非モテ系のままで生きていくブログ

管理人は、寺社仏閣と鉄道と飛行機と猫を愛する非モテ系。モテないままで、流されることなく、流れるように、頑張らないで生きていく。旅行したり仕事とか人生とか考察したり。

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非モテの消費論:賢い消費は非モテを幸せにする

非モテは、そのモテないというコンプレックスのために、あらゆる消費の誘惑にさらされることになる。それは概ね外見コンプレックスに働きかけるものが多い。背を伸ばす、歯をきれいにする、シミを取る、痩せる、あるいは下世話にも性器を大きくする、中にはもっと直情的に、モテるための情報商材のターゲットになることすらある。

僕たち非モテは、こうした消費をするべきではない。

非モテは解決されない

僕たちがなぜ非モテであるのか?それは非モテ属性を多く持ってしまっているからだ。

背が低い、太っている、髪の毛が薄くなってきた、一重まぶたである…そういった外見的なものに加え、それが醸し出す雰囲気のようなものが、現代的な価値観において性的魅力の低い男性像として女どもに映っているに過ぎない。

大変残念なことに、僕たち非モテはそういう運命であるのだ。

外見的な非モテ要素は遺伝子による先天的なものだ。内面的な非モテ要素はその育った環境によるものだ。内面は家庭や学校などの育った環境によるだろうが、ある意味それは運命的な、決定論的な、そして偶然的なものであり、僕たちが積極的にそうした人生を選び取ってきたわけではない。誰だって、モテるかモテないかの二択であれば、モテるほうが良いに決まっているのだから。

サプリメントを摂取しようが、整形を施そうが、あるいは情報商材を購入しようが、非モテは解決されるものではない。しかしてそれはモテるため、すなわちこれまで僕たち非モテに見向きもせず、何のメリットも与えてこなかった女どもの気を引くための消費である。今までそうして非モテを認知すらせず、あるいは迫害してきた女どもの気を引くために、気を引くことができるとも限らない不確実な商品を購入するのか?

非モテのくせにそうやって女どもに媚びるのか?女は強い男を好む。強さを見せることと媚びて気を引こうとするのは明らかに違う。そして、女は自分に媚びる男には冷たく対応することを、非モテであれば身にしみて知っているはずだ。

あるいは僕たちが万が一非モテでなくなったとして、当時非モテであった僕たちに対して冷たい仕打ちを浴びせた女どもから得られるものは何だ?何かを得たとてそれは僕たちの幸福に貢献するものなのか

僕たち非モテは、学生時代に嫌というほど受けた女どもの冷たい仕打ちを忘れない。メールアドレスや電話番号を教えてくれなかったり、イケメンと僕たちで対応が変わったり。今あなたが気に入ってもらおうとしている女という生き物は、そういう性質をもっているのだ。

それは当然である。僕たちは少なくとも現代的価値観からすれば遺伝的に劣っていて、性的魅力がないのだから。種の繁栄のためには劣った遺伝子は淘汰される必要があるし、それはある意味本能的行動といえる。

そうやって淘汰される側の僕たちが、それを覆そうとモテない状態の改善や解決を目指すのは、明らかに見合わない消費になるだろう。いわばそれはただの浪費である。僕たちは非モテなのだから、自分の資本は自分のためだけに使ってやるべきなのだ。

賢く消費して幸せになる

賢い消費者とは、自分自身が求めるものをよく知っており、それに対してどの消費が最適なのかを考察するだけの洞察力と判断力のある人のことである。賢い消費者は、それがどんなに世間的に広まっていようが、それが自分の幸福に貢献しない=自分が必要としていないと判断したならば、見向きもしない。僕たち非モテが幸せに生きるための手段の1つが、このような賢い消費者になることだ。

例えば食生活に興味のない人は、素晴らしい料理であっても、自分にとっては生命維持以外の役割を果たさないことを知っているから、毎日モヤシ炒めやカップラーメンを食べていても苦にならない。食物摂取によって生命維持という目的が達成されてさえすればいいからだ。むしろ何を食べようか考えたり、あるいは食物摂取に要する時間を可能な限り最小化できることを喜ぶだろう。

賢い消費者は食わず嫌いではない。賢い消費者でも、ある製品やサービスを購入するべきかしないべきか、判断に迷うこともあるし、あるいは本来必要であるにも関わらず、知識不足や固定概念によって不要と判断することもある。そうした判断ミスが自分自身の幸福の追求にならないことを賢い消費者は知っている。

非モテにおける賢い消費とは?

