非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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非モテは好きな人に何も期待しない

非モテが好きな人の幸せのためにできること

人が人を好きになることは、当たり前のことである。僕はそれを理解している。

もう20年以上も前のことである。かつて僕は、おそらく同じクラスの彼女のことが好きだったのだ。

彼女が他の男と楽しそうに話をしていたとき、僕はとても苦しかった。そして時たま話をすることがあれば、それはとても幸福なことだった。

実際のところ、僕はただ彼女に触れたかった。そばにいたかった。笑顔が見たかった。そしてそこに性的欲求がなかったとはいえなかった。当時は大変汚らわしく思っていたが、それから20年も経った今では、性的欲求と恋愛というのは不可分なのだと理解できる。僕はまだまだ青かったのだ。

もちろん彼女は僕がそう欲求することを望んではいなかったし、それを僕は知っていた。そして僕は、僕が面と向かってそれを欲求しない限り、その穏やかで幸福な時間を過ごせることがわかっていた。だから卒業して二度と会わなくなるその日まで、僕は想いを伝えることはしなかった。

想いを伝えなかったのにも理由がある。僕はただ、彼女が幸せであればよかったのだ。しかし僕が告白して、それを彼女は断る。自意識過剰なのは承知しているが、それによって彼女は困惑するし、わずかでも僕の告白を断るという後ろめたさを感じさせてしまうことになる(と当時は思っていた)。彼氏がいるのも知っていたし、僕がここで告白してしまえば、結果として彼女にこうして迷惑をかけてしまうことになる。そしてさらに、僕は自分の好意が拒絶されたことによる精神的ダメージを、その身に負う覚悟がなかったのだ。

僕がそうやって関わりあいにならないことで、彼女が幸せになれるのなら、それは僕が彼女に差し上げることのできる唯一の贈り物のようだった。彼女の幸せを僕は願っている。そして僕がその幸せを与える側である必要はない。

実はこれが僕にとっては天啓であった。あれから20年経ち、その間非モテを極め続けた僕でも、好きな人のためにできることがある。それはなんと素晴らしいことだろう。それは、彼女と必要最低限以上に関わり合いにならず、その先の関係の発展など望みすらしないことだ。そうすることで彼女が幸せになるのなら、僕は喜んでダンゴムシのように石の下にでも引っ込んでいるべきなのだ。

僕がそうやって恋愛をしないことで、女が一人、幸せな恋愛をすることができる。僕はそういったことに幸せを感じるのだ。

そうして好きな人に接していくと、不思議なことに、いつしか慕情も覚めるものである。そんな自分を客観的に見ると、たかだか女一人にこうまで精神を乱されるとは、人間というのはこういったバグを抱えているおかしな生き物なのだとすら思えてくる。

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好きな人に期待すると苦しくなるという話

ところで、恋は下心、愛は真心、という言葉がある。恋というのは自分本位、愛というのは相手本位という意味である。この場合、価値観的には恋<愛という不等式が成り立つ。このエントリのタイトルの通り、これまでの文脈を踏まえて恋だとか愛だとか、僕が解りかけたことを語ってみよう。

僕が分析するに、恋というのは、自分が相手に期待することである。

ある少年が同じクラスの少女に恋をした。少女はそんなこと知る由もない。少年は少女の一挙手一投足が気になってしょうがない。ちょっと茶色がかったセミロングの髪に、ハスキーボイス、鼻はちょっと低いけれど吸い込まれそうな大きな瞳、笑顔からのぞくちょっと不揃いな前歯…少年は斜め前に座る少女を授業もずっと見つめていた。家に帰っても少女のことを思い出してもやもやしてしまう。話をしたい、一緒に出かけたい、キスしてみたい、セックスしたい、と思ってベッドの上で覚えたての自慰行為にふけるのである。

さて、この少年は少女にどうしてほしいのだろうか。少女から話しかけてほしいし、少女に笑いかけてほしいし、少女に一緒に出かけてもらいたい、等々。少年は少女に、自分の都合にあわせてくれるよう期待しているのである。

そう簡単に他人というものは自分の期待には応えないものである。

ある日少年は、少女が2つ隣のクラスの別の少年と二人で手をつないで下校するところを目撃してしまうのだ。自分があれほど期待しているのにもかかわらず手に入れることのできなかったあの笑顔を彼に振りまきながら。

ここで、幸せというものについて考えてみたい。僕が思うに、幸せとは愛の亜種である。幸せというのは、全ての人間が本能的に目指すものであり、例外はない。不幸になるべくして不幸になる人はあっても、不幸になりたいと思って不幸になるような人は僕が見る限り存在しない。そして人間は、自分の幸せも、他人の幸せも目指すことのできる生き物である

件の少年は絶望しつつ自慰行為にふけった後、その少女の幸せというのは何なのか、考えてみた。少年が少女に与えることができるものは何なのか、少年は少女のために何ができるのか、そもそも少女は何を望んでいるのか…?

少年は、少女があの2つ隣のクラスの少年に見せた笑顔の意味を考えた。あの彼は、少女が求める何かを与えることができるから、あの素敵な笑顔を少女から向けられることが可能であったのだ。そして自分にそれはなかった。少年と彼が仮に立場が入れ替わったとして、それができないことは明白であった。彼にはできて、少年にはできない。こればかりはどうしようもないのだ。

少年はその日以降、少女の幸せというのは、(少なくとも現時点では)彼と一緒にいることであるということで結論づけた。この時はじめて少年は、少女に恋したのではなく、少女を愛したのであった。

愛というのは、実はそんなに苦しくないし、自分すら幸せに感じると思われる。自分の愛する人が幸せであるなら、その隣にいるのは自分でなくともよいのだ。自分の隣に好きな人がいないと苦しい思いをするのは、それはその人を愛しているのではなく、恋しているのだ。期待してしまっているのだ。

他人に期待しながら生きることは大変な苦しみをともなう。それはともすればただの執着である。もし非モテが幸せになりたいならば、そうやって他人に期待してはならない。他人ほど自分の期待通りに行動しないものはない。

あぁ、けれど、せめて一生に一度だけでも、「お慕い申し上げております」なんて言われてみたかったな。無念だ。残念だ。

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