佐々木希が嫁でも浮気する渡部健と、誰が嫁でも浮気しない誠実な非モテ
佐々木希を嫁にしました、ということであれば、どうだろうか。世間一般の男どもから見れば、彼女のような美女と結婚した渡部建は勝ち組である。渡部は、一世を風靡した美女を妻にしたことで、世間の男どもの羨望のマトとなった。その渡部が今浮気をしたことが世間ではちょっとした騒ぎになっている。
美人妻がいるのに浮気する男を非モテ視点で考察しよう
僕たち非モテの中からは、このように主張する者が現れた。これだからイケメンリア充陽キャはダメだ、浮気などしない(するつもりもないしそもそもモテないからできない)我々非モテの方が結婚相手にふさわしいのである、と。
さて、この命題は正しいかどうか検証してみよう。
浮気しても性的価値は下がらない
僕たち非モテが見誤ってはいけないのは、渡部が浮気したからといって、渡部の
大前提として、結婚の前段階として恋愛というプロセスがある。 僕たちは、労働して収入を得ることで確保できる経済的基盤や、その上に立つ住居、あるいは周囲とうまくやっていくためのコミュニケーション能力、周囲に危害や不快を与えないという暗黙の了解とその担保など、このような要素を複合的に備えている。これが社会的価値であり、結婚するにおいて必要なものである。
社会的価値は浮気不倫などの不義理や、あるいは退職によって無職になったり、犯罪を犯したときに毀損される性質をもつ。 いっぽうで性的価値は、浮気や不倫によってその価値を毀損することはない。
僕たち非モテが重要視するのはこちらの性的価値だ。確かに渡部は浮気をし、メディア露出を自粛するなどの社会的制裁を受けたが、それはそれとして、彼らに集まる女が減るかといえばそうではない。渡部のような、「強いオス」であり「佐々木のようないい女に認められた男」のような性的価値の高い男であれば、彼らの性的欲求の対象になることは、女にとっては歓迎するべきことだからだ。そのような強いオスに承認されたという事実は、自らをも性的価値の高い存在として認めさせることができる。しかもその価値は、「いい女」、つまり他ならぬ佐々木の存在そのものによって担保されているのである。
こう考えて僕は、恐ろしい仮説を思いついてしまった。
佐々木は格上の女ではある。それを認めた上でその夫と性的に通じることは、佐々木の魅力よりも自分の魅力のほうが優れている証左となる。佐々木を嫁にするような優れた男が、佐々木を差し置いて選んだ私、つまり佐々木より優先された私、というブランディングである。これはある意味、佐々木よりも自分のほうが性的魅力に優れるという、佐々木へのマウントになっているのではないだろうか。佐々木に対して容姿において自分が優れていると主張できる女など数えるほどしかいないだろう。しかし上述の通り、自らがあの佐々木よりも(性的な)価値の高い存在であると説明するのに、浮気相手となるという方法は極めて合理的ではないだろうか。しかも佐々木と比較して圧倒的に矮小な自分であっても、佐々木を傷つけることができたなら、それはそれで女としてのルサンチマンを解消できるのではないか。
いつの時代も浮気男に女はついていく
浮気するような男に女はついていき、浮気相手となった女も、浮気された側の女も傷つく。これはどの時代でも繰り返されてきたことだと認識しているが、とくに非モテ側の男側は、それに警鐘を鳴らし続けてきた。その半分は、そうすれば自分も「おこぼれ」にありつけるかもしれないという下心からだが、もう半分は、その浮気男が
僕のような非モテからすれば、仮に渡部がある女に浮気を持ちかけたのであれば、その女は「あなたには嫁も子供もいるでしょう」と断ればよかったのだ。そういう意味で今回の一件は、渡部が暴力的に強要したものでない限り、このように断りもせずに浮気相手となった女どもに責任の半分がある。僕たち非モテからすれば、渡部の浮気相手も道徳的に間違っているのだが、それを理性的に食い止めるという行動や判断ができない限りにおいて、女にはその判断能力がないのだ。これらのことから考察するに、女に、
