非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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【緩やかな自殺】健康診断で精密検査判定出たけどスルーしてみた

35歳を迎えた僕は、会社の健康診断を受ける中で、初めて人間ドックというものに行ってきた。

僕自身はこれまでの健康診断においては、身長が低いこと以外は極めて健康体であり、健康に気を使うなどありえなかった。何もしなくても健康でいられたのである。

実際のところ、過去2回ほどの健康診断では、高脂血症の判定が悪かったり、あるいは血糖値が高いという判定が出たこともあった。今実感するのは、おそらく何もしなければ、30台半ばに差し掛かると、概ね何かしら健康を害するということである。すでに健康というのは当たり前のようにあるものではなく、努力して維持しなければ健康であり続けることは出来ない年齢となってしまったのだ。

今回の健康診断において、僕はとうとう要精密検査の判定を受けた。医師が精密検査を受けろというのだから、何かしらの病変の兆候が認められたということだろう。病気で死ぬ!僕は唐突にそんなことを考えた。普段からそんなに長生きしたくないと語る僕であるが、いざ死のリスクが眼前に迫るとなると、ハイそうですかと受け止められなかったものである。僕は精密検査を受けるかどうか逡巡した。

このエントリでは、僕の人間ドックでの体験を少し説明した上で、そもそも精密検査を行う必要性があるのかどうか、「緩やかな自殺」という議論をもって考えてみよう。

胃カメラは二度とやりたくない

エントリの本筋とは話がそれるのだが、人間ドックといえば胃カメラである。これは大変苦しいものだったので、折角の機会なので記しておこう。

僕は初めての人間ドックということで、胃カメラによる検査を受けることを予め決めていた。胃カメラは口から挿れるか鼻から挿れるかを選ぶのだが、鼻から入れたほうが楽だとパンフレットには書いてあったので、楽であることに越したことはないということで、僕は鼻からの挿管を選択した。

苦しみは検査前から始まった。まず洗浄剤を飲むのだが、これは少々風味に劣るスポーツドリンクのようなもので、それは別に問題なかった。次に麻酔薬を点鼻するのだが、これがまず苦しい。ひどい薬品臭がする。それが鼻を通り抜けて喉を麻酔し、鼻喉ともに挿管時の違和感をなくすとのことだったが、麻酔が効いてくると、そもそも喉の筋肉が動かなくなるので、喉に何かつかえたような不快感を感じる。当然それを異物だと判断した僕の呼吸中枢は、それを排除するために咳き込みを要求するのだが、前述のとおり喉の筋肉は動かないため、この違和感は延々と続くことになる。

続いて挿管である。鼻からグイグイと管が入れられるのだが、鼻の奥に至った時点でやはり異物感を感じゲェゲェとえずく。異物を排出するための唾液も大量に分泌されたが、それを飲み込むことは許されていない。かくして僕は唾液を垂れ流すことになり、その唾液は僕の顔面をベタベタにした。

何が楽なものか。いや、鼻からの挿管のほうが楽だというなら、喉からの挿管はどれだけ苦痛を感じることだろう。検査終了後、喉の麻酔は1時間も続き、その間は喉の筋肉が動かない以上嚥下が機能しないため、溜まった唾液を飲み込もうとすると気管支へ流れ込んでしまい、激しく咳き込む。僕は何度もトイレに赴いて溜まった唾液を吐き出す必要があった。

僕の食道から胃にかけては状態は良好だったが、逆流性食道炎が発見された。確かに炎症で色が変わっている部分がある。ここ最近気になっていた食後のゲップや吐き気はこれが原因だったらしい。自分の体内を実際に見たのも初めてだったので、それはそれで興味をそそられたが、それにしても全体を通して苦しい検査であったことに変わりはないので、検査しないと死ぬくらいの重篤な状態でない限り、僕はこのような検査を二度とするまい。

いやそもそも、鼻から喉の麻酔薬をもう少し摂取しやすくしたり、あるいは胃カメラの管自体をもう少し細くしたり、僕自身の負担が軽減されるような検査器具の開発を、医療機器メーカー各所に対して要望するものである。

