長生きとかいう人生のリスクと「死に時」を考える
いつまでも長生きしてね、という悪魔のささやき
僕は長生きしたくない人間である。長生きしてねと子供がいうならば可愛げもあるだろうが、それを大人が言ったなら、悪魔的な恐ろしさを感じてしまう。
長生きが尊ばれた時代は終わった。そもそもなぜ長生きが尊ばれたか?長生きした者には、それまでの記憶という形で保有している情報源としての価値が認められていたからだ。
旧来の、つまり有史以来からおそらく昭和末期くらいまでは、家族や地域社会などの小規模な共同体において、長生きした上でその経験を共同体を維持していくのに役立てる者がいた。彼らは長老と呼ばれ、長生きによって得た知識や経験を、共同体の維持発展のために提供していたのだ。共同体に貢献するだけの能力があるというところがポイントで、そうでない老人は長老とよばれることもなく、姥捨山という方式で処分されていたのである。
僕たちがこのことから教訓とするべきなのは、長生きそのものが人に存在価値をもたらすわけではないということだ。つまり、社会共同体の維持に貢献できない老人には存在価値がない。共同体の役に立ってはじめて、老人は長老たりえるし、尊敬に値するとみなされるのである。
しかし今ではそういった共同体自体が減少していき、核家族や単身世帯が増えている。またその信憑性はともかくとして、僕たちはインターネットという人類の知識の集合体に気軽にアクセスができてしまう。共同体そのものが失われていっていること、そして知識の媒体としてインターネットという上位互換が広まったことで、長老は存在価値を失ってしまった。また人生100年時代だといわれる中で、80年以上生きる人も数多くなり、長生き自体の希少性が失われた。こうして長生きすること自体の価値は、認められなくなってきたのである。
さて、テレビのCMなどでは、夏休みや正月に、夫婦と子供2人の4人家族が帰省し、おじいちゃんとおばあちゃんがそれを歓迎するという一幕がある。夫婦は自分の子供たちが健やかに成長し、自らの人生がうまくいっているということを報告し、両親を安心させているのである。そしてかわいい孫からは、おじいちゃんとおばあちゃんにプレゼントが渡される。「いつまでも長生きしてね」というメッセージを添えて。夫婦はニコニコしながらその光景を眺めるというものである。
長生きによって発生するデメリット
テレビで見せつけられるようなこのような理想の家族像には、僕は薄寒い感覚を覚える。子供はともかく、壮年に差し掛かった夫婦が、今後彼らに待ち受ける老親介護や病気の療養などの問題を認知していないはずがない。しかしながら、彼らはおじいちゃんおばあちゃんに長生きを要求したのだから、その長生きの結果長期に渡って介護が必要になる可能性や、来たるべき闘病生活によって家計が逼迫する可能性を受容したわけである。言ったのは子供たちだが、言うことを止めなかったのは親の責任だ。
彼らの祖父母が10年後に認知症を患って深夜徘徊やせん妄の対応をしたりしても、それが長生きした結果であるならば、長生きを望んだ以上、責任をもって受け止めるがいい。その時になって「そういう長生きは望んでなかった」と宣っても遅い。「考えが変わった、やはり長生きはしないほうがよかった」と、苦渋にまみれながら表明するがいい。それもできないならば、子供が「長生きしてね」と言ったならば、その親は
実際僕は、長生きというのはデメリットのほうが大きいと考えている。長寿国だの平均寿命が世界一だのと喜ぶのは終わりだ。現実を見よう。その平均寿命を支えるために、どれだけの社会的なリソースが食い潰されているのか。
長生きという生命の尊厳に対するリスク
生物たるもの、自分で飲んだり食べたり排泄したり動いたりができないならば、本来的には死を意味する。そんな人間が今生きているのは、基本的人権の尊重の名目のもとに、社会的な援助の提供を受けるのが前提であり、あるいはその全体によって存在を許されているに過ぎないのだ。
あるいは年金を受給目的で胃瘻処置を施されどうにか生命を維持しておくなど、その老体を媒体にして周囲の人間が潤うためだけの集金装置と化していたりもする。このような、長生きしたことに起因する反道徳的な痛みや苦しみ、醜さ、そしておぞましさにも目を向ける時がきたのだ。
そのような状態になるくらいなら死んだほうがマシだと思う。なぜならそこに人間としての尊厳が失われたように思うからだ。それは長生きによってもたらされたリスクだ。そうだ、長生きは人間の尊厳に対してのリスクなのだ。
いつまでも長生きしてほしいと願ったなら、その長生きによってもたらされた結果をも受け入れなければならない。それが老老介護だったり、胃瘻であったり、認知症対応であったとしてもだ。愛する家族と長い期間過ごせるというのは間違いなくメリットの1つだが、そのデメリットにも注目するべきだし、それを天秤にかけた時、デメリットの側に傾くのではないかと僕は言っている。物事には裏表がある。表面のメリットのみ享受することはできない。
長生きを望む態度が要求される
いや実際のところ、大人になればなるほど、長生きのリスクというのは承知しているのだと思う。「私は歳を取ったし、子供にも孫にも迷惑かけないようにさっさと死にたいもんだよ」と語る老人は少なくない。それに「そんなこと言わずに長生きしてください」と心にもなく応じるのが聞き手の様式であるが、おそらくこの老人は、心の底からそう思っているのだ。子供にも孫にも迷惑をかけたくないというのは本心からだろう。
ならばそれに相対する側の本音としては、「そうですね、元気なうちはいいのですが、介護は負担が大きいのでそうなる前にくたばってくれればいいと思っています」や、「そうですか、なら病気になったなら安楽死の手続きをとりますね」となるべきである。ところがそういう議論にならないのは、そうすることによってその人が冷たい人間だと指弾され、社会的に抹殺されることに耐えられないからだ。将来的にその面倒を見ることを強いられる側から長生きを望まないという意思表明することは、現実的な回答としてではなく、冷酷な人間の所業として受け取られるのだ。
僕が思うに、命の価値というのが必要以上に高くなってしまったのだろう。生きるということばかりに囚われて、生きているものは死ぬという真実に向き合おうとしていない。僕はこの点に欺瞞を感じる。生きてほしい、生きたい、死んでほしい、死にたい、これらの感情は極めて自然的に人間が抱くものだ。にもかかわらず死にたい、死んでほしいはなかったことにされ、見向きもされず、あるいは生きてほしいと表明することは許され、死んでほしいと表明することは許されない。
生きることと死ぬことは同義だ。生きることがよくて死ぬことが悪いというものではないから、生きることそのものに価値を偏重させる現代の価値観は、率直にいって不自然である。
そういえば独身と既婚の比較調査で、「既婚より平均寿命が短い」という結果が独身側のデメリットとして紹介されていた。アンケートの集計者にとっては平均寿命が短いことはデメリットとされていたが、僕にとってはメリットであるようにしか見えなかった。人生が短いということは、生きることに苦しむ時間が少ないということだ。また独身であったなら長生きしてもとくにやることもないし、無為に過ごすだけの人生なのだ。ならば長生きする必要性もないじゃないか。人の価値観というのは様々なのだなぁと感心してしまう。
自分の死に時を考える
これは戦国時代の武将・明智光秀の三女にして細川忠興の正室である細川ガラシャの辞世の句であるが、僕はこの散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