僕はこうした観点から、非モテの消費について、思うところを書いてみよう。

非モテなら誰しも経験があるはずだ。モテたいなら何をすべきか?髪を切れ。服を買え。はやりの音楽を聴いて映画を見ろ。あるいは婚活パーティや街コンに行け。おしゃれなレストランやカフェの知識を蓄えろ。そう言われたはずだ。それら全ては恋愛や結婚を目的にした消費につながっていく。

これらは社会的にはモテ非モテ問わず要求される消費である。しかし、果たしてそれらは僕たち非モテの幸福に貢献しているだろうか

非モテたる僕は、上述の通り、モテるという目的の消費をしてもモテるようにはならないことを知っている。目的を達成しえない消費、それはただの浪費といって差し支えないだろう。あるいはそういった消費をしたという事実が欲しいか、そのモノ自体に所有欲が沸いているだけだ。とはいえ所有欲は満たされると幸福になることができるので、原理的には消費するべき対象となるのだが、いずれにしても消費に充てられる資金は有限であることを考慮する必要がある。

賢い消費というのは、単純にコストパフォーマンス(コスパ)を追求するだけのものではない。あくまで自分の幸福に貢献するのであれば積極的に消費する姿勢が重要である。

その観点からすると、例えば髪を切るのは、髪が伸び放題だったら(営業職の僕は)労働に影響が出るし、衛生的な面もあるから、幸福になるならないか、あるいは非モテかそうでないかにかかわらず、必要な消費である。けれどレストランやカフェは?おしゃれなランチで3000円払ったり、あるいは500円を超えるコーヒーを飲むことで、僕は幸福を感じるだろうか?また街コンや婚活パーティについても、非モテが参加してパートナーを見つけるという目的を達成できるのだろうか?

これらの消費を非モテの立場から観察すると、元をたどれば異性を惹きつける魅力を得るための消費であることが見いだされる。だが僕は知っている。非モテがモテることを目的に消費をしても何も変わらず、自分が非モテであるという事実を突きつけられるだけだということを。そしてパートナーを見つけるという目的すら達成することもできない。とくに街コンなどはそれをその場で体感するだろう。自分が異性から必要とされないという事実を(知っていたのに改めて)突きつけられるのは、大きな苦痛を伴う。何よりも自分自身が望んでいないことに対して消費をすること自体、大変なストレスでもある。嫌いな上司に連れていかれて申し訳程度に支払う飲み代のようなものだ。

そういう結末を迎えることが確定的な消費が、果たして自分の幸福の最大化に貢献しているのか?

賢い消費は非モテを幸せにする

何十年も非モテをやっていると、それらの消費の本質に気付くのだ。僕たち非モテはもはや、そうした恋愛や結婚を目的にした消費に付き合ってやることはない

そんなことをしても、恋愛マーケットにおいて自分の価値のなさを(自覚していたのに)まざまざと見せつけられるだけで、ただ落ち込むだけだ。あるいはそうやって消費した分、どうしてこんなに努力したのに報われないのだと女を逆恨みし、インセルのような危険な思想にのめりこむきっかけにもなりかねない。

そうやって落ち込んだところで奮起すればいい?そんなバイタリティのあるやつがこのエントリなんか読んでいるわけがない。

僕たちはたまたま非モテという属性をもっているだけであり、しかしながら非モテであることを理由にして自分自身そのものに失望してはならない。だからといって自分が不得意であったり適性のないマーケットに打って出て、必要以上に打ちひしがれる必要はない。

僕たち非モテはもっと賢く消費することで、幸せになることができる生き物なのだ。そのためには自分自身をよく観察し分析し、自分の幸せについてよく知っていかなければならない。どうせ死んでしまうという絶対的な不幸の中で、自分が何に幸せを感じるのか。幸せの価値基準を自分の外に、例えば社会や他人に置いてはならない。

僕たちはあと50年もすればどうせ死んでしまうのだ。非モテでありつつも、賢い消費を通じて、死ぬまで幸せに生きていこう。

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