非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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生まれ変わりたくないという話と、異世界転生小説の悲哀

僕は生まれ変わりたくない

生まれ変わったら何になりたい?という問いが昔から苦手だった。

この問いは極めて残酷である。何しろ生まれ変わるということは、もう一度生を受け、死に至らなければならないということである。サッカー選手になろうが、ハリウッドスターになろうが、平々凡々のどこぞのサラリーマンになろうが(それすら現代では場合によっては中流層以上にすらなりうる)、生きるという苦しみをもう一度死ぬまで味わうことを強要するのである。

僕たちは身に覚えがなくとも知っている。サッカー選手がどれだけ過酷なトレーニングを重ねているか。ハリウッドスターがどれだけ非凡な努力を重ねているか。そしてそのへんでサラリーマンをやっている人を含めたすべての人々が、それぞれにある事情の中で日々を平穏に生きていくために、どれだけの労力を払っているのかを。

少年時代をもう一度経験するという苦しみ

他の非モテどものことはわからないが、実のところ、僕は子供の時から生きるのがひどく辛かった。

今から思えば僕はコミュ障だったし、機能不全家庭の毒親に育てられた。誕生日に買ったケーキを目の前で踏み潰されたり、スーパーファミコンのコントローラーのコードを切断されたりしたのだ。親はそれでいて外面はよく、家に帰ると鬼のような形相になるものだから、僕はその外面の笑顔すら恐ろしいものに感じた。今でも時たまそのことを思い出して吐き気をもよおすほどである。だから僕は家庭という概念そのものに一切の期待がもてず、世間一般の人々が志す幸せな結婚生活というのが、どういうものかまったくわからないのだ。…というわけだから僕には結婚願望がまったく湧いてこないという話は別のエントリで書こうと思うが、とにかくそれくらい僕の少年時代は辛いものだった。

その辛さは人それぞれだと思うから、相対化してはいけない。「僕にとっては辛かった」という事実が重要なのだ。

つまるところ、もし僕が生まれ変わるというのなら、それは何と絶望的なことだろう。僕はあの辛かった少年時代を今一度経験したいとは思わない。生まれ変わったなら別の人間が親になるから、デジャヴのように同じ人生を歩むことはないというのか。いやもしそれであっても、その可能性を誰が否定しうるだろう。たとえ一粒でもその可能性があるのなら、僕はそんな人生など今再び歩みたくないのだ。

いや実のところ、僕には僕の、他人には他人の、辛く耐え難い少年時代の経験というのがあるはずだ。僕の辛かった少年時代は、僕が生きている限り、何らかの形で僕を苛むだろう。僕は今、ありとあらゆる人生の苦しみから解き放たれたいのだ。けれども、今ここに生きている命ならば、生まれてしまっているものは仕方ないので死ぬまで生きることになる──この僕を含めて。しかし、せっかくその生命が終わりこれ以上苦しむことがなくなったのというのに、また人生を歩み苦しまなければならないというのか。

生きることが苦しくない人がいる

にもかかわらず、なぜ「生まれ変わったら何になりたい?」と尋ねるものがあるのだろう。僕にとっては驚くべきことに、多くの人々にとって、人生はもう1度経験したいものであるようだ。おそらく、人生は苦しみに満ちてはいないと認識する連中が相当数いるのだろう。人生が苦しみと結びつかなければ、生まれ変わるという発想が気軽にできてしまう。

僕は、小学校低学年の頃に、当時の友人からこの問いを投げつけられたように記憶している。不思議な問いに思って、何と答えたのかよく覚えていない。まぁ子供の問いだから、そこに邪悪さは一欠片もなかっただろう。自分の力など及びもつかないような運命的な理不尽を、経験したことがないのだから。大人になった今だからこそ、僕はそれを理解できる。

仏教における輪廻転生

生まれ変わる、つまり転生というのは、確定された未来ではない。転生とはそもそも極めて宗教的な概念であり、仮に誰かが誰かの生まれ変わりであったとしても、その生まれ変わるもとの存在の記憶はもっておらず、したがって自分が誰かの生まれ変わりであるとは認知できない。

仏教でも似たような概念があり、生前の行いによってどこに生まれ変わるかが決まるという。それを輪廻転生といい、転生先は人間か、魚か、あるいは一粒の虫かもしれない。その間は苦しみが続くが、悟りを開くことで解脱し、輪廻転生から解き放たれるという。

