非モテ弱者男性のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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一生独身が確定してるし孤独死とか葬式の対策を考えようぜ

孤独死問題は、僕たち非モテ喪男が解決しなければならない問題のうちの1つである。

僕たちは極めて高い確率で結婚することはなく、自身の死期にあたっては身寄りもないだろう。それはつまり自分の死期の前後処理の面倒を見てくれる人がないことを意味する。特に僕たち非モテが抱える問題は、孤独死後の死後処理である。

生きているものは必ず死ぬ。だから死は生と不可分であり、あるいは究極的には同義的なものだ。だからこうして僕たちが将来の孤独死を考察することには、生きることそのものの営為を観察するという意味で重要なことだといえる。

僕たちの最期は、事故か犯罪に巻き込まれるか、あるいは運良く病院に引き取られてでもいない限り、孤独死である。とはいえ病院は身寄りのない人の入院を受け入れには消極的だし、個人的な感覚では、骨折などの外傷で入院するならともかく、癌やその他の難病に罹って入院するに至った場合、それを克服しさらに新たな人生を歩もうとする孤独な高齢非モテは、そう多くはなく、積極的に来るべき死を受け入れるはずだ。そして人は死にたくなくても死ぬものである。だから僕たちは孤独死を考察し、そして許容する必要がある。

そうだ、僕たちの孤独死は避けられない。しかし多くの人は孤独死したくないという。それはなぜか?

孤独死を回避したい現実的な理由

孤独死することのそれ自体は問題ではない。生きているものが死ぬのが必然であるならば、必然であるものは問題ではないからだ。そうではなくて、死ぬことそのものにより発生する面倒事のほうを観察するべきだ。

孤独死を回避したいのは、愛する家族に看取られたいからではない。そもそも自分が愛する家族をもつことなど、非モテは期待していない。実のところこの問題は、このような愛する家族に看取られないことが寂しいという情緒的な理由ではなく、極めて現実的である。

さらに具体化していくと、多くの場合、孤独死によって腐敗した遺体が発見され、それが発する悪臭と凄惨な見た目が不快を催すことや、賃貸物件において事故物件扱いになり、将来に渡って収益に影響を与えることが問題なのだ。孤独死そのもの、つまり僕自身が誰にも発見されることなく孤独に息絶えることや、褐色の液体に変質し悪臭を放ちながらウジやハエがたかる姿になっていること自体はどうだってよくて、注目するべき本質は、孤独死後に残された(遺体を処理する)人たちの気分と実害の問題なのだ。

おそらく、孤独な人生を歩む僕たちがこうして孤独死を恐れるのには、本質的な理由がある。それは人との関わりに帰するものだ。

実のところ、僕は人との関わりを必要最小限に留めている。それには理由があって、人との関わり合いがもたらす精神的不安定を回避したいからだ。人と接すると、自分との比較であれやこれやの劣等感が刺激されたり、あるいはその相手が自分に及ばない領域を発見して優越感にひたる自分に幻滅したりする。そういった不快感を催すので、人間関係を拒絶したいが、そうすると社会的生活に支障をきたすため、人との関わり合いを最小限に留めるという妥協案を見出したわけである。一言で表すなら、人間嫌いといってもいい。

この人間嫌い属性の連中は、自分が他人の影響を受けることを許容しないし、同じように自分が他人に影響を及ぼすことも許容していない。孤独死の観点からいえば、死後処理する者の不快と絶望、怒り、場合によっては哀しみなどのあらゆる感情が、自分の営為によって発現することを許容していないし、それによって怒りや哀しみ、不快の対象となることを極度に恐れているのだ。

僕は自分が死んだ後、どうにかして火葬されて散骨されるまでを自分でできないかと考えたが、物理的にも生理的にも身体機能が停止してしまっている以上、僕自身だけではどうすることもできないと結論づけた。サルコを使えばそういうこともできなくもないが、結局火葬場まで運んでもらうのに人手が必要だ。

junny-policies.hatenablog.com

生きるとは、人に迷惑をかけることだ

そうだ、こうした一連の処理をすすめるには、どうしても他人の手を借り、彼らにそれなりの迷惑をかけざるを得ない。僕はなぜかこんなところで、1つの真理を悟る。どんなに孤独に生き、人に迷惑をかけまいと、そして人との関わりを立ちたいと願っても、人は人に迷惑をかけないと、生きていけないのだろう。人に迷惑をかけること、それは生きるということの営為なのかもしれない。あるいは人と関わりあいになることそのものが、生きることなのかもしれない。ならば、人に迷惑をかけず生きている人は、おそらく生きていないのだ。人に迷惑をかけることを忍びつつも、自らも迷惑をかけられることによって社会的な関係性を保つこと、これが生きるということなのか。「人に迷惑をかけるなと教えてきました」と宣うスーパースターの親は、つまり自分の子供に生きるなと教えてきたのだろうか。

閑話休題。僕たちはこの、僕自身を処理してもらえる人達に対する義理を欠かさないために、彼らに不快を与えないようにする必要がある。社会的に安心して孤独死できる環境の整備が必要だ。とはいえ僕が老齢になる2040年頃には、家族を持たない単身世帯が全世帯数の半分弱を占めるようになるという。これだけの世帯数の生存確認を、周囲の人とか民生委員の訪問による生存確認とか、2020年現在における主だった手法で、つまりアナログな社会的ネットワークで対応するのは無理だろう。

