人生に疲れたら懐かしい合唱曲で心を癒そうぜ
懐古趣味。現実逃避。退行現象と呼ばれても反論できまい。けれども合唱曲は、僕の精神衛生上極めて有用な役割を果たしている。
大人になると、合唱曲の歌詞に違和感しかなくなる。 大人になった僕たちは、合唱曲で歌われる美しい歌詞が虚構にまみれていることをよく知っているからだ。人はそれを、心が汚れたとか表現する。そうだ。素晴らしい未来なんてなかったし、(物理的に)翼なんて持てなかったし、遥かな空の果てまで飛び立つこともできなかったし、夢なんて叶わなかったし、桜なんて毎年のように咲いては散るもので有り難みも何もあったものではない。
大人になった僕は様々なことを考え、気を配りながら生きていかなければならない。仕事のこと、弟と猫のこと、僕を取り巻く様々な人間関係、お金のこと。それらの情報を整理し統合し、自分が最適な行動を選び、さらに実行に移すという行為を繰り返す。それが人生を歩むということである。それで僕は消耗する。
僕はきっと疲れているのだ。何も知らなかったあの頃は良かったのかもしれないと、心のどこかで思っているのだ。そしてそれは、決してあのゴミのような学生時代を再体験したいという願いではない。ただそのゴミの山のような思い出の中で、わずかながらの美化されたもののみに純度を高めた上で、回想しているに過ぎないのだ。
それでも、ある歌を歌っていた頃の記憶が、その歌を媒体にして蘇ってくる。その点において、音楽というのは素晴らしい記憶装置でもある。どんな小学校や中学校でも、合唱大会みたいなものがあって、何度も練習させられる。ふざける男子生徒、それを咎める女子生徒、なぜかやる気を出して指揮者に立候補しやがったDQN。思い出すと心当たりがある。
懐古趣味が過ぎると思わないこともない。けれど、担任の教師が語っていた「みんなで歌を歌う機会はこれ限り」という言葉は、僕が未だに覚えている程度には正しいことだったようだ。
Garagebandという一人合唱向けの神アプリ
確かに、僕がどれだけ歌いたくとも、もはや一緒に歌ってくれる人はない。ならば僕1人で歌うしかない。最近の僕は、現実逃避的に、合唱曲を一人で歌う、という遊びに取り組んでいる。僕のiPhone 6sには、Garage Bandというアプリがプリインストールされている。それは簡易的なDTMみたいなもので、音源を取り込んでセッションしたり、楽曲を編集できたりする素晴らしいアプリである。
Garage BandにMIDIや伴奏を取り込み、残りのトラックで自分が各パートを歌うのである。僕が歌うソプラノパートは1オクターブ低くなる。それはとても自由度が高い。楽譜などなくとも、それっぽく歌えればいいのだ。楽譜通り歌わなくてもいいというのは、まさに音楽をやっている気がする。何なら僕が当時(クラスの曲選定に漏れてしまって)歌えなかった曲すら、僕は思い切り歌うことができる。僕が僕の創意工夫によって、僕だけの作品を創り出すことができるのだ。自分の歌声が美しいと思ったことは一度としてないけれど、それでもコーラスが美しくキマったときは、背中がゾワリとしてしまう。
戦争を取り扱った曲は歌わない。歌っていて楽しくないから、そういう歌は嫌いである。戦争をテーマにした曲というのは、お母さんもう一度会いたいだの、生きたいだの、得てして陰鬱であり、何かしらの洗脳に近いとすら思う。合唱はもっと楽しいものであるべきだった。
義務教育を卒業してもう20年も経った。もう過去には戻れない。過去に戻りたくもない。今苦しい時だけ、少しだけ振り返るためだけに、過去は存在する。生きていくうちに心は少し濁ったけれど、こういう過去があったから今の僕がある。だから僕はまた、過去に背を向けて歩き出せるのである。