便潜血陽性で精密検査判定に

便潜血の陽性判定が、今回の精密検査の対象である。これが陽性になるということは、つまり大腸内部に出血が見られるということであり、それが腫瘍によるものなのか、炎症によるものなのか、判定する必要があるということだ。そういうわけで精密検査をせよとの判定なのである。大腸内の出血は、大腸がんにおいて有意な症状の1つだからである。つまりこの僕に大腸がんの懸念があるというのだ。

祖父母も両親も癌のキャリアであるため、僕も癌のリスクを抱えているわけであるが、どうにもこの精密検査には気が進まない。なぜ僕は精密検査に臨まないのか?理由は2つあって、1つは肛門に大腸カメラを入れるという苦痛と羞恥を味わいたくないというものである。そしてもう1つは、僕の死生観そのものにある。

ちなみに腹部の超音波検査では、肝血管腫が発見された。肝臓周辺に形成された血管の集合体、いわゆる良性腫瘍であるが、判定としては要経過観察だったのと、症状もないことから、これは当面放置して問題なさそうである。

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精密検査と緩やかな自殺

僕は便潜血の陽性判定により、精密検査を要求されたが、どうにもこの精密検査には気が進まない。なぜ僕は精密検査に臨まないのか?肛門に大腸カメラを入れるという苦痛を味わいたくないという理由もあるが、それ以上に根本的なのは、僕が今の病変を治療して寿命を伸ばすということ自体に価値を感じていないということだ。

何しろ僕は、健康的でありたいとは思ってはいるものの、天命に逆らって長生きしたいとは思っていない。仮に僕が大腸がんだったとして、それを克服してまでさらに生きる必要性を感じていないのだ。

僕の人生にはすでにやることはない。僕には愛する家族もなければ、僕がいなくなっては困る友人も1人としていない。適当に働いて適当に遊んで、そして適当に死ぬだけなのに、そんな人生を長らえたところで無益である。一方で癌の発症は、僕にとっては死の準備に取り掛かる潮時といえる。身辺整理のための数カ月はその身を保つ必要があるだろうが、それ以降はどのまま緩和ケア病棟的なところでモルヒネ漬けになって幸福感のままに逝くか、あるいは安楽死を適用してもらえれば良い。僕は医療保険や税金を可能な限り受給したくないわけなので、ぜひ後者の安楽死を希望したいところである。

考えてみると、このように精密検査を無視するということは、緩やかに自殺を試みているようである。何かしら命に関わる可能性のある因子を放置し、その放置した結果の死を受け入れる点において、その行動は自殺と何ら変わりがない。

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55歳以降の人生は、公衆衛生や栄養状態の劇的改善、医学の発展という「文明がもたらした生」と言えます。人によっては50年にも及ぶ、この「新たな生」をどう生きるか。人類史上未曽有のことなので、容易に答えは出せません。 

 上記のコラムが示唆深いが、人間という生物種の平均寿命は、遺伝的には55年程度と仮定される。その論拠は、55歳をすぎると癌による死亡率が高まることと説明している。癌というのはそもそも僕たちの体内で日常的に発生しており、それを免疫系が抑制することで健康体を維持している。しかし老化によってその免疫系が衰えると、癌の増殖が抑制しきれなくなり、それが正常な組織を置き換えて病変を引き起こすというわけである。

そしてこの細胞分裂の回数は遺伝的に定義されており、その定義から逸脱したエラー細胞が多くなれば死ぬことから、そもそも生体システムがそのように設計されているわけだと考える。生物としての耐用年数を超えたと表現することもできるだろう。

この論が正しいと仮定すると、僕の人生は放っておけばあと20年もすれば、その寿命を終えることが期待できる。それはそれで好ましいことだ。僕にとって老後などないほうが良い。老後と呼ばれる時期まで生きたところで、僕には特にすることがないのだ。僕は結婚できないし、当たり前のように子供もいないから、そもそも必要以上に長く生きることそれ自体にインセンティブがないのだ。

