと問うのか?満員電車に揺られる社畜どもの表情を見るがいい。それはディズニーランドやユニバーサルスタジオ、あるいはスーツケースを抱えて空港へ向かう電車に乗る人の表情とはまるで違う。これから体験するであろう素晴らしいアミューズメントを楽しみにしている人の顔ではない。

もし転職サイトや求人メディアで言われているように、どれだけ仕事を楽しむだの何だのと宣ってみても、実際に仕事へ向かう人々の表情、目つき、雰囲気を見れば、そんなことはありえないということがすぐに分かる。仕事が人生の大半の時間を捧げるにふさわしい素晴らしきものであるなら、満員電車に揺られる彼らの目つきがこれほどまでに濁り澱み生気が失われているはずがない。

繰り返すが、そもそも僕は労働などしたくないのだ。しかして社会的な実情が、高齢者となった僕に引き続き労働を続けることを要求するだろう。果たして高齢者になった僕に労働需要はあるのだろうか?老害は会社では歓迎されないことを僕は知っているから、ブルーカラー的に清掃員とか警備員とかをやることになるのだろうか?

いや、そもそもそういった職業とて、すでに先達先輩がいるわけだから、そういう経験のない高齢の僕を雇用して育成するコストが見合うと会社が判断してくれるとも思えない。トラックドライバーとかも年齢的に無理だろう。だとすると僕が高齢になったとき、そもそも僕に仕事はあるのだろうか?

もし仮に仕事がなければ、僕はどうしたらいいのだろう?仕事がないならないなりに、生きていくのも詮無いのでさっさと死にたいものである。

長生きに対しての圧力が増してくる

日本の人口は若い人が少なく、逆ピラミッドの形状になっているのは周知の通りである。

ニュース知りたいんジャー:進む人口減 どうなる?日本! | 毎日新聞

僕が老齢となる2050年の人口ピラミッドが右端である。当たり前のことを言うようだが、74歳となった僕は最も膨らんでいる部分周辺にいるのである。

何が言いたいかというと、僕たちはいずれ社会の重しとして疎まれる存在になるということだ。つまり長生きして社会に貢献しようとすることを要求されなくなり、代わりに早く死ぬことを要求されるだろう。2015年の人口ピラミッドで、生産年齢たる僕たちは、老人に対して数が多すぎるだの社会保障を食い潰すお荷物だのと思っているだろうが、それと全く同じことを、未来の生産年齢どもが老人となった僕たちに対して思うようになる。

老人が敬われなくなる時代である。まぁそれは今の老人どもの自業自得だが、今後ますます強まる老人蔑視の社会風潮の中で老人となる僕たちは、老害として迫害を受けるだろう。

これは僕の予感だが、悪いことに、もう数十年したら、票田として絶対数の多い高齢者を重視していた政治家どもも老人軽視へとシフトする。小泉進次郎とかいうあの無能な働き者あたりが、注目と支持を集めることを目論んで、老人は長生きする必要はないと勢い勇んで言い放ち、それを決断力と発言力のあるリーダーだともてはやす愚鈍なゴミカス有権者どもがこぞって賛成するだろう。

まぁそうなったらそうなったで、自分の生存権を守るために徹底的に戦う心づもりであるが、最終的に、老人となった僕の守り手はいなくなる。僕はそんな社会で生きていくのは無理だ。なぜならこのとき僕は、そして僕たちは、誰からもそれ以上の生存を望まれない人間と成り果てているからだ。

未来の老人は誰の親でもない

そもそもなぜ今の時点でこのような議論が出てこないかというと、その理由は明白で、今の老人は誰かの親であるからだ。だから死んでほしくないと要望されている。しかし、これだけ婚姻率が低下し少子高齢化が進み、その結果として発生した僕たち、誰の親でもなく、生き続けていくことを誰からも望まれない老人が多数発生した場合はどのようになるか?僕たちのような老人どもに死んでほしくないと、一体誰が要望するのか?

有り体に言えば、僕たちは将来的に、早く死ぬことを要求されるだろう。年金をもらったり医療にかかったりすることは無駄金であると断じられるだろう。確かに僕たち老人が医療にかかって健康を維持したところで、労働をせず、何も社会に還元することもなく、あるいは子育てに寄与して社会の維持に貢献することもないままに年金受給だけしているのであれば、それは社会保障の資産を食いつぶしているように見えてしまうだろう。

そしてその状態になった僕たちへの攻撃は凄まじいものになるだろう。労働しようにも仕事にあるつくことはできず、医療にかかろうにも白い目で見られ、にもかかわらず生きていかなければならない。そんな地獄のような社会を僕たちは迎えなければいけないのだ。

安楽死とかいう高齢化問題の最高の解決策

誰にも生きることを望まれず、労働しようにも労働力としてみなされることもない。それでも生きている限りは生きていかなければならないというのか?そんな馬鹿な話があるか!

そんな社会から追放されたような状態で生きるくらいなら、死んだほうがマシなのではないか。どうあれば僕自身も社会も幸せな結末を迎えられるのか?合理的に考えてたった1つ社会ができることは、65歳になった時点で、年金受給か安楽死を選ばせる政策を整備することだ。

これだけ高齢者が増えて、2050年には65歳以上の人口比率が38%にもなるという。こうなればどうせ医療や年金などの社会保障は現行制度通りには行き届かなくなる。先進国の道のりを歩んできたこれまでは、社会が高齢者の面倒を見られたかもしれないが、今後は衰退国家として、幅の狭まるであろう社会保障が届かない人間を、合理的に処分する方法を真剣に検討する必要がある。

その文脈で、安楽死の議論は遅かれ早かれ活発になるだろう。

実際のところ、安楽死高齢化社会孤独死問題の解決策になる。老齢人口を適切な数まで物理的に減少させ社会保障支出を抑制し、かつ然るべき場所で人間を処分できれば、独居老人が死んで床の黒シミに成り果てることなく済むのだ。そして老人の側は、死ぬべき時に死ぬことを選択できる。率直に言って、人口比率も、財政も、そして僕たち自身の三者すべてが誰も損をしない、画期的なアイデアだと思っている

そして僕が考えるに、将来的に、安楽死制度は確実に整備される。それが高齢化問題の唯一の解決策だからだ。医療費負担が1割だろうと3割だろうと、払えないものは払えない。国だって払えないものは払えない。そのようにどちらも行き詰まったならば、手段は唯一つ、老齢人口の間引きでしかない。それを人道的に、かつ合理的に行うには、安楽死しか手段がないからである。

老齢人口を適切に減少させることができれば、少子化は止まらないが高齢化を食い止めることができる。社会保障を維持するのに必要な水準まで老齢人口を減少させ、並行で婚姻政策を奨励し、国家100年200年の計で人口の再増加を目標としてもらいたい。今後100年間は人口減少が続くだろうが、その中においても老齢人口をコントロールし、人口ピラミッドを最適化することはできる。

僕はそのためなら喜んで犠牲になろう。それに僕たちは別に生きたいと望んでこの世に生を受けたわけではない。だからせめて、死ぬ時くらいは望ましいタイミングで選べるようになってほしい。

 

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