ところで男性芸能人の浮気案件は、浮気した側が非難されるのが一般的だが、今回の一件では、浮気相手となった女側に相当程度の非難が集まっている。少し前なら浮気相手の女側も被害者面できたものだと記憶しているが、これもネットメディアの力によるものだろう。マスメディアが渡部を叩く流れをどれほど作ろうと、女に厳しいネット世論は「いやそんなん渡部も女も悪いに決まってるわ。特に女、何被害者面しとるんじゃ」と、渡部も浮気相手の女も両成敗的な意見と、佐々木への同情が強いように思える。
「誠実さ」の男女差が非モテを苦しめた
さて、非モテは、浮気しないという意味では誠実である。今、ある非モテが結婚したならば、渡部と違ってその妻を差し置いて積極的に別の女をこしらえることはない。それはその妻に対して不義理だからであり、あるいは不快をもたらすからである。非モテたるもの、その辺りの貞操観念は大変しっかりしている。不義理を働かない、嘘をつかない、他人が不快になるようなことはしない、なんと誠実な男だろうか。
いっぽうで女にとっての誠実さとは、しようと思えば浮気できるほど優秀で強い男が、つまり性的価値の高い男が浮気しないでいてくれることだ。そしてそのために、女は自らの魅力を維持し続けるという無理ゲーを強いられることになるのだが、それはまた別の話である。
とにかくそういうわけだから、浮気もできないような「弱いオス」たる非モテ男ども、性的価値の低い男どもが、自らを浮気しない誠実な男であると叫んでも、それは女どもには届かないだろう。
実のところ、非モテが浮気しないのは、結果としては正しい。しかしその実態は、浮気したり他の女から目をつけられたりするほどの性的価値がない、という事実である。 僕たち非モテは、性的価値がストップ安の男どもである。渡部のそれとは天地の差がある。この事実は覆せない。その意味で、自分のほうが渡部よりいい男だと主張するのも誤りだ。
「誠実さ」こそ非モテの処世術だ
さて、冒頭の命題「浮気などしない非モテの方が結婚相手にふさわしい」を改めて考察してみよう。
こうしてみると、僕たち非モテは結婚相手としては確かに浮気リスクの低い物件だが、その視点で女が評価することはない。もう少し正確に表現するなら、浮気できるほど優秀で強い男が浮気しないでいてくれることが女にとっての誠実さであるのに対し、僕たち非モテはその条件である「浮気できるほど優秀で強い」を満たしていない。だから結婚相手としてもふさわしくないのである。よってこの命題は誤りだ。とくに今回のケースでは、「渡部は佐々木を妻にしたのになぜ浮気するのか」という文脈ではなく、「佐々木を妻にした渡部だからこそ浮気する」と解釈するのが妥当だろう。理由は上述のとおり、佐々木を妻にできた性的価値の高い男だからであり、そんな男の浮気相手となることは、女として積極的に許容できるからだ。
この騒動から非モテが教訓とするべきなのは、「誠実である」という定義が男女で異なるということだ。 僕たち非モテは、必然的に
もしある非モテが女にうつつを抜かしてこうした誠実性を投げ捨てたなら、つまり女に
だからこれは、いわば処世術のようなものだ。誠実である限り、男は男を裏切ったりしない。そこは男の不文律であり、約束であり、武士道精神のようなものだ。
そして女どもに対して誠実である必要はない。女どもにとって、非モテ男の誠実さなど取るに足らない存在だし、それを誠実さだと理解することもできないからだ。非モテはこれに媚びてはならない。もし非モテが女に対して誠実であろうとして男としての誠実さを投げ捨てるならば、他の男どもはその非モテを共同体から追放するだろう。
誠実さは、全ての非モテがもつべき大事な気概だ。僕たちは誠実さを大切に、自分が非モテであることを自覚しつつ、慎ましく生きていこう。