それなら、単身世帯には生存確認機能と死後処理用の個人情報が記録された生体ICチップを装着し、死亡したら然るべき業者が24時間以内に後処理を対応するというビジネスがあってもいい。IoTだの何だの横文字がうるさい時代だ。技術的にはできるだろうが、倫理的に問題があると見なされるかもしれない。

葬式なんかいらないし直葬でOK

孤独死における葬式というのも考察対象となるだろう。家族がいるならば家族が後処理をやればよい。葬式でも納骨でも気の済むまで好きにするがいい。しかし、家族もなく孤独であった場合は?家族がいても先立たれた場合は?好き好んで孤独であり続けた場合は?そうだ。非モテの生涯独身視点で僕はこの論を進めてきたが、既婚であっても孤独死問題が回避できるわけでもないのだ。

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常々… 逆だと思っていたんだ…
通夜のことさ
死んでからみんなにワラワラワラワラ集まってもらったって
死んだ当人には何が何やらわからぬ
せっかく集まってもらうなら 死ぬ前だ……!
死ぬ前に会い… 話があるなら… 話しておくべきだ……!
実際のところ、この世というものは生きている人間のものであって、死んだ人間の居場所はないのだ。もし話があるなら生きてるうちに話しておくべきだ。死んでから話しかけられても反応のしようがないし、ただの一方通行のコミュニケーションにしかならないし、あるいはそれは話し手の自己満足に過ぎない。
おそらく人と会って話をすることというのは、その1回1回がもしかしたら今生の別れかもしれないのだ。だから人と話す時は、誠意をもって心をこめて対応しなければならない。最後の会話に誠意を欠いて、それを謝罪することなく相手が死んでしまったなら、それはもう取り返しのつかない絶望を一生抱えることになるだろう。
僕は懐古趣味が高じてしまい、2年くらい前に、久方ぶりに学生時代の友人を集めてプチ同窓会みたいなものを開催した。これは僕の今生の別れとするためだった。最後に会って会話した記憶がとても楽しいものであったなら、きっとその思い出は美しいままであることだし、もう一生会わなくてもいいとすら思えるはずだったからだ。そしてその試みは成功した。僕は今、彼らと再び会おうとは思わない。
死んだ人間は、可能な限り生きている人間の手を煩わせずに、存在を消失しなければならない。僕も僕とて、自分が死んでしまったなら、自らの手で自分を火葬場に運んで処したいのだが、上述の通りそれは物理的に叶わない。そこは生きている人間の手を借りるしかない。手を煩わせて大変申し訳ないと思う。だがそれにかかる手間は、最小限にとどめたい。
だから僕の葬式は不要である。業者を呼び、そのまま棺に詰め込んで、火葬場へ送ってくれれば良い。僕の骨の置き場にも困ることになるだろうから、僕の墓も不要である。墓とは故人を追憶する場所だ。けれども僕を追憶するものはきっと存在しない。よって誰も墓参りに来ないだろう。上述したように、死んだ人間の居場所はこの世に存在しない。それが墓という形であっても、僕の存在がこの世の片割れとして存在していくことを、今ここに生きている僕は許容しない。
僕は海洋散骨か宇宙葬を望む。死んでから深海探査か、それとも宇宙旅行か。宇宙葬というのは、一度ロケットで地球の大気圏外まで打ち出し、地球の丸い姿が観察できる高度まで上昇した後、重力に引かれて再び大気圏に突入、その高熱で骨もろとも焼却するという処理方式である。なお僕は死んだ後には自我の認識がない以上すべての世界が存在しなくなると考えているので、死後の世界という概念には徹底的に無関心である。しかしながら、死んでから宇宙へ旅立ち、自分がかつて存在していた世界を遥かなる高みから観察した後、その世界に跡形もなく焼失し溶け消えていく!壮大なロマンがあって、本当に素晴らしいと思う。

「尊厳ある死」のビジネス化と安楽死の合法化

さて、実際のところ、孤独死の後処理問題というのは、現時点で何か解決策があるわけでもない。しかし僕は近い将来、孤独死問題の急増に対しての1つのソリューションとして、上述の生体チップによる孤独死の察知と早期処理のビジネススキームあるいはプラットフォームが開発されることを信じている。このプラットフォームがあれば、例えば老人ホームの発展型のように、単身世帯のみを集中的に引き受けて事故物件化リスクを集約し、かつ速やかな死後処理により住環境の悪化を防止することができる。マネタイズは入居者からの登録管理料だ。しかし、やはり一度人が死んだ部屋に住むというのは何ともいえず気分の悪いものだから、やはり流行りはしないだろう。
そうなればあとは安楽死の合法化しかない。例えば20歳以上で借金の返済がなく、国庫に500万円を収めた人に、安楽死施設の利用権が与えられるのだ。この世を見切った人々は、安楽死の権利を得るために500万円の資産形成を目指して働くことになるだろう。それが嫌なら、安楽死の権利を欲しがらないような社会をつくることだ。
孤独死すること自体はもはや避けようがないので問題ではない。それよりも尊厳ある死を迎えるために、できることを考える必要がある。例えば安楽死の合法化は、それを法律的に支援するものだ。「尊厳ある死」は、誰かがこれをビジネスにするだろう。死をビジネスにするのは不謹慎だというのか。葬祭業や生命保険業は、人が死ぬと金が動く、つまりビジネスになるわけで、それらの存在がある限り、「尊厳ある死」をビジネスにすることも立派な事業である。
僕たちは自分らしい「尊厳ある死」を考えよう。
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