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ブッダがなぜこのように思想したのか、僕には分かる気がする。おそらく人生は苦しみに満ちていて、解脱されることがなければまた輪廻転生によって、あの苦しみに満ちた人生をもう一度やり直すことになる。しかも仏教においては六道、つまり天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道のそれぞれの世界があり、解脱ができるのは人間道の世界の衆生だけである。生前の罪や徳によってどの六道に生まれ変わるかが決まる。もう人生なんか二度とやりたくないだろ?なら修行して解脱しろよ、というのが仏教の根本だと僕は解釈している。

転生先が10代の高校生である理由

「生まれ変わる」という文脈において、僕は昨今流行っている異世界転生系の小説に言及しないわけにはいかない。

ヒット作「転生したらスライムだった件」など、ラノベ業界では異世界転生シリーズは人気を誇っている。それに追随した有象無象の異世界転生ものが量産されているのであるが、その多くに共通するのは、10代後半の高校生くらいの人物に転生することだ。 その転生した先の物語もある程度テンプレ化されているが、現代人の知識を活かして便利な道具を提供したり、または膂力や魔力に優れて周囲から一目置かれたり、それによって王族やお姫様、取り巻きの女性キャラクターに好かれたり、という流れである。言い換えると、転生先で主人公は、有能で周囲から認められる存在になれる、ということである。

異世界では積極的にマウントを取れる

僕の独断と偏見によれば、このような異世界転生ものの小説を好む連中は、実のところ、自分があらゆる意味で不満を抱えている。それはすでに生きている限り好転する見込みがない。現実世界においては死をもってでしかそれが解消されえないのだ。その絶望は筆舌に尽くしがたい。しかしそれでも人生は続く。せめて、何も知らぬがための万能感と健康で若々しい肉体を誇った10代後半から、今一度人生を歩みなおすことができたなら!そんな願望が著作として現れたのが、異世界転生系小説というわけだ。

その世界では、自分の知識がすごい!ありがたい!と好意的に受け入れられ、有能であると承認され、それによって自分より知識や文化の水準に劣る異世界の人々に対しマウントを取ることができた……自分が普段現実世界でやられているのと同じように。

あぁ、異世界転生系小説を好む非モテたちよ。非モテとは、オタクとは、何とこれほどまでに全てから承認されず、不可視化された存在だったのだろう。社会や異性に承認されない人生を、こうしたメディアコンテンツによって必死に精神を保ちつつ生きてきたのだ。その現時点における対応形態が異世界転生系だと考えるのだ。

ひとえにこれは現実逃避と考えて差し支えないだろう。ところで、念のために書いておくが、現実逃避をすることは全く悪いことではない。辛く苦しい人生の中で心理的安定を求める本能的な適応行動であり、そうしないことには僕たちは、このストレスフルな社会で生きていくことができないからだ。

非モテどもよ、諸君はひどく虐げられてきた。社会からも女どもからも。それでもなお1日1日を、人生という名の一人旅を力強く歩んでいこうというのか。このように虐げられながらも歯を食いしばり、ときに悔し涙を流し、あるいは現実逃避をしながらも、うまく現実に折り合いをつけて何とか人生をやっていこうというのか。このように虐げられながらも必死に生きていく僕たち非モテの人生こそ、最も美しいものに違いないのだ。

そうだ、必死に生きていく僕たち非モテこそ、最も美しい魂をもつべきである存在なのだ。中年非モテは悲哀に満ちている。僕たちが一体何をしたというのだろう。僕たち非モテはそれでも徳を積み、きっと輪廻の中から解脱し、大いなる涅槃の世界へと往生しよう。

転生したら中年非モテ男だった件

ところで、転生先が40歳の中年非モテであったらどうだろう?多分絶望するのではないか。いやむしろ40歳の状態からのスタートが意味するところを理解すれば、つまり自分が体力的にも容姿としても最も優れていた20歳前後を経験しない状態から、衰えの進行した40歳から人生が再スタートし、さらに40年も続くという意味では、むしろ罰ゲーム的な要素が強くなるのではないか。

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僕が思うに、生まれ変わった人生など存在してはならない。人生は一度きりだ。僕の人生は、そして今このエントリを読んだあなたの人生は、今ここにしか存在しない。

生まれ変わったら、などという希望はもつ必要はない。生まれ変わりたいと願うべきでもない。なぜならあなたは生まれ変わることはない。明日生まれた命は、それより前に死んだ全ての連中の命とは何の関わりもないのだ。それが人間であろうと、どこぞの飼い猫だろうと、あるいは野山の草木であろうと、新たに生まれた生命は、今ここにある僕たちの命とは何の関係もない。それらとは記憶も含めて何も共有されないのだ。

だから安心して生き、そして死んでいくがいい。また新たな生命が生まれ、そして死んでいくだけだ。そんな世界を心から軽蔑し、そして祝福し、僕と一緒に乾杯しよう。

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