非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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30代になったら誕生日がめでたくない件

自分の年齢を聞かれたとき、ちょっと考えないと答えられないようになった。自分の年齢というのが、どうも僕の興味関心ごとから取り除かれているようだ。

誕生日を迎えるたびに何を祝うのかずっと謎だった

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もうめったに見なくなったが、Facebookにはよく誕生会をやったというポストがタイムラインに表示されていた。その祝う側と祝われる側の幸せそうなこと!一体何がそんなに幸せだというのか。そうか。無条件で感謝しているのか。生まれてきたことを。これまでの人生において周囲の人間に支えられてきたことを。そして今後もその周囲の人間に支えられていくであろうことを宣言しているようだ。

僕はそんなことを思ったことがない。

僕にとって、誕生日はめでたい日でも何でもない。むしろ今までは、僕がこの世に生まれてきてしまったことを無性に残念に思う気持ちを新たにする日であった。生まれてきてしまったことを後悔しないようになったのは最近のことだ。今は、生まれてきてしまったものは仕方がないので、諦めて生きるだけ生きようという諦観に置き換わっただけである。

またあるいは、誕生日というのは、少しづつ近づいてくる死について、普段より濃い目に意識せざるをえない日でもある。僕は、早ければ明日にでも、遅くとも30~40回ほど春夏秋冬が過ぎ去れば、死ななければならないのである。どんなに長く見積もっても、僕の人生は今まさに折り返し地点であり、それは僕の意思とは何ら関わりなくある日突然やってくるのである。誕生日というのは、僕の人生において最大の不幸であり、最高の解放である死の存在を、意識する日なのだ。そんな日がめでたいわけあるものか!

親しくない人からの誕生日祝いは苦痛だった

僕は最近、自分のSNSアカウントから誕生日の項目を削除した。削除できないものは非公開にした。僕は「誕生日おめでとう」というメッセージを受け取りたくなかったのだ。

だいたいSNSで誕生日祝のメッセージを送ってくるという行動は、たまたま友達登録されていた僕がその日誕生日であったことをSNS側が告知したことによって発生するものだ。その時まで僕のことなど意識の片隅にもなかった人間からは、極めて儀礼的に、心がこもっているわけもない冷たいメッセージが送られてくる。僕はそれに悪意すら感じた。そのメッセージの文面上はお祝いが表現されているが、その中に祝いの意思が全く感じ取れないのだ。しかもそれでいて、それは僕に「ありがとう」と返すことを要求する。この圧倒的な理不尽と不誠実は一体何なんだ?!

僕は誕生日をめでたいと思ってないのにもかかわらず、僕は「ありがとう」という返事を返すことによって、対外的には僕が僕の誕生日をめでたいと思っており、「おめでとう」のメッセージについて有難く、嬉しいと思っている、そういう誤ったメッセージを相手に送ることになってしまうのだ。実のところ、僕は嘘をつくのが嫌いであり、自分の気持に正直になれないことに無性にストレスを感じるのである。だから鈍色に冷たく光る「誕生日おめでとう」に返信する僕の「ありがとう」は、嘘にまみれている。この時僕は、僕が誠実ではないことを直視しなければならない。にもかかわらず、僕は卑怯者で小心者だから、そんなメッセージを二度と送ってくれるなとは直接言えないわけである。

そんな僕がうまいこと誕生日おめでとうメッセージを受け取らないようにするには、自分の誕生日を人に知られなければよいのだった。誕生日を非公開にした結果、今年についてはLINEもFacebookも、誕生日おめでとうメッセージは幸いなことに0件だった!ほとんど関わりのなくなっていた人から突然「おめでとう」などと言われても、始末に困るものなのだ。

他人の誕生日はめでたい

その代償として、僕は他人の誕生日を祝うことができなくなった。誕生日を祝われた側は、お返しとばかり、きっと僕の誕生日を祝ってくれるに違いなかったからだ。しかも純粋で純真な本心から!自分の誕生日を祝わない僕が他人の誕生日を祝うことは、別に矛盾を感じない。その人にとってその人の誕生日は、祝われるべき日であるからだ。

一方で僕の誕生日は、僕にとっては、僕によっても、僕以外の何者によっても、祝われるべきでない日なのだ。これは、僕と他人とは誕生日の捉え方が異なるというだけである。「君の誕生日は全力でお祝いするけど、僕の誕生日は祝ってくれるな」と、こういうことなのだが、どれだけの人がそれを理解してくれるだろう。その前に面倒なやつだと思われるだろうな。こうして僕はきっと、誕生日を祝うことも誰にも期待されないだろう。

僕は、べつに友人にも誕生日を祝う連絡をしていない。それは僕が返礼として誕生日を祝われると困惑するというのもあるが、正直ちゃんと誕生日を覚えていないのである。月までは覚えているが日までは覚えていない。こういうのは事前でも事後でもよくないので、余計な波風を起こさないようにしようと考えついただけである。そして僕にとっては、その程度に誕生日がもつ意味は軽いのである。

誕生日は特別な日じゃない

僕が当時31歳の誕生日を迎えたときのことである。その日はごく普通に、常駐先の会社で仕事をした。その後どうしてもドーナツが食べたい気分になったので、近所のミスタードーナツに赴いてオールドファッションとエンゼルフレンチチョコを食べ、コーヒーを飲みながら仕事の続きをし、続けてブログ記事を書いたり、ネットサーフィンしつつ個人的な調べ物をした。そして久々に体を動かしたくなったので、市営のスポーツセンターで筋トレをやり、吉野家で豚スタミナ丼の大盛りを食し、汗を流すため近所のスーパー銭湯岩盤浴と温泉を楽しんだ。

30代独身男の誕生日の過ごし方としては、極めて現実的ではないだろうか?祝う人も祝われる人も、一緒に過ごす人の姿もない、何の変哲もない1日である。仕事をするだけして、好きなものを食べて好きな場所で過ごすだけだ。

自分の欲求に従うことが、幸福でストレスフリーなライフスタイルにつながることを、僕はよく知っているのだ。それは誕生日であろうとも変わらない。いわばその何の変哲もない日常と自由な時間の使い方こそが、僕自身へのプレゼントであり、そしてそれは誕生日のみに与えられるものではない。この日が誕生日でなかったとしても、僕はドーナツを食べ、筋トレをし、豚スタミナ丼を食べ、スーパー銭湯岩盤浴をしていただろう。そうだ、僕にとっては、誕生日などというのはただの日常である。僕が何かの書類を書くたびに書かされる年齢の欄の数字が、1つ増えるだけのことなのだ。

非モテ男の誕生日を祝ってくれる者などどこにも存在しない。だから誕生日はただの1/365だ。それよりも1日1日を大事に、自由気ままに、穏やかに安らかに静かに生きていく毎日こそ、僕から僕への贈り物であり続けるのだ。

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