だとするならば、今健康であること、つまり何も不快な自覚症状を持たないこと、その事実をもって今の僕の健康状態には全く問題ないのであり、だからこそわざわざ改めて病院にの世話になろうという決意が湧いてこないというわけだ。

進化心理学から長生きを説明する

個人的には、幼少期における死亡率の高さを考慮に入れるべきではないかと考えたが、原始時代はともかく、近世以降は死亡率の高さを、集団行動などの社会的行動や、あるいは知識としての医療行為を発達させることによって、回避するよう発達してきたのだ。

僕の考えでは、おそらくこういった行動すら、遺伝子がその継承を達成するための手段の1つであるとすら思える。おそらくそのような行動因子を持たなかった遺伝子の持ち主は、これまでの時代や進化の過程で淘汰されてしまったはずだ。そして、それより長く生きることができるとすれば、それは明らかに高度に発達した医療システムのおかげである。

僕が思うに、長生きするのは手段でしかなかったはずだ。村の長老とか国家の統治者が、安全で平和な社会を提供するとか世界を征服するとかの野望を抱き、一方でそのためには自らの人間としての寿命を、つまり人生の限界を突破する必要があった。

秦の始皇帝は、自らが作り上げた巨大な大陸統一国家法治主義を広めるために長生きを求め、薬だと信じて有毒の液体金属である水銀を摂取したらしいが、つまり長生きというのは、自分の究極の目的を達成するための手段だったはずなのだ。それがいつしか、長生きすること自体が美徳であり好ましいことだと認識され、長生きすることそのものが目的になってしまった。

これには理由があって、従前の地域社会において長生きが尊重されたのは、ムラの長老が持つ知識や経験が重要視され、その知識や経験を持つ長老が尊重されたからだ。断じて長老であることそれ自体をもって、その長老が尊重されていたわけではない。長老に対しての尊重と、役に立たない長生きが世話をされなくなる「姥捨山」の習俗とが両立するのは、この点から理解されなければならない。

「緩やかな自殺」を選択する

僕は社会に資する老人になることはできないだろう。何しろ僕には子供がいないので、少なくとも社会共同体の維持と拡大という、人間の社会性の目的に対して根本的に貢献していない存在である。僕のような役立たずは、今でこそ労働力を提供し少々の税金を納めることで自らに要求された社会的役割を果たしているのだが、老人として社会の世話がなければ生きていけない状態に陥った瞬間に、そこに生存していい理由を失うのだ。

そうであるならば、僕が長生きしなければ、老齢にさしかかり生存していい理由を失うと同時に、実際にその生存を放棄することができる。役立たずの老人が社会に貢献できるのは、社会から去りゆくことの一点をもって他にない。だから、将来の社会からの退去を想定し、自らの寿命を伸ばそうとしないことは大変合理的であり、その観点から僕は寿命を伸ばすための一切の行動を取るべきではない。

これは僕にとって「緩やかな自殺」である。首吊りや飛び降りなどと違って、自他ともに劇的な苦痛を伴うでもなければ他人に迷惑をかけてもいないので、自らの社会的役割と短命願望をバランス良く実現するには最適解だと思われる。

最後に僕からの提案というか願望を表現すると、僕のような将来に渡っての独身男性諸君におかれては、ぜひ精密検査の拒否を選択肢に入れてもらいたい。特に自分に長生きするインセンティブがない場合はなおさらである。わざわざ再検査で苦痛を味わったり、あるいは限りある人生の残り時間をたかだか病院のために使うべきでもない。病院の世話になりたくないのなら、その願望を叶えるべきだ。

病院に行きたくない人が病院に行かないことは、幸福な人生への第一歩である。そして、当たり前のことだが、僕のような独身男性が死んだところで誰かが何かに困るわけではない。しかし家族がある人が死んだら、その家族と親戚一族が多大な迷惑と悲嘆と絶望を被ることになるので、家族がある人は四の五の言わずに精密検査に臨むことだ。

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